ハンガリーには海がない。ルーマニアやオーストリアなど7つの国々に囲まれた東欧の共和国だ。人口1000万人弱で、カトリック教徒が4割近くを占める。1989年に議会制民主主義に移行するまでは、長く共産党一党体制だった。国民1人あたりのGDPは2020年時点で約1.5万米ドル。187カ国中45位だ。
日本からは自動車メーカーや関連の部品メーカーが欧州の製造拠点として進出している。在留邦人数は約1700人。文化交流の面では、両国間で50年以上にわたり国費留学生の受け入れを続けてきた。1991年には東欧13カ国を取りまとめる国際交流基金の事務所が開設された。
同僚だった夫の赴任に伴い、古屋真弓(46)が生後半年の息子を連れてブダペストでの生活を始めたのは、2002年のことだ。
ハンガリーに限らず、海外の都市に行けば、日本企業の現地駐在員や家族たちからなる日本人コミュニティがある。彼らは互いに比較的近いエリアに暮らし、そのエリアにはアジアンマーケットを見つけることができる。
ところが古屋と家族は現地コミュニティに入ることを意識した。
アジアンマーケットに行く代わりに、毎朝地元の人が行く市場に出かける。旬の野菜を買い、野菜売りや精肉屋の店員と話す。小さな息子を連れていると、必ず誰かしらに声をかけられた。アジア人の少ない土地柄で人種差別もなくはないと聞いていたが、いやな思いをすることはなかった。
消費の旺盛な国ではない。代わりに、ハンガリー人はなんでも自分でつくる。手づくりできないものだけを買うという彼らの生活スタイルは、古屋にはむしろ豊かな暮らしに映った。
8月には3日間に渡り民芸祭が王宮広場で開かれる。広場に全国から手仕事の職人が集まり、織物、陶芸、籠、刺繍、木工品など、手仕事をいっぱいに広げる。実演を見ることもでき、古屋は職人と言葉を交わした。道具の使われ方やつくり方が受け継がれてきた背景を説明する職人の言葉に胸が踊った。
それは学生時代に1年をかけて日本を歩き回ったフィールドワークと重なるような時間だった。
日本に比べて物価が安いブダペストで駐在員の暮らしは派手で贅沢になりがちだ。だが、古屋はなるべく現地の暮らしと近い金銭感覚で、ブダペストの人々の生活を同じ目の高さで見ようとした。
ハンガリー保育に見た民藝の思想
ブダ城の広場で行われる民芸際は、1000人近くの人が出店する大規模なイベントだ。
ブダ城民芸祭 公式ホームページ
手仕事を大切にする国柄のハンガリーで、多様な価値観を認めるという民藝の思想と同様の考え方が人々にも概念としてまで共有されていたかはわからない。だが、ローカルの人たちと暮らしを通して交わる日々は、民藝の思想が世界共通であるということの実体験となった。
それを古屋が最も体感したのは、子育てを通してだった。例えば、ハンガリーでは子どもが手を動かすチャンスが自然にあちこちに用意されていた。
「公園に行くと、その辺に羊毛が置いてあって、羊毛フェルトをつくることができます。蜜ろうをつくるワークショップなどもあちこちで開かれています。針と糸を使って刺繍をするのも、ナイフを使って木彫りをするのも、特別ではなく、無料で用意されていて、誰でも参加できます。
こうした子どもの体験する手仕事の場がごく日常にありました」
子どもが手仕事をごく自然に体験できるような配慮は、一人ひとりを尊重する保育の考え方の表れでもある——。2歳になった子どもが現地の保育園に通うようになり、古屋はそう感じた。自分が尊重されていると子ども自身が感じられる保育だった。
この出来事は、種を蒔くということについて古屋に考えさせた。
「社会に影響を与えるためには、大人にダイレクトに話すのが近道だと思っていました。民藝を伝える際の対象は大人だと思っていましたから。
でも、手仕事を通して暮らしを楽しむことを知らず知らずに体験していく息子を見ていて、種を蒔くとはこういうことなんだな、と思いました。彼らが大人になるまでには時間はかかるけれど、もしかしたら、子どものうちに本質を体験することの方が、彼らが大人になったときに社会に影響を与えられる可能性を考えると近道かもしれないと思いました」
18歳になった息子は今もハンガリーを第二の故郷だと大切に思っている。
