今週も、早稲田大学ビジネススクールの入山章栄先生が経営理論を思考の軸にしてイシューを語ります。参考にするのは先生の著書『世界標準の経営理論』。ただし、本連載はこの本がなくても、平易に読み通せます。
みなさん、「FIRE(ファイア)」という言葉を聞いたことはありますか? 早期リタイアを指す言葉で、いま欧米の20〜30代のあいだに広がっているのだとか。このムーブメントの背景にはどんな社会の変化があるのでしょうか。入山先生が考察します。
【音声版の試聴はこちら】(再生時間:7分02秒)※クリックすると音声が流れます
なぜ早期リタイアをめざす若者が増えているのか
こんにちは、入山章栄です。
今回はこの連載をまとめてくれているライターの長山さんが気になっているという話題について、考えてみましょう。
ライター・長山
いま欧米の20~30代のあいだでは、「FIRE(ファイア)」と呼ばれる早期リタイアがムーブメントになっているそうです。まだ若いのに働かないなんて、うらやましいような、そうでもないような……。
いったいなぜ、このような人たちが増えているのでしょう。そして日本でも早期リタイアは広まるでしょうか?
「FIRE」とはFinancial Independence, Retire Earlyの略で、30代くらいまでに働かなくても生活できるだけの資産をつくり、残りの人生は質素でいいから、好きなことをして生きるというライフスタイルを指すようですね。
これはミレニアル世代を中心に起きているムーブメントです。我らがミレニアル世代代表・Business Insider Japan編集部の横山耕太郎さんに話を聞いてみましょう。
横山さんのまわりに、“FIRE”を実践している人はいますか?
BIJ編集部・横山
僕はいま33歳ですが、僕の知る限り、周囲で早期リタイアを実現した人はまだいませんね。でもかっこいいなと思いますし、あくせく働いている身からすると、正直いってあこがれはあります。
へえ、やっぱり横山さんにもFIREへのあこがれはあるんですね!
ではなぜ、体力も気力もあふれた若い人たちが、働かない生き方を志向するのかを、経営理論的に考えてみましょう。そこで重要になるのが「内発的動機」という考え方です。これはモチベーションの重要な概念です。
端的に言えば、僕は、「FIRE」をめざす人たちは、内発的動機に忠実なのだろうと思います。
モチベーションには「外発的動機」と「内発的動機」があります。「外発的動機」とは高い報酬や社内での昇進など、外部から与えられるものを糧に頑張るモチベーションのことです。「この仕事をやり遂げれば昇進できるから頑張ろう」といった感じですね。
それに対して「内発的動機」とは、「この仕事は面白いのでなんとしても自分がやりたい」「これをやることがワクワクしてしょうがない」というような、自分が心からやりたいと思う、内面からのモチベーションのことです。
そして僕はこれからの時代は、外発的動機よりも、内発的動機がさらに重要な時代になると考えています。
その理由として重要なのは、多くの先進国ではこれから経済成長がさらに鈍化することです。経済成長は国によって程度に差があるので絶対ではありませんが、実際に先進国の多くは、すでにある程度の経済的な豊かさを達成しているのは確かでしょう。
有名なマズローの欲求5段階説でいえば(下図参照。ちなみにこの説は科学的には根拠がないと言われているのですが、僕はたとえとして有用だと思っています)、ピラミッドの下のほうの原初的な欲求である生理的欲求や安全欲求は先進国ではほぼ満たされているので、それより高次の社会的欲求や承認欲求、自己実現欲求を満たす段階に来ている。つまり、お金や安全性よりも自分の内面を満たす段階に来ているのです。
編集部作成
加えて、先進国の経済成長は鈍化しがちです(これは経済学では、ソローモデルなどの理論で説明できます)。自分の国の将来に高い経済成長が期待できないなら、これからの未来に期待してあくせく働いてガツガツ稼ぐよりも、自分のやりたいことだけをやろうと考える人が多くなるはずです。
しかもこれだけ価値観が多様な時代ですから、先進国ではみんながそれぞれ独自の内発的動機を持つようになっています。結果として、「ガツガツ働き続けるよりも、質素でいいから、早くリタイアして自分が好きなことだけをやろう」となるのではないでしょうか。「FIRE」もその流れで生まれたと考えられます。
僕が「絶対にリタイアしたくない」理由
BIJ編集部・常盤
おそらくいつの時代も、生活のために我慢して働いていた人は多かったと思います。でもそういう縛りから自由になるのは、いい傾向ですよね。
ところで、もしも入山先生が「いますぐリタイアしてもいいよ」と言われたら、どうしますか?
