前回は、日本企業の間でも近年導入が進んでいる「KPIマネジメント」について、その基本的な考え方や導入のステップをお話ししました。
ビジネスのDX(デジタルトランスフォーメーション)が進み、取得したデータをもとに数値管理がしやすくなったことが、「KPI(Key Performance Indicator)」に注目が集まる大きな要因となったと考えられます。
でもいざKPIマネジメントを実践してみると、思っていたほどスムーズには行かず、つまずいてしまうケースが多々あるようです。私のもとにも規模の大小・業種業界問わずさまざまな組織からお悩みが寄せられますが、話を詳しく聞いていくと、多くのケースでつまずきやすい共通のポイントがあることが分かります。
そこで本稿では、実際にKPIマネジメントを導入したA社の事例を取り上げながら、実践で陥りがちなつまずきポイントとその対処法を解説していくことにします。
A社の事例は、1年前に立ち上げたサブスクリプション(定額課金)のデジタルサービスですが、基本的な考え方は業種や商材を問わず応用可能なものです。A社の例を、ぜひあなた自身の組織に置き換えながら読み進めてみてください。
A社の取り組み概要
- 1年前にサブスクリプション(定額課金)のデジタルサービスを立ち上げる
- 価格メニューは2種類:月額プラン500円、年額プラン5000円
- 過去1年間は、サービススタート時に定めた売上目標をゴールにしたが未達
- 前期の売上実績は7000万円。今期の売上目標は1億円
KPIマネジメントを実践してみたものの…
きっかけは、A社から私のもとに届いたこんな悲痛なメールでした。
「サブスクリプション(定額課金)サービスを立ち上げて1年が経ちました。ローンチ前に立てた売上目標数値は、残念ながら未達でした。そこで先日チームで話し合い、次の1年はどういったKPIを追うべきか、1カ月ほどかけてディスカッションしてきました。
その過程で中尾さんの書籍『KPIマネジメント』を参考にさせていただいたのですが、いざ自分のプロジェクトに当てはめてKPIを定めようとなった時に、判断に迷う点がいろいろ出てきまして……」
A社は過去1年間、売上目標をゴールに走ってきましたが、メールにも書かれていたとおり残念ながら目標は未達。同社では売上以外にもいくつかの指標を追っており、部署によって注目する指標が違っていたことが足並みを乱した原因だったのではと反省したのだそうです。
その反省を踏まえて、A社はプロジェクト2年目にKPIマネジメントを導入することに。さっそくKPIマネジメントの導入10ステップに従って準備を進めていきました。前回のおさらいになりますが、正しいKPIマネジメントの導入手順は以下のとおりです。
この手順に従って検討していく過程で、A社が判断に迷った点、つまずいた点についてアドバイスしていくことにします。
STEP1〜2:KGIの確認・ギャップの確認
A社が決めたプロジェクト2年目の売上目標は「年間1億円」。そこで、この年間売上目標を「KGI(Key Goal Indicator)」(下図参照)とすることにしました。
Goal=期末売上
KGI=1億円
また、KPIマネジメントのSTEP2では、目標と現実のギャップがどの程度あるかを確認します。A社のプロジェクトは、前期の売上実績が7000万円でした。対して今期の売上目標が1億円ですから、そのギャップは3000万円。これを向こう1年間で達成する必要があります。
前期実績7000万円→目標1億円 ギャップ=3000万円
中尾
実は、ここをよく確認せずに「とりあえず数値を集めてみよう」という感覚でKPIマネジメントを始めてしまう組織が少なくありません。その点、GoalとKGI、目標とのギャップをきちんと確認できていることは素晴らしいですね。
A社
ありがとうございます。ただ……実はこの「1億円」という売上目標は社長の期待値で、現場からしてみると無理があるのではとも感じているんです。こんな場合はどうすればいいのでしょうか?
中尾
どういう経緯で1億円という数字が出てきたのですか?
