自分たちの夢を実現している夫婦にパートナーシップを10の質問で探る「だから、夫婦やってます」。5回目の後編は、認定NPO法人ジャパンハート最高顧問で医師の吉岡秀人さん。
ミャンマーやカンボジアを中心に無償で医療提供する同団体を立ち上げ、4年前に理事長を妻の春菜さんに引き継いだ秀人さんから見た夫婦の転機や危機、子育て論とは。
—— 出会いのきっかけと結婚の経緯は?
医療格差に強い問題意識を持ち、ミャンマーでの医療活動を1人で始めたのが1995年。現地で活動する中で、腫瘍や火傷の治療などで外科手術を要する子どもが列をなす現実に接し、僕はあらためて小児外科の技術を磨こうと、日本に戻ることにしました。
岡山の大学で講師として働き始めたとき、僕を迎え入れた教授がとても学生指導に熱心で、学生たちが医局にしょっちゅう出入りしていたんですね。その中の1人に、春菜がいました。僕もおしゃべりなので、よく話をするようになったのが出会いです。
—— なぜ「この人」と結婚しようと思ったのですか?
途上国での医療支援をすると心に決めてからも、何人かの女性と付き合ってきましたが、その誰とも結婚には至りませんでした。彼女たちは皆、僕の夢について理解はしてくれても、あくまで遠くから見守るとか、陰で支えるようなスタンスで、人生を共にするパートナーとしては違和感があったからです。相手の人生を消耗させてしまうだろうなと踏み出せなかったんです。
でも、春菜だけは違いました。付き合い始めて対話を重ねるうちに、僕に必要だったのは春菜のような女性だったのだと気づきました。すなわち、僕と同じ使命感をもって、時に僕の代わりとなって頑張ってくれる女性。当時の彼女の言動に決定的な何かがあった訳ではないのですが、人格全体が醸し出すもので、それは感じ取れました。夫婦に限らず人間関係において、人格を見るのに、それほど長い時間は必要ないと思っています。
彼女とは同じ気持ちで道を進んでいけるという確信を持ってやってきましたが、4年前に理事長を引き継いだときには、実は少し心配もあったんです。春菜は僕とは違って調整型の人間なので、組織の代表として矢面に立つのはしんどいかなと。
けれどいざやってみると、まったく問題なくうまくやっていますね。彼女はふんわりとしているようで、いざという時には押しが強い。コロナ禍でも周りの人たちを上手に巻き込みながら、精力的に動いていました。なかなか経営のセンスがあるなと感じています。
お互いの年収も知らない
—— お互いの自己実現を支援するために、大切にしてきたことは?
未来をどうイメージできるかによって、目の前の現実の見方も変わるもの。つまり、少しでも明るい未来が描けていたら、現在に対しても前向きになれるし、もし未来が暗いと確定していたら、今頑張る意欲を維持することは難しくなる。
夫婦関係も同じで、重要なのは、2人で明るい未来を語れるかどうかなんです。ちょっとでも明るい未来を描けたら、そこに向かって2人で頑張れるし、協力し合える。ほら、「3年後に家を買うぞ!」と決めた夫婦はあまりケンカしないでしょう(笑)。
僕たち夫婦も暗い未来について話したことは一度もないですね。ジャパンハートの活動や子育て、家族のあり方について、常に明るい未来を描きながら話し合い、そこに向かってコトを進めていく。
現実には厳しいことはありますよ。2人でミャンマーで活動している時期には無収入でしたし。そういう時でも、「最低限、これだけの蓄えがあれば1年は暮らしていける」というラインが分かっていると不安は払拭できる訳です。
僕たち夫婦は経済的にはそれぞれ完全に自立していて、お互いの収入がいくらかも知らない。光熱費は春菜、固定資産税は僕というように項目ごとに分担して、金額が均等になっているかもよく分かっていません。ちなみに、教育費に関しては「その教育を子どもに受けさせたいと発案したほうが負担する」というルール。一時、息子たちを県外の学校に通わせていたときがあったのですが、それは彼女の発案だったので彼女が支払っていました。
—— パートナーから言われて、一番うれしかった言葉は?
これまで何度か言ってくれた、「あなたみたいな考え方をする人はいない」。発想や考え方が独特でユニークであると、一番近い人が評価してくれるのは嬉しいですね。普通は長く一緒に過ごしているうちに慣れてしまうような気がしますが、20年近く一緒にいても、僕の言葉を新鮮に受け取ってくれるんですよ。
—— 日頃の家事や育児の分担ルールは?
僕はあまり日本の家にいないこともあって、家事はほとんど春菜と母に任せています。彼女は健康志向で食事にもこだわるタイプですが、僕はまったく気にしない。食の好みは全然違うかもしれないですね。
掃除は、僕のほうが得意です。部屋の隅の埃が気になって「いつ掃除した?」と聞くと「さっきしたよ」と返ってくる。「ほんとかな」と内心思いながら、黙って掃除機をかけるんです(笑)。いちいち言葉にしたらケンカになりますからね。
子どもたちがまだ小さかったときは大変でしたし、子育ての方針をすり合わせるために、よく話すようにしていました。僕が日本にいる期間は、毎日数時間、子どもたちが寝静まったら母に見守りを任せて、近所の喫茶店に2人で行き、コーヒーを飲みながら長々と喋っていましたね。なんでもいいから、向き合って話す時間は夫婦には必要だと思いますよ。
家庭において、僕は口が悪いけど、彼女はよく笑う。彼女がよく笑うから、家の中はいつも明るい。「君のおかげで、うちは笑う角には福来たるやな」「ほんまやなぁ」と言い合っています。
10歳で親の生き方を見せる
—— 子育てで大事にしている方針は?
