撮影:今村拓馬
プロペラではなく、「垂直にした円筒」を回して発電する新しい風力発電の技術を発明し、エネルギーシフトに革命をもたらすチャレナジーCEOの清水敦史(41)は、並々ならぬハングリー精神の持ち主だ。
香川県高松市で幼少期を過ごすが、5歳頃に両親が離婚。母親は清水を連れて岡山県に引っ越した。児島湾を干拓した稲作地帯で、清水は子ども心に「すごい田舎に来たな」と感じたという。
制服は同級生のお下がり
小学生時代の清水(写真左下)は当時からものづくりを愛し、自分の特技として誇ってきた。
提供:清水敦史
清水の小学生時代は、ファミコンの全盛期。だが、「母子家庭で家計が苦しく、引っ越して数年間はテレビすらなかったので、毎日図書館で本を借りて読んだり、友達の家に遊びに行って、友達がファミコンしている間に友達の本を読んだり。外で走り回って遊ぶことも多かった」。
裏山から竹を切り出して弓矢を作ったり、ツリーハウスを作ってみたり、拾ってきた発泡スチロール箱でボートを手作りしたり。卒業文集には、「思い切り変わった物を作るのが、僕の夢」と書いた。それは、ものづくりの特技を誇るような気持ちと、コンプレックスと、ないまぜの意思表明だったと清水は述懐する。
「初めて自己主張したというか、胸の内を綴ったのが文集の文章だった。当時は母子家庭の子が珍しく、僕しかいなくて、制服も同級生のお下がりを着ていましたし、外食したことすらなかった」
それでも、周りの大人たちが親代わりになって助けてくれていた一面はあると、清水は理解している。
「お下がりの百科事典をいただいたり、オルガンをいただいたり。でも物心がついてくると、人から何かをもらうことがコンプレックスになって、乾電池のおまけの消しゴムを受け取りを拒否したり。
そんな頃にエジソンの伝記を読んで、幼少期のエジソンを自分と重ねたりして、徐々に人と違うところが自分自身のアイデンティティになって、強みになっていったのかな。ハングリー精神は、当時から僕の中にあったと思います」
ロックンロールマインドで東大合格
高専時代の清水(写真中央)はロックに傾倒。ギターを日々弾き鳴らし、髪も染め、授業中もネックレスをつけていた。
提供:清水敦史
エジソンみたいなエンジニアになることを目指して、清水は津山工業高等専門学校に進学。岡山県の北部の学校で遠方だったため、15歳にして親元を離れて、寮生活を始める。高専という環境で新しい一歩を踏み出した。
「そもそも経済的に大学に行けないという前提があったから、普通科高校に行ってもしょうがなかったんです」
清水は学業と両立して自由を謳歌し、バンド活動に没頭。オリジナルの曲を学園祭で披露したり、デモテープを作ってオーディションを受け、地元の音楽祭に出演したり。音楽で生きると真剣に考えていた時期もある。
音楽に入れ込んでいても、成績は「万年2位」。学校から、「この成績だったら大学進学もできる」と勧められた。高専から大学編入の道もある。先生には呆れられたが、清水は、「僕は東大しか受けない」と言い張った。
「ここでもハングリー精神があった。だって、行けないと思っていた大学に、行ける可能性が出てきたんだから。どうせならてっぺんを目指そうと。それに、ちょっとした戦略もあった。
大学によって編入試験の受験科目が違っていて、東大は受験科目が数学と英語だけだった。他の大学も受験するなら物理や化学も勉強する必要があるけど、数学と英語に絞れば、今から受験勉強を始めても間に合うんじゃないか。数学はライバルの高専生も得意なので差がつきにくいはずだから、英語の勉強に集中して差をつけようと。数学と英語の勉強に絞って、4年生の秋ぐらいから毎日12時間ぐらい勉強して、5年生の夏に受験したんです」
数カ月後、東大から三つ折りサイズの封筒が届いた時は、たまたま横に居合わせた同級生が絶句していた。
「彼は他の大学に合格していて、入学書類の入った、大きくて分厚い封筒が届いていた。でも、僕に届いた封筒には、どう見ても紙一枚しか入っていなさそうだった」
気まずい空気の中、封筒を開けると、案の定、紙一枚が入っていた。そして、そこには「合格」の二文字が記されていた。その瞬間は、今でも鮮明に思い出せるという。
「飛び跳ねましたね。本当に、自分の力で人生を切り開いた瞬間だった。この時に学んだのは、確実性を求めるよりもアップサイドを狙うべきということ。ちょっと無理かもしれないところに挑戦する価値はあると。それを勝ち取ったときに、どれだけ人生が変わるかを体感したわけです」
アントレプレナー教育が転機に
東大時代の清水(写真右上)は授業の一環で人力ボートを作って大会に出場したり、アントレプレナー的な教育も受けたりしていた。