A社
「1億円くらいの売上を上げないと、この新規事業がいつまで経っても黒字にならないから」と社長が……。
新規事業で売上をKGIにするのは危険
A社の売上目標の立て方は、多くの組織でも起こる“あるある”です。特に新規事業の立ち上げ時の目標設定には注意が必要です。
新規事業の立ち上げでは、A社のように「このくらいの売上を上げないと黒字にならないから」という理由で、かなりハードルの高い売上目標数値を設定するケースがあります。
しかし新規事業を早く黒字にしたいのであれば、まずは経費を最小限にしたほうがいいケースが多いものです。
そのことを考慮せずに最初からハードルの高い目標を設定してしまうと、「売上を上げるためには販促費や集客費などのコストをかける必要がある」というロジックがまかり通り、事業立ち上げからいきなりじゃぶじゃぶとコストが使われてしまうのです。
新規事業の初期の売上は水物です。売上が上がらず、コストは計画通り使われて、赤字幅が膨らんでしまう……これでは、事業を軌道に乗せることは相当難しいでしょう。
このように、新規事業を黒字にしたいのであれば、売上をKGIに据えるのは要注意です。そもそも新規事業の早いタイミングに売上や利益をKGIとするのかどうかは、チームでよく話し合ったほうがいいでしょう。
目標設定と人事評価の紐づけ方がポイント
A社では、1億円という売上目標に対して、実は現場の担当者たちは「無理があるのでは……」と危惧している様子がうかがえます。ここにも注意していただきたい落とし穴があります。
「無茶な目標は背負いたくない。もっと達成できそうな目標にしてほしい」。現場の担当者なら、多くの人がこう考えることでしょう。
では、そもそもなぜ現場は、できるだけ目標値を下げたいと考えるのでしょうか?
一般的に目標設定は、それをどの程度達成できたかによって社員を評価するために使われることが多いものです。達成できれば良い評価が付き、未達成なら評価が悪くなるということですね。
このように目標と評価が強く結びついていると、人間の心理として「目標額を下げたい」というインセンティブが働きます。当然ですよね、目標額を下げれば目標を達成しやすくなるわけですから。
また、「達成率120%」などというように、目標を上回った場合はその分ボーナスを上乗せされる仕組みにしているところもあります。達成率120%より150%のほうが高く評価されるなら、そもそもの目標は低いほうがいい。これも人間の当然の心理ですよね。
つまり、目標を達成率で評価すると、「目標を下げたい」というインセンティブがどうしても働いてしまうわけです。
ではどうしたらいいのかというと、達成率をどのように使うのかをあらかじめ決めておけばいいのです。
例えば、達成率だけで評価するのであれば、前述のように目標数値を下げたくなるのは当然です。では、評価指標が達成率1つだけではなく、他にも複数あるとしたら? 評価に占める達成率の影響は小さくなります。
私はリクルート在職時代、管理部門には精度の高い目標を設計するように依頼していました。「精度が高い」とはざっくり、7割程度の部署が目標を達成できる程度の水準です。
このとき、現場の部門にも目標の原案を作ってもらいます。仮に現場が管理部門の提示した目標を下げてきた場合は、それを承認します。ただし、現場はひとたび目標を下げたら、たとえ期中にどれほど高い数値を上げたとしても、100%を超える成果はいっさい評価されません、と共有するのです。こうすることで、交渉によって目標を下げた組織が得することはなくなるわけです。
このやり方を続けていくと、管理部門と現場にいい緊張感が生まれます。目標設定時にもめる頻度も大幅に減っていきました。
このように、「Goal」や「KGI」を設定する際には、現場が健全なモチベーションで目標に邁進できるような条件を整えることが大切です。
STEP3〜4:プロセスの確認・絞り込み
次にSTEP3として、現在地点から1年後に到達していたい目標地点まで、どのようなプロセスをたどって到達するかを確認します。
A社は、デジタルコンテンツを制作し、それを販売することで売上を挙げています。売上をさらに増やすためにはどうしたらよいのか……と話し合った結果、次のような道筋を描いたそうです。
より多くの人にサイトを訪れてもらうことで(ユニークユーザー〔UU〕セッション数の増加)
↓
プロダクトに魅力を感じて課金してくれて(CVR〔顧客転換率〕の向上)
↓
会員数が増える
↓
目標達成できる
A社
こうしてプロセスを確認してみると、どのくらいCVRを高められるかが大きなポイントになりそうだということが分かりました。
中尾
このプロセスを一見すると、たしかにこの通りに行けば目標は達成できそうにも思えますね。
ただし、いきなり新規登録者の数を増やすことに注目するのは危険です。プロセスを考える際には、数値も意識しながら検討するのがコツです。
A社
どういうことですか?