何かを手放すことはおしまいではない
ドナウ川に隣接するブダペストの街並みは、「ドナウの真珠」と呼ばれるほどに美しいことで知られる。
Yasonya / ShutterStcok
4年半ののち、家族は帰国した。古屋は少しずつ社会とのつながりを再開した。
コダーイ芸術教育研究所という団体でハンガリーの保育を伝える仕事に就いた。
保育園での美術を考える研修に参加していたあるとき、チームメンバーの保育士たちが日本民藝館に行ったことがないと聞き、案内を買って出た。
そして訪ねた日本民藝館で、挨拶のために事務所に出向いたところ、「他の曜日は何をしているの? もし時間があれば手伝ってくれない?」と声をかけられた。
そして民藝の普及活動を行う日本民藝協会で週2日の勤務から始まり、少しずつ日本民藝館の仕事が増え、2015年には日本民藝館に学芸員として採用された。古屋に声をかけたその人が今の上司だ。
18歳で日本民藝館を訪れ「ここ、好き!」と直感してから、学芸員として場所を得るまでには、いくつかの「点」があったと古屋は言う。
「点」とは、就職時に国際交流基金を選んだこと、子どもを授かり家族でハンガリーに移り住んだこと、ハンガリーで手仕事を通して民藝とは何かを違う角度から考えたこと、などだろうか。一つひとつの「点」には古屋の人生の分岐点が重なっているようだ。
例えば、国際交流基金を退職して夫に帯同する選択をしたとき。数年のうちに本人にも海外赴任のチャンスがあることは確かだった。社会における仕事より、その時点では子どもを授かった自身と家族の暮らしを大事にしようと思った古屋の中には、「生活」を大切にする価値観がままごとが大好きだった幼少時からずっとつらなっている。
子どもがごく小さい時期に家族が離れて暮らし、国際交流基金での仕事を続けるという選択は、古屋にはしっくりこないものだったのだろう。
「自分のキャパシティの問題で、そんなに何でもかんでもできないという気持ちもあった」
と古屋は振り返った。
ブダペストでは、ハンガリー人と結婚して暮らしている日本人との出会いに恵まれた。保育士として現地の保育園で働く人、通訳や日本料理の教室など、能力を活かした仕事を得ようと試行錯誤する人、ハンガリー企業で働く人など、それぞれに置かれた立場でがんばる人たちだった。
「外国で暮らしていくことは簡単ではありません。外国人が現地で仕事を持つことが大変な中で、眉間にしわを寄せるのではなく、どうやって日本人としてのアイデンティティーを持ちながら生きていくかを考えている人たちでした」
自分の根を持ちながらしなやかに生きている彼女たちについて話す古屋には尊敬の思いが感じられた。
二つのものは選べないというときもある。だが、何かを手放したとしてもそれでおしまいではない。
「そのときどきで『好き』とか『面白そう』とか、興味を持ったことを大事にしたらいいと思います。それがすぐに形にならなくて、『わたし、今、何もやってない』とか『何の役にも立ってない』とか焦ることもあるかもしれません。
でも、好きなことを点としていっぱい持っていれば、いつか点と点がつながって線になることってあるんだと思います」
古屋は日本民藝館で学芸員の実習をしたあとも、仕事と関係なく折に触れ日本民藝館を訪ね、英語のキャプションをつけるなど、ちょっとした手伝いを続けてきた。
「何か役に立てればそれがいいな、と思っていました」
日本民藝館がただただ好きで、仕事になるかならないかは関係なく関わっていたいという純粋な思いを持ち続けていたことが、ゆっくりと日本民藝館につながった。
「ご縁ってそういうものだなって思います。流れがこんなふうにつながっていくこともあるのかなって」
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(文・三宅玲子、写真・伊藤圭、デザイン・星野美緒)
三宅玲子:熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜14年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルブログ「BillionBeats」運営。