提供:清水敦史
清水は2000年に東大に編入している。想定外だったのが、受験した船舶海洋学科ではなく、新しい学科に組み替えられたこと。
「ちょうど学科が再編されたタイミングでの入学となり、入学ガイダンスで『あなたの学科はなくなりました』と(笑)。船舶海洋学科はなくなり、システム創成学科という、よくわからない名前の学科になっていた。この学科での学びが、後で振り返れば僕のコネクティングドットの一つになっているんです」
新しい学科では、学科横断的に新しい教育を導入。工学系の学科だが、チームでビジネスモデルを考えてみたり、授業で株価の予測をするプログラムをつくって競い合ったり、アントレプレナー教育の要素もふんだんに取り入れているのが特徴だった。それまでは工学一辺倒だった清水にとり、起業やビジネス、経営戦略の学びは、その後、起業に踏み出す上で大いに役立ったという。
同級生の就職先は、工学系にもかかわらず、商社や投資銀行、外資系コンサルティングが人気だった。そんな中でも、清水は軸をぶらさなかった。「僕はものづくりをしたい」と、大阪に本社を置くFA(ファクトリー・オートメーション:生産工程の自動化を図るシステム)機器メーカーに就職。実家の岡山に近いことに加え、世界初のプロダクトも展開するユニークな会社であるところに清水は惹かれたという。
入社すると、清水の生活は180度変わった。
「学生時代は家賃3万円の岡山県人寮に住み、研究とバイトで休日のない生活をしていたのに、就職したら休日ができて収入が10倍以上になった。ハングリー精神の塊だったはずの僕が、バブリー生活に足を突っ込み始めた」
服は百貨店でしか買わなくなった。高級時計を身に着け、ネクタイピンはティファニー。学生時代に憧れたギターも10数本買い集めた。
「仕事にも慣れて、母親に仕送りもできるようになって、いっぱしの贅沢を経験して。ただ、入社5年くらい経ったら、このままでいいのかという葛藤が生まれて。何か先が見えちゃったんです。こんなもんかと。これは求めていた人生だっけ?と」
そんな心境の変化が生まれていた中で、2011年、入社6年目で東日本大震災を経験。連載の1回目で触れたが、清水はそこから自然エネルギーの勉強をゼロから始めて、再エネ事業へと踏み出していく。2011年7月、「台風に強い日本ならではの風力発電機」のアイデアとして、「垂直軸型マグナス式風力発電機」の特許を出願する。
「この風車をつくるために生まれてきた」
2012年のゴールデンウィーク、清水は自室で試作機を作り、工業用の扇風機を当てて自分のアイデアを確かめていた。
提供:清水敦史
垂直軸マグナス風車が実用化されていなかった最大の理由は、風上側の円筒と風下側の円筒が発生するマグナス力が打ち消しあってしまうことだった。そこで、円筒を2本一組とし、それぞれの円筒をわざと時計回りと反時計回りで逆回転させるというのが、特許で申請した清水のアイデアだ。
そうすれば、風上側では外側の円筒のマグナス力(風の流れの速度差に応じて生まれる力)が大きくなり、内側の円筒は外側の円筒に隠れるのでマグナス力が小さくなる。風下側では内側の円筒のマグナス力が外側の円筒よりも大きくなるので、バランスの妙で回り続ける、と計算していた。その理論を実証するため、出願後は会社から帰宅すると、夜中の2時頃まで試作機を設計しながら、特許を書く日々に。
「好きな小説なら夜通し読んでいたい、みたいな。とにかく夢中で楽しかった」
2012年のゴールデンウィーク、32歳の時に転機が訪れる。
ホームセンターで材料をそろえて自宅で試作機を作り、ワクワクしながら扇風機の風を当てた。ところが風車は回らない。マグナス力を大きくするために、もっと太い棒を調達したり、円筒同士の距離を変えたり。朝から晩まで1週間家に引きこもり、実験の試行錯誤を重ねた。
ゴールデンウィークの最終日、ついに試作機が回った。垂直軸型マグナス式風力発電機が、世界で初めて回った瞬間だ。
「飛び跳ねましたね。その時僕は、『この風車をつくるために生まれてきたんだ』と思えたんです」
実験は成功したものの、会社を辞めて起業するには別のジャンプが必要だった。一段乗り越えてもまた一段、「這い上がってきて手に入れた生活を捨てられるか」というジレンマを乗り越えなければなかったのだ。
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(文・古川雅子、写真・今村拓馬)
古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著)がある。