6月6日、政府が6年ぶりに水素基本戦略を改定しました。今後15年のうちに、官民あわせて15兆円もの投資を進める計画もあるようです。
この1年で、世界のエネルギー需給構造は大きく変わりました。いま欧米で、エネルギーとしての水素が改めて注目されているのもそのためです。
でも、そもそもなぜ「水素」でなければならなかったのでしょうか。2020年から進むカーボンニュートラルの流れの中で、水素がどう位置づけられてきたのか、改めてみていきましょう。(※以下、2021年4月21日の記事の再掲です)
2020年10月、菅義偉首相の所信表明演説で「2050年に二酸化炭素の排出量を実質ゼロにする」という宣言がなされて以降、メディアではさまざまな企業の脱炭素に向けた取り組みが報じられています。
2020年12月には、2050年に実際に二酸化炭素の排出量をゼロにするためのロードマップとも言える、「カーボンニュートラルに伴うグリーン成長戦略」を策定。再生可能エネルギーの利用の拡大や、自動車をはじめとしたさまざまなものの「電化」が脱炭素社会実現に向けた原動力とされました。
国の成長戦略ではこれに加えて、「水素」を利用する「水素産業」を成長産業にすることが重要なポイントになると記載されています。
本当に、水素の利用は脱炭素社会の実現に向けて必要なのでしょうか?
国の成長戦略を見ると、「水素」の文字がいたるところに登場しています。
脱炭素社会を目指す上で、なぜ「水素」が重要とされているのでしょうか。
4月の「サイエンス思考」では、いま水素が必要とされる理由について、東京大学と九州大学で研究する2人の水素の専門家にお話を伺いました。
水素利用は5年以上前からの規定事項
2015年CESに展示されたトヨタの燃料電池自動車「MIRAI」は、当時大きな話題となった。燃料電池自動車は、水素と酸素が反応する際に生じる電気を利用して走行する。
DavidBecker/GettyImages
「唐突に総理や官邸が『水素』と言ったわけではなく、今回の動きは非常に本質的な動きです。水素は、国のエネルギー政策として以前からきっちりと位置づけられていました」
九州大学の副学長・水素エネルギー国際研究センター長の佐々木一成教授は、脱炭素戦略の一つとして水素に光が当たっている現状をこう語ります。
実は2014年、国の第4次エネルギー基本計画が発表された段階で、そこには地球温暖化対策の観点から「水素社会の実現」という項目が記載されていたのです。
水素の必要性は、日本の二酸化炭素の排出量の内訳を見るとひと目で理解できます。
二酸化炭素の排出理由は、「電力(発電)」「燃料」「原料」の3部門に分けて考えることができます。
この中で、日本で最も二酸化炭素の排出量が多いのは電力部門。だからこそ、二酸化炭素の排出量を減らすための一丁目一番地として、再生可能エネルギーの利用などをはじめとしたエネルギー政策が議論されているわけです。
しかし、よく見てみると、発電部門の二酸化炭素排出量は全体の40%程度にすぎません。
2018年度の日本の二酸化炭素排出量。エネルギー転換部門が発電部門に相当。
温室効果ガスインベントリオフィス/ 全国地球温暖化防止活動推進センターウェブサイトより
仮に、電力をすべて再生可能エネルギーでまかなえたとしても、残り約60%を占める産業現場で燃料や原料を使う際に発生する二酸化炭素を抑えなければ、実質ゼロには程遠い状況です。
2020年10月の菅首相の宣言以前まで、日本政府は2050年までに二酸化炭素の排出量を2013年比で80%減少させるという閣議決定をしていました。
産業の中には技術的に二酸化炭素の排出量を減らしにくい分野もあることから、そういった業界では「(二酸化炭素を排出できる)残り20%に入るだろう」と考える傾向にありました。これでは二酸化炭素の排出量を抑制する動機を得にくいのも道理です。
しかしこれが、菅首相の所信表明で大きく変わりました。
削減目標を100%にしたことで逃げ道がなくなり、どの業界でも可能な限り二酸化炭素の排出量を抑制しなければならなくなったのです。
「そこで、消費しても二酸化炭素を出さない化学的エネルギー物質が必要だと考えられるようになりました。それを考えると水素しかなかったんです」(佐々木教授)
「水素」が注目される理由
ドイツ、ベルリンにあるハイブリッド発電所にエネルギーを供給するバイオマスサイロと風力タービン(2012年2月29日)。ハイブリッド発電所で製造した水素で自動車を動かすプロジェクトが行われていた。
REUTERS/ThomasPeter
化石燃料の代わりは、本当に水素以外に考えられないのでしょうか?
