マイクロソフト(Microsoft)によるニュアンス(Nuance)買収はその金額も相まって大きな注目を浴びている。
Microsoft
米マイクロソフトは4月12日、ヘルスケアサービスの強化を主な狙いとして、人工知能(AI)や音声認識技術を手がける米ニュアンス・コミュニケーション(Nuance Communication)を買収すると発表した。2021年末までの買収完了を目指す。
マイクロソフトにとっては、ビジネス特化型SNSのリンクトイン(LinkedIn)買収に次ぐ規模の大型案件で、ニュアンスの企業価値は160億ドル、純負債を加味して197億ドル(約2兆1500億円)と想定される。
時代遅れの医療システム
ニュアンスは対話型AIツールで知られ、例えば、音声認識ソリューション「ドラゴン・メディカル・ワン(Dragon Medical One)」は、医師と患者のやり取りを録音してテキストに書き起こし、患者の電子カルテ(診療記録)に直接入力してくれるもの。
マイクロソフトのサティア・ナデラ最高経営責任者(CEO)は発表した声明のなかで次のように述べている。
「ニュアンスはヘルスケアの現場にAI機能を提供する一方、エンタプライズ(大企業)AIの現実的な応用分野を切り開いてきたパイオニアでもある。AIは優先順位が最も高いテクノロジーであり、ヘルスケアはその最も緊急性の高い応用分野だ」
マイクロソフトによるニュアンスの買収は、ヘルスケアの基礎、要するに医師たちが日ごろから使っているテクノロジーを「押さえにかかった」ということだ。
医師や医療システムの多くは、幸運な場合なら2000年代前半、一般的には1990年代のレガシーシステムにとらわれたままでいる。そこにビジネスチャンスを見いだした大手テック企業は近年、医療データの確認や理解を容易にしてくれるオンラインツールを開発し、シェア争いをくり広げてきた。
そんななかでも、マイクロソフトは他の競合のような「素早く動いて破壊せよ」(フェイスブックが過去に掲げたモットー)戦略ではなく、パートナーシップを構築するアプローチを採用し、ヘルスケア分野に地盤を築きつつある。
米投資銀行SVBリーリンクのアナリスト、ステファニー・デイビスはInsiderにこう語る。
「マイクロソフトはヘルスケア分野に展開するテック大手のなかではダントツの存在感を発揮している」
デイビスによると、そうした存在感はマイクロソフトのクラウドサービスに依るところが大きい。例えば、新型コロナが世界中で猛威をふるっている間、ビデオ会議などを含むコラボツール「Teams(チームズ)」は遠隔医療のパイプ役を果たすようになった。
ニュアンスの(対話型AIツールなどの)サービスはすでに全米の医師の半分(55%)以上が使っており、今後マイクロソフトのヘルスケア業界向けクラウドサービスと連携して機能することになりそうだ。
ヘルスケア分野の関係者のなかには、マイクロソフトがクラウドプラットフォーム「アジュール(Azure)」の契約顧客を買収するようなもの、と表現する向きもある。
巨大IT企業による「クラウド戦争」の一部
マイクロソフトのヘルスケア分野における「獲得可能最大市場規模(TAM)」は、今回のニュアンス買収により5000億ドル(約54兆5000億円)へと倍増する。
ちなみに、同社のインテリジェント・クラウド部門(サーバー用ソフトウェア、アジュールを含むクラウドサービスなど)の2020年売上高は484億ドル(約5兆2500億円)だった。
米ベンチャーキャピタル・ロックヘルスのゼネラルマネジャー(コンサルティング部門)、サーリ・カガノフは状況を次のようにみている。
「ニュアンスの買収は、テック大手によるスケールの大きな“クラウド戦争”の視点から理解すべきだ。テック業界の巨大企業にとって、まだカギのかかったままのデータが山積みのヘルスケア分野は、魅力的な戦場と映っている」
また、米調査会社CBインサイツのプリンシパル・アナリスト、ジェフリー・ベッカーによれば、ソフトウェアベンダーがそうしたように、大企業や官公庁などの組織もいずれクラウドに移行するとマイクロソフトは考え、そこに勝機を見いだそうとしている。
我々が知る今日のクラウドを事実上生み出したアマゾン・ウェブ・サービス(AWS)は2006年に設立され、あらゆる産業に対してそれまでのビジネスのやり方を変えるよう迫った。