うーん、僕の場合、むしろ絶対にリタイアしたくないですね(笑)。なぜなら、僕の場合、幸運なことなのですが、今現在、すでに好きなことしかやっていないんですよ。自分の仕事で内発的動機が満たされまくっているんですよね。
僕は30歳のときに無一文でアメリカに行き、向こうでなんとか博士号をとりました。その後で現地で大学教員を務め、アメリカで10年過ごしてから日本に帰ってきて、早稲田大学でポジションをいただきました。
そしておかげさまで、幸運なことなのですが、僕は今は自分で仕事を選べる立場にあります。結果、僕にとって仕事とは、そもそも「生活のために我慢してやるもの」ではないのです。もちろん仕事ですから大変なこともあるけれど、それを上回る面白さやワクワク感がある、そういう仕事しか引き受けません。内発的動機だけで引き受けているんですよね。
例えば、最近は企業の社外取締役や団体の理事などをお引き受けすることがあるのですが、そのときも「この会社を応援したいな」「面白そうな社長だな」と思う企業・組織からのオファーだけお引き受けします。だから、お金のためなどの外発的動機で引き受けていないのです。実際、こんなことを言っていいのかどうか分かりませんが、実は各社から社外取締役の報酬額をいくらいただいているかも、僕はよく把握していません(笑)。
したがって、あまり自分自身が「あくせく働いている」という感覚がないのです。自分が好きで、ワクワクすることだけをしているから、どちらかというと遊んでいるという感覚しかない。ただし引き受けた仕事は一生懸命やりますから、あえて言えば「真剣に遊んでいる」という感じだと思います。
実際、僕は自分が楽しいと思うことだけを仕事にしているので、趣味を持っていません。そもそも仕事が遊びで趣味のようなものだからです。だから、「何歳になったら、つらい仕事をやめてリタイアしよう」という発想にならないのです。
いま僕が勤める早稲田大学は70歳が定年ですが、もし定年退職しても何らかの形で仕事は続けたいですね。僕のリスペクトする世界的な経営学者である一橋大学名誉教授の野中郁次郎先生はいま85歳ですが、いまだにバリバリの現役で働いていらっしゃいます。野中先生も、同じように好きなことだけされているのだと思います。
そもそも、研究者・学者は、自分が興味のあることを仕事にしている人がほぼ全員なので、内発的動機の塊のような人たちです。だから、野中先生のように85歳になってもバリバリ好きなこと(=野中先生の場合は研究)をされている方は、とても尊敬しますね。
BIJ編集部・常盤
20代、30代でFIREにあこがれる人たちは、外発的動機で働いているのかもしれませんね。
もしかしたら、そうかもしれませんね。「仕事はつらいけど、今は生活のために我慢してやらなければいけないものだ」と思っていると、FIREという発想になるのかもしれません。
もちろん自分のやりたいこと、楽しいことが「仕事の枠」には収まらない人もいるでしょう。たとえばパートナーと2人でビーチでのんびり過ごすとか、誰にも邪魔されず読書にふけるとか。そういう現代の仕事とは直結しないことに楽しみを感じていると、「仕事」と「自分に楽しいこと」はイコールではないですよね。
でも、これからの未来は違うかもしれません。これからは、デジタル化などの進展もあり、昔なら仕事とは言えなかったような、「わけの分からない仕事のようなもの」がもっと増えてくるはずです。YouTuberはその代表ですよね。つまり、仕事と遊びの境界が薄まってくるはずなのです。
例えば、僕のまわりには釣り好きがたくさんいますが、釣り竿で魚を釣って、その模様を動画で流すだけで、それが仕事になる人も出てくるかもしれません。
これからはベーシックインカムのような制度が入ってくるかもしれないし、いろいろなものが安く買える時代ですから、投資をしたり貯蓄をしたりすることで、なんとかお金をうまくやりくりしながらFIRE的に生きていく人も増えていくのではないでしょうか。
早期リタイアを目指す人も、僕のようにリタイアしたくない人も、どちらも「自分の内発的動機に忠実に生きていく」という意味では、同じことなのだと思います。
【音声フルバージョンの試聴はこちら】(再生時間:17:04秒)※クリックすると音声が流れます
(構成:長山清子、撮影:今村拓馬、連載ロゴデザイン:星野美緒、編集・音声編集:常盤亜由子)
入山章栄:早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)教授。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。三菱総合研究所に勤務した後、2008年に米ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.を取得。同年より米ニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールアシスタントプロフェッサー。2013年より早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)准教授。2019年から現職。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』『世界標準の経営理論』など。