インタビューのために古屋真弓(46)を訪ねた日、通されたのは、日本民藝館の真向かいに構える古い屋敷1階だった。大谷石が敷かれた広い玄関でスリッパに履き替え、黒光りのする板張りの床をそっと踏みしめると、微かに軋んだ。柳宗悦が暮らしたというこの屋敷には、「日本民藝館西館」の表札がかけられている。
案内されたのは生前の柳宗悦が家族とともに食堂として使用した部屋だった。中に入ると障子越しに日光が差し込み、美しい陰影に出迎えられた。白い土壁、組み木の天井、窓の格子。長く使われてきた自然素材の空間に清々しい空気が充ちている。
古屋が日本民藝館を初めて訪れ、「わたし、ここが好き!」と直感したのは18歳のときだった。それから仕事として民藝に関わるようになるまでの間、関わり方はそのときどきで違ったものの、古屋と日本民藝館とのつながりは途切れなかった。「何か役に立てることがあるのなら」と日本民藝館を思い続けてきたという。
日本民藝館がそれほど古屋にとって大切な場所だったのは、なぜなのか。
理科教師「地球は滅亡する」に衝撃
1936年に開設された日本民藝館は、約1万7000点の工芸品を所蔵している。一部が国の有形文化財にも登録されている民藝館は、貴重な史料を貯蔵する場所として多くの人を惹きつける。
提供:日本民藝館
18歳の直感につながる伏線はあった。
東京郊外で育った古屋は、花びらで色水をつくるなど、こまごまとしたおままごとのような「生活」の遊びが好きな女の子だった。
地元の公立中学に進学したある日、理科の授業で教科担任の「地球は滅亡する」という言葉に衝撃を受けた。突拍子のない話だと笑い声をあげた生徒たちに、教師は地球温暖化や環境汚染の状況を具体的に数字を引いて説明し、「今の暮らしを続けていたら本当に地球は滅びるよ」と言った。
13歳の純粋さで環境保護団体などに話を聞きに行くなど環境問題の勉強を始めた古屋は、お小遣いで買ったコンポストを自宅の庭に設置して両親を驚かせた。
在日韓国人の友だちがいたため、マイノリティの立場について考える機会もあった。高校時代には、バングラデシュにひとりで短期留学に行ってしまう友人がいたりして、環境や少数民族について考える刺激は身近だった。
「そうしたひとつひとつの体験が積み重なって『民藝』のもとにまとまったのが、18歳だったように思う」
と、早熟のわけを古屋は振り返った。
地元の公立高校から国際基督教大学(ICU)へ進み、異文化コミュニケーション学を専攻。卒業後はアメリカの大学院に進学することが決まっていた。
アメリカに行ってる場合じゃない
桂樹舎は、丈夫な和紙を生み出す八尾和紙の製法を「かたくなに」守り続けることを掲げる。
桂樹舎 公式ホームページ
ところが、大学4年の夏、富山を旅した古屋は、八尾町で伝統工芸「八尾和紙」をつくる桂樹舎という工房に立ち寄り、魅せられた。八尾和紙は室町時代から越中富山の薬売りが薬を運ぶ紙のかばんの材料として使われてきた。だが、明治期、急速な機械化に伴い紙が安く大量生産されるようになり、廃れた。
そんな中、ある人物がひょんなことから伝統的な紙漉きを始め、柳宗悦との出会いにより、紙漉きを一生の仕事に決めた。その人が桂樹舎の創設者だ。八尾和紙は民藝にゆかりのある工芸品のひとつになった。八尾町の古くて美しい町並みも古屋に強い印象を残した。
「ああ、わたし、アメリカに行っている場合じゃないって思いました。こういう地域の暮らしとともに人から人へと受け継がれてきた美しさを残したいと思って生きているのに、なんで言語のコミュニケーションを学ぶために、この美しいものがある場所から遠く離れたアメリカに行こうとしているんだろうと思ったんです」
古屋はアメリカへの留学を取りやめて休学すると、1年をかけて日本各地の手仕事の現場を訪ね歩いた。焼き物、織物、漆工、茅葺き屋根の葺き替えなどだ。
そしてある日、日本民藝館を訪ね、受付の職員に話しかけた。自分がどれほどこの場所が好きであるかを訴え、少しでも長くこの場所にいたいので掃除でもアルバイトでもいいので、募集していないかと尋ねた。
すると、受付の女性はこう話した。「あなたがやりたい仕事は学芸員だと思う。こういうところで働く人はみなさん、学芸員よ」。
学芸員とは博物館法に定められた国家資格だ。博物館や美術館で、研究・調査、収集・展示普及、保存・管理に携わる専門的職員だ。
仕事3年で辞め、家族でハンガリーへ
この頃から古屋の針路は日本民藝館に向かって旋回を始める。だが、その速度はあくまでゆっくりとだ。
当時、国際基督教大学には学芸員の資格取得のカリキュラムがなかったため、卒業すると、東京都立大学に学士編入し、2年かけて学芸員の資格を取得した。
一般的に美術館や博物館の学芸員はポストに空きが出ることは少なく、学芸員の職を得るのは容易ではない。だが、古屋は日本民藝館と関わりを持ちたい一心だった。日本民藝館の学芸員になれなくても学んでおいて無駄にはならないだろうとの思いもあった。
そして卒業後に就職したのは日本民藝館ではなく国際交流基金だった。
「日本から手仕事がなくなってほしくないという思いはありました。国際交流基金での仕事を通して民藝などを海外に紹介すれば、海外での評価が高まることでゆくゆくは日本の国内での再評価を生み出せるんではないかという思いもありました」
国際交流基金は外務省が所管する独立行政法人だ。国際文化交流事業を行い、日本への理解を促し、多様性の理解に寄与する役割がある。海外22カ所に事務所を置き、現地で日本文化の普及や交流事業を行っている。
「日本の友人を増やし、世界との絆をはぐくむ」をミッションに掲げる国際交流基金。2021年からは日本の工芸品を世界に向けて紹介する動画なども発信している。
YouTubeチャンネル:The Japan Foundation国際交流基金より
ところが、古屋は3年で退職した。同じ職場で働くパートナーのハンガリー赴任に帯同するためだった。いずれ、古屋にも海外赴任のチャンスは訪れたはずだが、仕事を辞めて家族でハンガリーに移り住んだのは、子どもが生まれていたこととも関わりがある。初めての子育てで、乳幼児期は親にとっても二度は体験できない貴重な時間だ。古屋は大切な時期を家族で過ごすことを選んだ。
古屋にとって仕事を手放す決断が簡単だったわけではない。
「産休を取得して子どもを産んだのは28歳でした。周りを見渡せば、同じ世代の友人は仕事のおもしろさがわかりはじめ、生き生きと仕事をしていました。自分の選択は家族にとってベストだとは思っていましたが、もやもやとした思いがなかったとは言えません。やはり迷いや不安はあったと思います。
ただ、決めたことなので、そうするしかない、という気持ちだったかもしれません」
29歳の古屋は生後半年の息子を連れてハンガリーに向かった。2002年のことだ。そして移り住んだ首都・ブダペストでは思わぬ体験が待っていた。
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(文・三宅玲子、写真・伊藤圭、デザイン・星野美緒)
三宅玲子:熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜14年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルブログ「BillionBeats」運営。