撮影:持田薫
一般社団法人WaffleのCo-FounderでCEOの田中沙弥果(29)のTwitterアカウント名は @ivy_sayaka。氏名欄にも「田中アイヴィー沙弥果」と書いてあって、前から気になっていた。略歴を見ると、ずっと大阪生まれの大阪育ちとある。ミドルネームでもなさそう。なぜアイヴィー?
「自分の名前が平凡すぎて。平成3年生まれって『さやか』がいっぱいいるんです。もちろん田中も多いので」
「高卒で働いて」と父。母は猛反対
父親の反対を母とともに押し切って臨んだ受験だったが、挫折を経験。くすぶる想いを抱えながらの大学生活だった。
提供:田中沙弥果
大阪で生まれて、高校まで公立校育ち、25歳で上京するまで大阪で過ごした田中のストーリーは、地方出身の女性なら馴染みのあるものだろう。
筆者自身、大学進学で上京した時に、首都圏の中高一貫校出身の同級生と同じ18歳でこれほど見えている景色が違うのかとショックを受けた。田中と筆者は20歳以上も離れているが、インターネットが発達した今でも、親や教師も含めて都市と地方では厳然と情報格差があり、ステレオタイプなジェンダー観につながっている。とりわけ「女の子だから」という親の意識が、女子の進路選択に与える影響は今でも大きい。
田中の父親は3人の娘に対して、「大学は行かなくてもいい。高校を卒業したら働け」という考えの持ち主だった。その父親に猛然と抗議して、全員を大学に行かせてくれたのは母親だった。母親に食べていける職業として薬剤師を勧められた田中は、高校2年で理系を選んで、薬学部を目指した。
だが、受験には失敗し、進学したのは外国語学部だった。
「入試で挫折を味わったので、大学時代は不満を垂れてました。なんで私、この大学にいるんだろう、薬剤師だった人生はどうだったんだろうって。受験し直すことも考えたのですが、そこまで頑張れない自分にもどかしさも感じていて」
「IT=暗い」のイメージをSXSWが破壊
SXSWは、映画祭、音楽祭、インタラクティブフェスティバルを組み合わせた大規模イベント。田中のテクノロジーのイメージは一変した。
提供:田中沙弥果
田中が初めてテクノロジーを意識したのは、アメリカ・テキサス州への交換留学中に訪れたサウス・バイ・サウスウエスト(SXSW)だった。毎年3月にテキサス州オースティンで開かれる世界最大のテクノロジーとカルチャーの祭典だ。田中が訪れた2013年、サムスンのブースではジェスティン・ティンバーレイクが歌い、すでにスマホで飲食などがオーダーできた。
「なにこれ、ってワクワクしました。それまで私の知ってるITって暗くてギークのイメージだったんですけど、街が音楽とテクノロジーで溢れてて。こんな熱気の中で働きたい、このエキサイティングな空間をつくる側に回りたいと思ったんです」
イベントを手がけるなら広告会社かメディアか。就職したのはテレビ制作会社だ。
だが、そこを1カ月半で退職することになる。料理番組のADとして「お湯沸くまで待ってて」「キャベツ買ってきて」という毎日。湯が沸く鍋を見ていても、週に6日オフィスに泊まり込んでいる先輩たちを見ても、SXSWで見た風景は思い描けなかった。
1カ月半で退職、という経歴は再就職のハードルとなった。すぐに「自分が理想とする会社の面接にたどり着くことすら難しい」という現実に直面した。
「どうしても入りたくない会社で下積みするという考えにはなれなくて。だったら『自分で理想とする会社をつくった方が早いかも』と思うようになったんです」
思考法として大切。プログラミングとの出合い
あるFacebook投稿への書き込みが、田中のWaffle創業への第一歩となった。
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退職後、田中はメイクアップアーティストや塾講師、とさまざまな職業を試している。起業するなら自分が興味があること、だから一通り経験すると決めていた。当時はAirbnbや海外のマッチングサービスなどが日本に上陸した頃。自分でもプログラミングを学んでサービスをつくってみようかなと思うようになった。
プログラミングを学んだ体験は、これまでにない思考法との出合いをもたらした。
