かつてないほどに生活者へ「医療の課題」が迫っている。いま、AIを活用した医療機器の開発で、この課題に挑むスタートアップがある。東京に本社を構えるアイリスだ。
創業者の沖山翔氏は、救命救急の専門医だった。日本赤十字社医療センターやドクターヘリ添乗医などを経験しながら、5年間の病院勤務。続いて医療ベンチャーのメドレーで執行役員を務めた後、1年間かけて日本の医療現場100施設を行脚した。改めて認識した医療の課題を胸に、2017年にアイリスを創業。累計で約30億円の資金を調達し、AI医療機器の開発を進めている。
ファーストプロダクトはインフルエンザのAI診断を行う医療機器である。すでに治験は完了し、国から承認を受けるためのステップを踏んでいるところだ。その機器の根幹は、ある医師が見つけたインフルエンザ患者の発見法にあり、アイリスではそれを「匠の技」と呼ぶ。彼らは今後、さまざまな診察における「匠の技」をAIと機器で再現、提供していく。
アプローチすべき病気はおよそ2000種類にも及ぶというが、そこに向かうには社内外に、まだまだ多くの同志が必要だと言う──。
医療の課題を当事者として実感し、「既存メーカーでは切り込めない」という領域に挑戦するアイリス。その展望を、代表取締役社長の沖山翔氏と、執行役員COOの田中大地氏が語ってくれた。田中氏はリクルートやエス・エム・エスを経て、アイリスの可能性に惚れ込んでジョインしたキーマンでもある。前後編で、彼らの目指す事業と未来を、垣間見ていく。
AIで医師の技術格差をなくしたい
沖山 翔(おきやま・しょう)氏/2010年東京大学医学部卒業。日本赤十字社医療センター(救命救急)での勤務を経て、ドクターヘリ添乗医、災害派遣医療チームDMAT隊員として救急医療に従事。2015年 医療ベンチャー株式会社メドレー、執行役員として勤務。 2017年 アイリス株式会社 創業、代表取締役。
──アイリスを起業されたきっかけは?
沖山:医療の格差をなくしたい。その一つとして、医師間の技術格差をなくしたい。それこそが医師である僕のやるべきことだと思い、アイリスを創業して、走り続けている理由です。
格差は医師の専門性や経験によるところがあり、かつては埋めようのないものだったかもしれません。でも、今はAI技術で新しいことができる時代です。アイリスはAI技術で医師の「匠の技」を集約し、あまねく医療現場で活用できるようにするスタートアップなんです。
──なぜ、そのような使命感を抱くに至ったのでしょうか。
沖山:僕は都心部の病院で医師としてのキャリアを歩み始め、沖縄県で1年間の離島医療、また北海道や東北での僻地医療に従事しました。患者さんや医療者の悩みには共通しているものが多く、こういった声に直面してきたことが大きいです。たとえば、病気を抱えた両親をどの先生に診てもらえばよいかを悩むのは、誰もが同じではないでしょうか。これは端的に言えば、医師の専門分野が様々だからです。
もちろん医療者も自覚している課題ですが、解消されていない。現状の医療体制は、心臓のことは心臓のドクター、肺のことは肺のドクターが詳しいというスペシャリストの集合が基本だからです。そして、患者も医師を必ず選べるわけではありません。急患でかかれば当番の先生に診てもらうしかなく、疾患と医師の専門領域が違うことも往々にある。
たしかにスペシャリストが増えることで医学は発展し、以前まで治せなかった病気の処置が可能になりました。ただ、この方法では医師の数が無数に必要で、また47都道府県にくまなく配備されなくてはならない。そこを補う形で「総合診療」が発展してきましたが、狭く深いスペシャリストか、広く浅いジェネラリストかというジレンマは残ります。
この状態を「仕方ない」と言うだけで解消してはいけない。アイリスは新しい医療機器の創造を通じて、その課題を解消します。どの医師にかかっても同じ診断や治療の選択肢が、究極を言えば、当然に得られるべきだと思うのです。
──医療現場にまつわる「ギャップ」をアイリスの事業が埋めていくということ?