中尾
それについて解説する前に、STEP4「絞り込み」の検討結果も教えてください。
A社
はい、以下のとおりです。STEP3の結果を踏まえて、CVRを高めるために考えられる打ち手にはどんなものがあるかをチームメンバー同士で話し合い、次のような可能性を書き出しました。
- 全体のUU数を増やす
- 課金登録画面が表示される回数を高める
- ユーザーのサイト滞在時間を増やす
- 登録手続きを完了せずに離脱されてしまう数を減らす
- サービスの単価を上げる
A社
可能性を書き出すところまではできたのですが、この中からどれをCSF(Critical Success Factor:事業成功の最重要ポイント)にすればいいのか迷ってしまって。考え始めるとあれもこれも大切なもののように思えてしまい、1つに絞るのが難しいんですよね……。
中尾
CSFを1つに絞り込めない、というのもKPIマネジメントの“あるある”ですね。ではどうすればいいか、順番に解説していきましょう。
サブスクモデルで会員を増やす「王道」
A社のサブスクビジネスでは、月額プラン(500円/月)と年額プラン(5000円/年)という2つの価格メニューを用意しています。
サブスクモデルで重要なのは、会員数を増加させることです。
現在会員数=前月会員数 + 前月新規入会数 ― 前月退会数
その際に参考になるのが「穴の空いたバケツモデル」です。
現在会員数は、バケツの中に入っている水の量だと思ってください。そして、蛇口から前月新規入会者数がバケツの中に入っていき、下のバケツの穴から前月退会者数が抜けていくわけです。
では、バケツの中の水の量(=会員数)を増やすにはどうしたらよいでしょうか? 方法は3つあります。
- バケツの穴を小さくする(退会を減らす≒利用者の満足度を高める)
- 蛇口からの水のうちバケツに入る割合を増やす(集客歩留まりを高める≒簡単入会、UIカイゼンなど)
- 蛇口から出る水の量を増やす(集客を行う≒コストをかける)
サブスクモデルの場合、会員数を増やすには王道の手順があります。それは(1)まず退会を減らし→(2)入会歩留まりを向上させてから→(3)集客にコストをかける、というステップです(資金が潤沢にある場合はこの限りではありませんが)。
この順番が有効と言える理由は、どれほど大量の水をバケツに入れても、バケツの底に大きな穴が空いていては効率が悪すぎるからです。また、歩留まりが悪いと集客コストが無駄になってしまうからです。
A社
なるほど! ではまず、退会を減らすことを最優先に考えたほうがいいんですね。
中尾
予算が潤沢にあるわけでないのなら、そのほうがいいですね。退会を減らす方法としてはどんなことを思いつきますか?
A社
考えられるのは、次の2つでしょうか。
(1)退会を申し出た人を慰留する
(2)月額会員だと毎月退会の可能性があるので年額会員への切り替えを誘導する
中尾
やはり……。そう考える組織は多いのですが、実はここにもぜひ注意していただきたいポイントがあるんです。
慰留は困難、年額切り替えは問題の先送り
もちろん退会を慰留できればいいのですが、一度退会を考えた人を慰留するのは現実にはかなり難しいものです。10〜20%慰留できたら素晴らしい成果。つまり退会を申し出た人の大半は、バケツの底から出ていってしまうものなのです。
(2)の月額プランから年額プランへの切り替え誘導は、問題の先送りですね。月額の退会は減るかもしれませんが、1年後に大量退会してしまっては元も子もありません。
では、ひずみが出ない形で「退会を減らす」にはどうしたらよいのでしょうか?
答えは、利用している顧客の数を増やし、満足度を高めることです。
顧客満足度を測定するために、NPS(ネット・プロモーター・スコア:顧客ロイヤルティを測る指標)を測定して数値の向上を目指している企業も多いと思います。その取り組み自体は素晴らしいことです。
しかし、これらを測定するだけでは限界があるのもまた事実。なぜなら、測定した時点での実態しか分かりませんし、しかも全利用者が測定調査に回答してくれるわけでもないからです。つまり、アンケートでは一部の顧客のある時点の満足度しか分からないのです。
では定期的な顧客の満足度はどうやって測定したらよいのでしょうか?