「初めての体験でした。物事の順序を大切にしたり抽象化したりする思考に触れて、これって人生にすごく大切なことなのでは、と。プログラミングによるサービス開発より、プログラミングを子どもたちに教えたいと思うようになったんです」
2年間に及ぶ自分探しの旅は徐々に「起業」に向け具体的な戦略的になっていく。起業するには圧倒的に人脈も経験もスキルも足りないことは自覚していた。ならばシリアルアントレプレナーのもとで修業しよう。それも社長のすぐそばで働くために社員は5人以下の企業。関西の上場企業の社長のアクセラレータープログラムに参加したり、大阪市主催のシリコンバレーでの研修に参加したりしながらチャンスを待った。
ある時、「みんなのコード」という公教育のプログラミング教育を支援するNPO法人の代表が大阪でイベント会場を探している、とFacebookに書いていた。すぐに「私、会場探せます」と書き込んだ。そして、給料も聞かずに働かせてほしいと直訴し、1人目の正職員になるのだ。
小学校プログラミング教育の混乱で成長
みんなのコード時代の田中。自らプログラミングを学んだ経験も活かし、全国の教師向けに研修を開催していった。
提供:田中沙弥果
田中と共同創業者の斎藤明日美(30)は、お互い「真反対」の性格、得手不得手も全く違うという。斎藤は田中のことをこう評する。
「私が考えすぎてしまう性格なので、彼女のポジティブで、シンプルに考えるところが、私といいペアだと思ってます。人を巻き込む力や発信する力もすごい。言葉を選ばずに言うと、私は実力で人をねじ伏せるようなところがあると仲間内からも言われるのですが、彼女は力のある人をうまく仲間にしていくのです」
2020年に小学校へのプログラミング教育の導入は決まっていたが、教える側の人材不足は明らかだった。「みんなのコード」はITに精通しているとは言えない学校の教師たちへの支援を主な活動としていた。
文部科学省から学校にはプログラミング教育の目的だけが指針として伝わり、現場は具体的にどんな教材を使ってどう授業を進めればいいのか分からず混乱していた。「みんなのコード」は、文科省から後援を受けて全国10カ所で教師向けの研修を開催した。国の政策と現場の間でスポッと空いていた部分をNPOが埋めた形だ。
この経験は、今のWaffleにも生きている。何かを実現する時に、足りないものは何か。課題を洗い出し、解決するための方策を考える。NPOで1人目の職員として代表のそばで全てを吸収した経験からは、組織の立ち上げから運営、人の採用まで学べた。代表が国の有識者会議に選ばれていたことから、政策に反映してもらうには有識者に選ばれること、その条件は何かも知った。
「モテ」のため行動力封印した中高時代
撮影:持田薫
田中がジェンダー問題やフェミニズムに出合ったのは、実はWaffle設立後だ。
ずっとモヤモヤした違和感は持っていた。父は会社員、母は専業主婦だったが、「なぜ母親しか家事をしないんだろう。留学中のホームステイ先の家庭では男性も家事をしていたのに」。その違和感に言葉を与えてくれたのが、フェミニズムだった。
田中は小学校時代から、周りの子どもが大人の言うことに黙って従っても、疑問を感じれば「なぜ?」と臆せず聞いた。自分の理想とはかけ離れたものに感じた違和感を黙って見過ごすことができなかった。起業に至るまでの行動力は「筋肉を一つひとつ鍛えるように身につけていった」と言うが、田中はその行動力を封印していた時期がある。
中学校に上がってすぐに学年代表を決める選挙に田中は立候補した。何人か立候補した女子のうち、選ばれたのは学年でも目立つ、つまり明るくてカワイイ子だった。話す内容や実行力ではなく、女子は特にキャラと外見で選ばれる現実に直面した。
「10代という自我が芽生えて他者との関わりを優先する時期に、女の子はどうしても『カワイくあること』、つまり『モテる』ことの優先順位が上がる。私も、そうでした」
どうやったら他人を惹きつけられる外見になれるのか。スカートの丈にも腐心した経験を、「今、こんなジェンダーの活動をしているのに、ダメですよね」と田中は述懐する。でも、一度「外見を磨く」ことに振り切った経験があるからこそ、普通の女の子が通る道を経験したからこそ、伝わる言葉はある。女の子たちを覚醒させる力があるのだ。
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(文・浜田敬子、写真・持田薫)