沖山:最近は、医療やヘルスケアのスタートアップが数多く出てきました。医療はとても懐が深く、富士山のように裾野が広い。ダイエットサポートや運動支援に始まり、電子カルテといった医師の業務改善、そして診断や治療の最前線に至るまで、すべてが対象です。
アイリスがアプローチしているのは、診断や治療の現場という、「医療ど真ん中」の領域です。この領域はアイリスのように医療に根ざした会社でなければ、なかなかアプローチできないほど事業リスクが高い。仮に、医療系でない大企業が培った技術力を転用しようとしても、何らかの健康被害が起きれば本業を揺るがす問題に発展しかねません。
「医療ど真ん中」には専業で向き合う覚悟が必要で、なおかつ医療の現場を知る人材でなければ切り込めません。アイリスは社内に医師6名のほか、元厚生労働省で医療関連法案に携わった人や、経済産業省のヘルスケア産業課に在籍していた人もいます。そのほか、会社経営の経験者、大学で教職を兼ねる人や、博士号を持つ研究者も多数います。
つまり、アイリスには「産・官・学と医療現場」の“四位一体”が実現できるチームがあり、だからこそ診断や治療という「医療ど真ん中」に臨んでいける。これはアイリスの独自性であり、強みや面白さであり、個性でもあります。
僕らは参入障壁の高い医療業界において、カメラの設計に始まり、ソフトウェアプログラミングやAIといった開発も全て社内で手掛けています。病院での研究や、試作機の現場検証も自らやります。日本中を探しても、こんなに全範囲をやっているスタートアップは、ほかにいないと思います。課題を迂回した部分解決でなく、一番正面から解決しにいくアイリスの姿勢があるからなのです。
2000の課題を解決するため、新時代の常識をつくる
提供:アイリス
──とはいえ、医療機器メーカーは業界内にほかにもあるなかで、それらとアイリスの違いとは?
沖山:従来のメーカーは重厚長大な医療機器の改良に重きを置くのに対し、アイリスは最新のテクノロジーで未だ存在していない医療機器を開発しています。その開発事例の一つが「喉の画像解析によるインフルエンザのAI診断」です。
きっかけは、ある日本の医師の10年がかりの発見でした。インフルエンザを患うと、喉に「インフルエンザ濾胞(ろほう)」と呼ばれる独特の腫れ物ができるのです。熟練の専門医でなければ見分けがつきませんが、僕らはその「匠の医師の目」を画像解析のアルゴリズムで再現します。写真を見比べて特徴を検出するのはディープラーニングと相性が良いのです。鼻の奥へ綿棒を入れる検査よりも、喉を撮影するほうが簡便で、さらにほかの病気の同時検出など将来の拡張性もあります。
このように、レントゲンやCTといった検査ではなく、生身の医師の目や耳による判断が重要な病気は、少なく見積もっても2000種類は下りません。その一つひとつが、医師の匠の技であり、AIで再現され、どの医師の間でも共有され、活用されていくべきだと思うのです。
──開発対象の多さはビジネスとしては良くとも、手掛けるのは至難では?