「燃料はやはり炭素と水素の化合物なんです。周期表を見ると、ほかにもいろいろな物質があり、資源として使うことはあります。ただ、エネルギー物質として考えると、どうしても炭化水素、もしくはそれらを含むものになります」(佐々木教授)
産業革命以降、人類は石炭や石油、天然ガスと化石燃料を消費し続けてきました。
「石炭は炭素の塊ですし、石油はだいたい炭素(C)と水素(H)が1対2ぐらいの割合になっています。天然ガスは主成分がメタン、炭素と水素は1対4の割合です。どうしても炭素が入っています。ではもっと炭素が少ないものを、ということになると自ずと水素そのものを使おうとなります」(佐々木教授)
水素を燃料として燃やしたとしても、発生するのは「水」だけです。
これが石炭や石油、天然ガスなどの化石燃料との一番の違いです。
加えて、資源量という意味でも、水素は海水を原料に製造することができるため心配はありません。
ただし、水素に弱点がまるでないわけではありません。
資源としての水素は確かに大量に存在していますが、地球上に水素分子の状態で存在しているわけではありません。水素を利用するには、まず化合物から水素を取り出す必要があります。
取り出し方に応じて、水素は「グリーン水素」「ブルー水素」「グレー水素」といったように、3種類に分けられます。
- グリーン水素:電気分解で製造された水素。電力源として再生可能エネルギーを利用。
- ブルー水素:天然ガスなどの化石燃料から分離された水素。このとき二酸化炭素も排出されるが、それは回収される。
- グレー水素:化石燃料から分離された水素。発生する二酸化炭素はそのまま放出される。
国際エネルギー機関(IEA)の発表(リンク先31p)では、2019年の段階で二酸化炭素の排出負荷の低い方法で製造された水素の割合は、世界でも10%程度だとされています。現時点では、製造工程で二酸化炭素を排出しているグレー水素が大半なのです。
これでは、水素の利用時には二酸化炭素が出なくても、本質的に二酸化炭素の排出量を減らすことはできません。この方法を推し進めるには、水素を製造する過程で生じる二酸化炭素を回収し、二酸化炭素貯留技術(CCS)などで大気中に排出されないようにする工夫が必要です。
水素は貯めにくい
ガソリンスタンドのように水素ステーションで水素を補給することができるようになりつつある。
REUTERS/ShannonStapleton
東京大学大学院工学系研究科の菊地隆司准教授は、水素の弱点について次のように話します。
「水素の問題の一つは、貯めておくことが難しいという点です。
水素は分子間の相互作用が弱いので、液化させるにはマイナス253度まで冷やさないといけません。気体として保存するにしても、それほど大量に保存できるわけではありません」
加えて水素は非常に反応性が高く、材料を脆くする「水素ぜい化」と呼ばれる現象を引き起こすことが知られています。そのため、水素ステーションなどをつくる際には、水素用の特殊なステンレスなどが必要になります。
水素ぜい化に対する建材などの技術開発は2000年代以降かなり進展してきたとはいえ、実用化するためには、貯蔵設備や輸送時のインフラなどの大規模化が必要です。
これは、今後の技術開発の余地がある要素だといえるでしょう。
そこで水素の運び屋(キャリア)として注目されているのがアンモニアです。
アンモニアは窒素と水素からなる化合物であり、燃焼させても二酸化炭素は排出されません。菊地准教授は「アンモニアは大量に作れることと、運ぶ手立てが確立している点が重要です」と話します。
「日本は(燃料を)海外から運んでこなければいけないので、運び方を考えておく必要があります。
最終的に水素を使う形にしておくことは良いと思うのですが、水素を運んでくる方法は複数手段持っておいた方が、リスクマネジメントの観点から良いのではないかでしょうか」(菊地准教授)
すでに火力発電所などでアンモニアを混ぜて燃焼させている施設もあり、その割合を高めていく研究なども進められています。アンモニアを化石燃料の代わりに利用することも期待できます。
また、アンモニアから水素を分離する技術も存在します。
当然その分コストは高くなりますが、水素輸送にかかるコストが十分に下がるまでは選択肢の一つといえます。
