優秀すぎる人事社員は、実はこの世に存在しない人物だった……フルリモートワーク企業のある実話

パソコンで仕事をする女性

Shutterstock/KoOlyphoto

「わたしたちみんな、だまされているんじゃないかしら」とは、SF小説『時は乱れて』のセリフである。

本書の主人公はある日を境に、自分を取り巻く全ては紛いもので、家も、立場も、隣人すらも誰かに作られたものなのではないか、という果てのない疑念に苛まれることになる。

こうした考えはわりとポピュラーで、「自分以外はみんな宇宙人なのではないか」とか「この世界は実はバーチャル空間なのではないか」などという空想を、誰しも一度は経験したことがあるだろう。

とはいえ、あくまで空想は空想のはず、だった。まさか20代も後半になって、そんな空想が現実のものになろうとは——。

仕事の速い若手社員、「遠藤ひかり」

時をさかのぼること、2019年6月。

「フルリモートワーク」という耳慣れない就労形態でキャスターと業務委託契約を結ぶことになった私は、自宅のパソコンの前で胸を高鳴らせていた。

フルリモートワークはその名の通り、一切の出勤をせずにオフィスから離れた場所で働くことを指す。新型コロナウイルスの感染拡大後に一躍脚光を浴びた言葉だが、2019年当時は非常に珍しかった。

キャスターは企業のオンライン化・リモートワーク化のサポートを事業の柱としている企業だ。その世界観を体現するべく、自社も700人以上のメンバーのほとんどがリモートで勤務しており、採用面接から各種契約、その後の業務まで全てがオンラインで行われる。

オンライン越しのやりとりはあれど、実際に顔を合わせる機会が一切ないままに契約が進んでいくことに、一抹の不安と、それに勝る興奮を感じていたことを覚えている。

私の契約手続きを担当してくれたのは、「遠藤ひかり」という名の女性だ。彼女からの最初のメールは、さっぱりとした事務的なものだった。

「お世話になります。株式会社キャスター採用担当の遠藤です。6/7に契約条件の詳細についてご連絡しております。そちらの内容を確認いただき、契約書の発行に進みたく存じます」

取り立てて特別なこともない、一般的な案内だった。「遠藤様、ご連絡ありがとうございます」と返信すると、何分も経たないうちに返信がくる。簡潔なやりとりではあったが、手際の良い対応に好感を覚えた。

「こんな社員がいる会社なら安心して働けそう」

遠藤ひかりチャット画面

筆者提供

ふとチャットのアイコンを見ると、ぴんと背筋を伸ばした若い女性が、カメラを見据えて柔らかく微笑んでいる。

文面から感じる印象の通り、洗練された容姿だ。若くて美しく、仕事もできるとは。このような社員がいる会社であれば、安心して契約ができそうだと、フルリモートワークへのかすかな不安が払拭されていく。

そうして、人事社員「遠藤ひかり」とのファーストコミュニケーションが終わった。

それからもことあるごとにやりとりを重ね、遠藤氏との付き合いも2年近くなって、絵文字をつけるようなフランクなメールも送ってくれるようになった2021年。私は同僚から衝撃の事実を告げられることになる。

「そういえば遠藤さん、実在しないらしいよ」

耳を疑った。

「え?どういう意味?」と動揺しながら、(オンライン会議ツール越しに)何の比喩表現かと問うと、そのままの意味だと返答があった。

なんと「遠藤ひかり」という人物は会社に存在せず、その実態は複数人の人事社員が運用する、人事部の具現化・擬人化ともいうべき架空の人物だったのだ。狼狽する私に追い討ちをかけるように、同僚が言う。

「ほら、他にもいるじゃん。ローム君とか、こまちさんとか……」

各部署を象徴するキャラたちは心強い味方

そう、実はキャスターには、他にも各部署を象徴するキャラクターが存在する。

労務を担当する「ロームくん」、年末調整を担当する「年調さん」、休暇などの勤怠を管理する「勤怠マン」、書類の提出を担当する「まるひちゃん」、稟議申請を担当する「武曽こまち」——。

疑問や相談がある時はチャットツールで彼らに連絡すると、素早く課題解決に向けて動いてくれる、心強い味方だ。

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実際にキャスター社内で使われているアイコンは、ここでは非表示にしています。