沖山:もっとも2000個の病気をアイリスだけで解決しようと考えていません。僕らはファーストペンギンです。「匠の技」がAIの助けを借りて再現可能で、共有可能だとアイリスが証明できれば、同じように起業を志す人々が出てくるかもしれない。5年後や10年後には大企業も参入してくれるかもしれない。そのような同志が増えていくことが大事なんですね。中には、より専門に特化して、「肝臓がんだけを追求する企業」が出てきてもよい。
2000個ある病気に対して僕らアイリスが目指しているのは、アップル社になることです。作るべきものはiPhoneであり、「スマートフォン」という概念なんです。「インフルエンザ検査法」という個別具体のアプリも開発するけれど、大本にあるのはスマートフォンという「次の時代の常識」を作ることです。その概念作りに挑戦しなければ、これからのアイリスを担ってくれる戦友たちも、アイリスのことを自分事だとは思ってくれないはずですから。アイリスは、「ある特定の病気」だけを解決したい人の集まりではないのです。
田中 大地(たなか・だいち)氏/2008年早稲田大学卒業後、リクルート入社。営業、ネットビジネス推進室にて事業開発を経験後、ヘルスケアITメガベンチャーのSMS社へ。2018年4月アイリス株式会社に入社、翌年4月COO就任。Beyond Next Venturesヘルスケアエキスパート、DTx研究会 IoMD WG発起人・WG長。
田中:事業機会でいえば、すでにアイリスは臨床研究で3つの大学病院を含む100以上の医療機関、1万人の患者さんにご協力いただき、そして50万枚を超える咽頭の撮影データベースを構築しています。これだけの喉の画像、そして付随する感染症データを保持しているのは、おそらくアイリスが世界でも唯一でしょう。
僕らが作っているのは現場で使われる医療デバイスですから、診断のたびにインフルエンザや新型コロナウイルス感染症などの流行データが日々、リアルタイムで集積されてくることになります。医療現場におけるIoTデバイスであり、ここから生まれる感染症のデータベースは、極めて公益的な価値が高いものです。これからもその仕組みは整備したいですし、蓄積したデータを活用した事業機会の創出も、加速度的に増やしていけると考えています。
沖山:そうですね。先ほども紹介したようにアイリスは“四位一体”を実現できる企業です。医療現場のニーズを理解し、質の良いハードウェアを自社で開発し、市場に出すための医療機器の承認と現場活用まで、医療の上流から下流を一気通貫で可能にする「社会課題解決型のAIスタートアップ」だと自負しています。
医療データという価値の源泉が生まれている
──データ活用の点を、具体的に教えていただけますか。
沖山:あるクリニックでインフルエンザの判定に感染症AIが使われるとします。すると、医師の協力によってデータプラットフォームには「東京のA内科で判定が行われ、うち12回がインフルエンザ、5回が新型コロナウイルス……」といった情報がリアルタイムで集まります。
それだけでも、感染症の流行情報に対する解像度の高い情報が精緻に共有される。このデータを都道府県と連携すれば、より精度の高い流行予測や、ワクチン接種の優先度をはじめ、あらゆる点で意思決定に必要な情報の質が上がる。
またこれは、医師会にとっても重要なデータです。感染の流行把握は病床管理にも響きますし、医療従事者の配分予測にも関わってくる。市区町村単位で全国に900の医師会がありますから、病院協会や医師会、それぞれとのデータ活用が、一大プロジェクトです。当初の想定では、これらのデータ事業はもう少し後のステージでしたが、コロナ禍によって社会的に優先度を上げなければならないと判断しました。
──社会的意義の高いデータが手元にあり、あとはそれをいかに事業として実際の価値に転化させられるか。そこにアイリスの可能性と期待が懸かっていると。
沖山:そうです。僕らはこの領域で、「価値の源泉」を創り出すことに最適化された世界一のチームだと胸を張っています。しかしこの湧き出た源泉を社会価値に変換するために、事業化していくメンバーが、現在のアイリスにはまだまだ足りていない。この源泉を活かせるビジネスパーソンが必要なのです。
僕らの事業は「モノを作って売れば終わり」ではなく、むしろ現場に届けてからがスタートになる。医療をいかに豊かにしていくかという「社会実装」が含まれています。これほどの価値提供と事業機会を無数に持つ産業は、医療の他にはありません。
続く後編では、シンガポールで医療事業のWeb部門のヘッドとして、製薬マーケティングを手掛けていた田中氏が、一転してベンチャーのアイリスに転身した理由を聞いていく。まさに「水を活かせるビジネスパーソン」としての期待を背負いながらも、田中氏にとっても医療×AIは未知の領域。そのギャップをいかに乗り越え、成長を続けてきたのだろうか。