アンモニアで水素を運び、発電したりすでに普及している水素のサプライチェーンに利用したりすることも、水素産業が成熟するまでの過渡期に二酸化炭素の排出量を削減するためには重要となりそうです。
当然、アンモニアにも懸念はあります。扱い方が確立されているとはいえ毒性を持っていますし、アンモニアから水素を分離する技術にも課題がないわけではありません。
また現状のアンモニア製造法ではそもそも水素を必要としています。水素の製造方法によっては二酸化炭素の排出量の抑制を期待できない場合も考えられます。
水素導入に向けた3ステップ
福島県浪江町に設置された再エネを利用した世界最大級の水素製造施設「FH2R」。2020年2月に完成した。
提供:東芝エネルギーシステムズ
佐々木教授は、社会への水素技術の導入を進めていくためには、3つの段階を考えなければならないと話します。
「まずは化石燃料由来の水素でも、それを利用して水素市場を作りましょうというのが第1段階になります。
次の段階として、当然再生可能エネルギー由来の水素を利用する方向にシフトしてきます。ただ、国内の再生可能エネルギーはまだ高い。その電気を使って水素をつくってしまうと、結局価格が高くなり普及しにくくなります。だからこそ第2段階で、海外の安い再生可能エネルギーを使って水素を作ることを考えます」
海外から水素を大量に輸送するには、水素を液化した状態で船で運ぶ必要があります。国内では川崎重工業などが水素輸送の技術開発を先んじて進めています。
また、ここで菊地准教授が話したように、アンモニアを水素キャリアとして利用するという選択肢も浮上します。
「そして第3ステップとして、国内の自然エネルギーで水素を製造できるようにしなければならないと思っています。地方創生にもつながりますし、輸入に頼り続けることはエネルギー安全保障の観点では良いことではありません」
既に福島県浪江町では、新エネルギー産業技術総合開発機構(NEDO)のプロジェクトとして、大規模太陽光発電所で発電した電気を使って水素を製造する実証試験が行われています。
ただし、既存のエネルギー需要をまかなえるほど大量に水素を製造するには、巨大なプラントがいくつも必要となってくるでしょう。水素社会を早急に実現するためには、こういった各段階で必要とされる研究開発を並行して進めておく必要があります。
水素は化石燃料との市場競争に勝てるのか?
2018年に撮影されたポーランド、ボレスワフ・スマイリー炭鉱とその背後にある火力発電所。安く大量に手に入る化石燃料とコスト面で正面から競うと水素には勝ち目がない。
REUTERS/Kacper Pempel/File Photo
水素を普及していくためには供給側の準備だけではなく、供給された水素を消費する需要を確立することも重要です。このバランスが崩れてしまえば産業は成立しません。
ハイブリッド車やEVが優勢の自動車業界でも、大型のバスやトラックなどの商用車では水素のガスボンベを積み増せば単純に走行距離を稼げ、EVのように充電に時間がかからないFCVには一定の期待があります。
また、鉄鉱石から鉄を作るために石炭を使わざるを得ない製鉄業でも、水素を利用する手法の開発が進んでいます。
既存の化石燃料市場に対して水素産業はまだまだ規模が小さく、単純なコスト比較ではどうしても太刀打ちできません。コストメリットを高めるためにも、需要につながるさまざまな選択肢を用意しておく必要があるでしょう。
グリーン成長戦略では、水素産業への予算の拡充や、水素を利用した場合にインセンティブを得られる電力市場の整備。さらに、二酸化炭素の排出量(クレジット)取引の対象として水素を取り入れることも検討されています。
水素の需要喚起を狙った制度設計は、二酸化炭素の排出量が多いものに税金をかけて排出量が少ない製品に市場における競争力を与えるための仕組みである「炭素税」の導入と合わせて、今後注目すべき点だといえるでしょう。
もちろん、水素の導入が進むだけで人類が直面している温暖化のすべてを解決できるわけではありません。水素の利用にも、まだまだ課題は山積みです。
しかし今後、化石燃料の消費量を大幅に削減しなければ立ち行かなくなる未来が見えている以上、私たちは、今ある選択肢の中からできることをやり続けなければならないのです。