ところが、小売りや金融などに比べてヘルスケア産業の変化は鈍く、それが結果として、マイクロソフトのようなテック企業に大きなビジネスチャンスをもたらしたわけだ。
「マイクロソフトはエンタプライズ向けのビジネスを手中におさめたいと考えている。最先端のヘルスケアテクノロジーを買収し、それを自分たちのクラウドに乗せる。狙いはそこにある」(ベッカー)
さらに、米調査会社チルマーク・リサーチのマネージングパートナー、ジョン・ムーアは、ニュアンスのテクノロジーを手に入れることでマイクロソフトが得られるメリットは、クラウドビジネスの強化だけにとどまらないと指摘する。
ニュアンスはヘルスケア業界ではよく知られた存在で、エピック(Epic)やサーナー(Cerner)といった既存の医療ITベンダーとも密接な協力関係を築いている。
マイクロソフトの傘下に入ることで、医療システムのIT部門にとどまらず、医師など現場の医療従事者にも直接的に(マイクロソフトの)テクノロジーを提供できるようになる。
現場の医師たちにとって激務がもたらす疲労はただでさえ大きなダメージで、管理事務がそこに加わると深刻な事態を招きかねない。ニュアンスが提供するAIや音声認識ツールは、そうした業務を軽減するのが目的だ。
アマゾン、グーグルに対する優位性は?
テック大手がヘルスケア分野に参入してからまだ日が浅く、しかも各社がそれぞれ異なるアプローチを採用しているので、横並びで比較するのは難しいと(チルマーク・リサーチの)ムーアは語る。
マイクロソフトが主にヘルスケアITに主眼を置くのに対し、グーグルはクラウド部門(Google Cloud)、ヘルス部門(Google Health)、兄弟会社のベリリー(Verily)、傘下のフィットビット(Fitbit)などを通じて遠隔診療から検査まで多様なプロジェクトに関与し、ヘルスケア産業全体に広くアプローチする手法をとっている。
一方、アマゾンはクラウドサービスに加えて、処方薬販売の「アマゾン・ファーマシー(Amazon Pharmacy)」とプライマリーケア(初期診療)の「アマゾン・ケア(Amazon Care)」をそれぞれ1年おかずに相次いでローンチさせた。いずれも日々の健康管理のあり方を根本的に変えるのが狙いだ。
グーグル、アマゾンともマイクロソフト同様、ヘルスケア業界に特化したクラウドパッケージを2020年にリリース。また、両社ともニュアンスと同じ目的で、医師やライフサイエンス関係者向けの対話型AIツールを提供している。
それでも、マイクロソフトとニュアンスが一緒になることで生まれる大きなチャンスがある。それは、医師が診療のさなかにリアルタイムでAIを活用して患者に診断を伝えることができるようになることだ。
これはヘルスケア業界の抱える最も難しい問題と関係がある。
コンピューター側の人間は入院中の患者が敗血症(=感染症をきっかけに起きる全身の炎症や機能不全)などにかかるリスクを予測するアルゴリズムを見つけ出すことができる。しかし、実際の医療にたずさわる人間がそうしたアルゴリズムを活用して現場で診断を行うことはこれまで不可能だった。
その点、ニュアンスのバーチャルアシスタントは今後、患者の電子カルテとマイクロソフトの提供するクラウドの両方に接続する。したがって、医療システム側で患者の異常を発見した場合、即座に医師にそれを伝えるための、明確な経路と手段が生まれることになる。
ただし、この問題についても、グーグルとアマゾンはいずれも初期段階ながら回答(としてのプロダクト)を示している。
グーグルは「ケア・スタジオ(Care Studio)」と呼ばれる医師向けの(医療関連データ)検索ツールを開発中で、そのうち患者に関する予測分析(=データをもとに将来の結果が生じる可能性を特定すること)が相当規模で組み込まれることになるだろう。
アマゾンの「コンプリヘンド・メディカル(Comprehend Medical)」は、(医師のメモや患者の健康記録など)さまざまな形の医療テキストから健康データを正確に抽出するサービスで、システム開発者はそのデータを活用して早期警告システムを構築することができる。
マイクロソフトとニュアンスがどういった回答を出すのか、これから注目される。