筆者提供

彼らがキャラクターであることは理解していたが、遠藤氏がその一員であるとは想像だにしなかった。

というのも、前述の通り、キャスターは基本的にほぼ全ての社員がフルリモート勤務。1年以上、毎日のように会議をしている同僚ですら、ハンドルネームで呼ばれていたり、会議にアバターで参加していたり、本当の顔や名前を知らないことも珍しくない。

その点「遠藤ひかり」は名前も本名のように思えるし、アイコンも人間であるし(ドラゴンやカエルなど人以外のアバターで会議に参加する社員もいる)、実在の人物であることを疑う余地はなかったのだ。

事実を知ってから思い返してみると、確かに遠藤氏には「淡々とした時」と「フレンドリーな時」があり、なるほどあれは対応者の差だったのか(ちょっと仲良くなれてきたからだと思ったのに)、やたらとレスポンスが速いのは複数人で運用しているからだったのか —— 怒涛のように謎と謎が結び付き、さながらミステリー小説のクライマックスである。

メリットは複数、デメリットはない「架空の人物」

AI

Shutterstoc

担当者に話を聞くと、上記のような部署共有アカウントの運用が始まったのは2016年、「遠藤ひかり」自体は2017年から開始したのだという。現在「遠藤ひかり」は業務委託4名・従業員1名の計5名のメンバーで運用されている。

目的は業務の属人化防止だ。一つの共有アカウントを作ることで、各担当者に問い合わせが散逸することなく、情報を集約することができる。

デメリットはないとのことだが、運用上、対応を標準化するためのマニュアル化とトレーニングは必須となるそうだ。

一方、運用が軌道に乗れば、業務委託者の数を増やすだけで、上下する業務量に柔軟に対応することが可能となる。人材確保が難しい状況でも、時短勤務やスポット勤務などを組み合わせて運用できることは、大きなメリットだという。

とはいえ、これは単に共有アカウントのメリットだ。人事部専用のメーリングリストや、「人事部共有アカウント」という名前のアカウントでも変わらないはずで、わざわざ架空の人物を紐付けるメリットはどこにあるのだろう。

この点について、いち社員として遠藤氏と交流して感じたのは、人格があることで相談のハードルが格段に下がるということだった。仮に彼女が「人事部・共有アカウント」という名前だとしたら、人事部に相談すべきかどうかわからない曖昧な事柄について、まずは知人に相談したように思える。結果的に問い合わせが散逸し、情報の一元化は困難になっていただろう。

「見知った人」という属性に対する心理的な安全性は、想像しているよりもはるかに大きいようだ。たとえそれが架空のものであろうとも。

リモートワークで揺らぎ始めた「実在」。SF小説の世界はすぐそこ

アバター

Shutterstock

オフィスに出勤するワークスタイルでは、同僚の多くは文字通りの顔見知りだ。膝を突き合わせて会議を行い、どんな背格好でどんな顔をしているのか、容易に知ることができる。多くの場合、一人の人物は一つの人格で運用されている。

しかし今、私たちは何百キロも離れた場所で会議を行い、テキストのみで複雑な議論を展開し、アバター姿で談笑することすらある。姿も声も変えることができる電子の世界で、「実在」はどうやって証明するのだろうか? そもそも「実在」する必要はあるのだろうか?

「架空の人物」という概念は斬新に思えるが、今でも病気などで欠席した社員の業務を、一時的に他のメンバーで補完するケースはある。また、異なる職能を持つ複数人が協力することで、一人ではなし得ない大きな成果を得ることも多い。

これはクリエイターの世界ではひんぱんに用いられている手法で、かの有名な「藤子不二雄」も、藤本弘氏と安孫子素雄氏の共同ペンネームである。

つまり会社運営においても、一人の人物を複数の人格で運用する合理性があるはずなのだ。そう、遠藤ひかりのように。

フルリモート、オンラインで仕事をすることが当たり前になる時代には、そもそもビジネスパーソンという「人格」自体が、その定義を変えていくのかもしれない。

(文・伊美沙智穂


伊美沙智穂:1993年生まれ。立教大学卒業、株式会社NTTドコモの法人営業部を経て、現在は株式会社キャスターのUIデザイナー、Business Insider Japanでライターのほか、個人でもWEBメディアを運営するフルリモート・パラレルワーカー。1児の母。新しい仕組みやテクノロジーが大好きで、育児や家事、仕事など、積極的に生活に取り入れている実体験を元に記事を書きます。

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