私がお勧めするのは、期間内の利用頻度です。例えば毎週、あるいは毎日一定回数以上利用しているかといった利用状況を把握すればよいのです。
月額500円を支払って、A社のサブスクサービスを使っているユーザーを考えてみましょう。1カ月に1回しか利用しなければ、1回あたりの利用料は500円ということになります。しかし月に4回利用すれば、1回当たりの利用料は125円の計算になります。20営業日利用すれば1回あたり25円です。
クレジットカード会社などではよく、どの顧客が次回購入するかを把握するために「RFM」と呼ばれる顧客分析フレームワークが使われます。RFMとは次のとおりです。
- R(Recency):最近いつカードを利用したか
- F(Frequency):過去一定期間(例えば3カ月に)に何度カードを利用したか
- M(Monetary Volume):過去一定期間(例えば過去3か月)にいくらカードで決済したか
次回もクレジットカードを利用してくれそうな顧客とは、「R」が直近で、「F」と「M」が多い人です。そのターゲット顧客に販促をかければ効率的にクレジットカードを利用してくれることが期待できます。
逆に、最後のカード利用からかなり時間が経っており、カードの利用頻度も決済額も少ない顧客には、たとえ販促をかけてもこの先カードを使ってくれることはあまり期待できないでしょう。
この考え方を、A社のサブスクサービスにも応用してみましょう。
目指すべき利用頻度はどう決める?
顧客は毎月一定の月額を支払っているのでMは同じ額です。利用回数が多い人(A社のサイトを何度も訪問する人)は、再利用意向が高い≒満足していると類推できます。逆に、最近利用していない、あるいは利用回数が少ない人は退会の危険信号だということです。
利用頻度が高いことに着目しているのは、クレジットカード会社だけではありません。DAU(デイリー・アクティブ・ユーザー:毎日利用しているユーザー数)が多いサービスほど良いサービスだと考えられているのは、ユーザーの利用頻度が多いということは、それだけユーザーから熱狂的に支持されていると考えられるからです。
つまり、自社サービスの利用頻度を増やせば、(それは顧客の満足度が高まっている証拠なので)退会は減ることになります。
ただし、どれくらい利用頻度を増やせばよいかが重要です。基準となる閾(しきい)値を確認してみましょう。
A社でもさっそく過去3カ月の利用回数と退会の割合を調べてみたところ、3カ月以内の利用が6回(≒月2回以下)だと、退会が大幅に増えることが分かりました。一方、12回(≒月4回)以上利用していると退会率は一気に下がり、「月2回以下」の半分程度でした。
中尾
これで分かりましたね。御社にとっては、「月4回以上利用する顧客を増やすこと」が退会率を下げるCSF(事業成功の最重要ポイント)だということです。
A社
そうか……「新規の会員獲得をいかに増やすか」という発想でCSFを考えようとしていましたが、そもそもSTEP3で正しいプロセスを考え抜いておかないと、STEP4で方向性のずれたCSFを選んでしまうということですね。
中尾
そのとおりです。
ある新規顧客が、1週目で1回も利用していなければ黄信号。半月を過ぎて1回も利用していなければ赤信号です。黄色信号の段階で、ABテストなどを繰り返しながら顧客の利用回数を増やす施策を打っていきましょう。
退会を1人減らすことができれば、A社にとっては1年間で6000円(500円×12カ月)の売上増になります。新規に集客するには集客コストが必要になりますが、退会を阻止できれば集客コストをかけることなく売上増を実現できるのです。
しかもこの売上増は、ほぼ全額が利益増加になります。今回のKGIは売上ですが、退会数を減らすことで利益に大きなインパクトがあることがお分かりいただけると思います。
さて、ここまででCSFの勘所が特定できました。STEP5「目標設定」以降については、また次回詳しくお話しすることにします。
※次回は、6月4日(金)を予定しています。
(連載ロゴデザイン・星野美緒、編集・常盤亜由子)
中尾隆一郎:中尾マネジメント研究所代表取締役社長。1989年大阪大学大学院工学研究科修了。リクルート入社。リクルート住まいカンパニー執行役員(事業開発担当)、リクルートテクノロジーズ社長、リクルートワークス研究所副所長などを経て、2019年より現職。株式会社「旅工房」社外取締役、株式会社「LIFULL」社外取締役、「LiNKX」株式会社非常勤監査役、株式会社博報堂DYホールディングス フェローも兼任。新著に『自分で考えて動く社員が育つOJTマネジメント』がある。