日常の細かいことは彼女に任せています。僕が父親として必ずやると決めていたのは、「親の生き方を見せる」機会をつくることです。そのため、息子2人にはそれぞれ10歳の時に2カ月間、僕の近くに呼び寄せて日常に同行させ、一緒に過ごす体験をさせました。10歳という年齢が、人間形成における重要なターニングポイントであることは故・日野原重明先生もおっしゃっています。
第一次反抗期が終わる3歳までは母性(「安心・安全」を与える存在)で、その後、第二次反抗期が始まる10歳までは父性(「生きる勇気」を与える存在)で寄り添うことが、子育てにおいて重要だというのが僕の考えです。10歳を過ぎると、親の言うことは聞かなくなりますから、10歳という年齢を迎える時期は、親が子に直接教えられる最後のチャンス。
僕と一緒に過ごした2カ月ほどで、息子たちは途上国の厳しい現実やさまざまな状況に置かれる人間の営み、そこで自分の父親が何をしているか、近くにいる他の大人たちは何をしているか、あらゆるものを全身で感じ取り、吸収したことでしょう。言葉で何かを伝えた訳ではありませんが、きっと心の奥底に沈澱し、人生に長く生き続けるものを得てくれただろうと信じています。
この体験を僕は「父性の総仕上げ」と呼んでいて、春菜にも「僕が伝えられることはもうすべて伝え終わった」と話しています。知識は後からいくらでも身につけられますが、親が子どもに体験を与えられる時期は限られています。
医療においても、医学書にある専門知識が発動するのは後から。まずは人間として相手の顔色や声色の違いを察知し、「何か変だよ。大丈夫?」と額に手を当てられる感性と良識の力が土台になる。子育てにおいてはその土台づくりを大切にしてきました。
息子たちは高校生と中学生になりましたが、学校の先生も「どうしたらこんなに優しい子が育つのですか」と驚くそうです。おやつをまず友達に分ける。パンを買おうとすると、わざわざ引き返して一番売れ残りの多いパン屋を選ぶ。そんな人間に育ってきてくれていることを誇りに感じています。
世の中を大切にした人が大切にされる
—— 夫婦にとって最もハードだった体験は? それをどう乗り越えましたか?
外国で無償で医療活動をしている僕は、いわゆる「大黒柱として家族を食わせる」という生き方ではありませんし、家族と一緒に過ごせる時間も限られています。
50歳近くになるまで、母から「もっとちゃんとしなさい」と叱られていました。けれど、僕が48歳になった頃から母の言い方が変わったんですよね。「お前の家族ほど、世の中に大切にしてもらっている家族はない。それはお前が今まで世の中を大切にしてきたからだ」と。その頃から僕の活動が認められて、表彰されることが増えてきたんですね。
ある時、日本政府から電話がかかってきて、「今度、アウン・サン・スー・チーさんが来日するので晩餐会に出席してほしい」と頼まれたことがありました。僕はラオスで手術の予定が入っていたので、代わりに春菜に行ってもらったんです。手術が終わるとちょうど日本からメールが入っていて、名だたる宰相や企業トップに囲まれ、ワインを片手にほろ酔い顔の彼女が写っていました。
時間がだいぶかかったけれど、ようやくリターンが返ってきて、家族も潤すことができたなと感慨深い気持ちになりました。どんなに金持ちで力の強い男でも、たった1人の力で自分の家族を100%守ることは不可能でしょう。でも、世の中を味方にすれば最強です。これからもできるだけ家族には、こういう体験でのお返しをしたいと思っています。
—— これからの夫婦の夢は?
2人で実現したい夢、すぐには浮かばないですね。ひょっとしたら、今の日常が夢そのものかもしれないですね。
僕たちの活動にゴールはありませんし、人の命も流れの一部。何かをもって完成させようとすること自体が不自然なのです。自分たちがやっていることが明るい未来に続く大きな流れの一部であることを、誇りに思いながら過ごせればいい。完成はしないし、到達はしないけれども、やがて人類が病から解放されたときに、確かに自分もその流れの一部に参加できたと思えるかどうか。その大河の流れを少しでも速めることが、僕たちの役目なのでしょう。
尊重できなくなったら一緒にいなくていい
—— あなたにとって「夫婦」とは?
「時空を超えた友人」でしょうね。仏教の輪廻思想に近い発想かもしれませんが、もしも僕らに魂があって、死んだ後にもこの世のどこかに魂の情報が残り、なんらかの物質として生まれ変わるとしたら、僕と春菜はまた出会うのだと思います。
友人なのか、きょうだいなのか、敵か、あるいはまた夫婦なのか。関係はわかりませんが、僕らは常に絡み合う存在なのだろうなと。そんなつながりを縁と呼び、強い縁で引き合うのが夫婦というものなのかもしれません。
—— 日本の夫婦関係がよりよくなるための提言を。
そんなことを言いながら矛盾するようですが、たとえ一度一緒になった夫婦でも、時を重ねて関係性が変わることだってあるでしょう。苦しむくらいなら、より幸せな道を選ぶべきですし、お互いを尊重できなくなったのなら、一緒になる必要はないと思います。僕の友人は50歳を過ぎて「夫婦を解散します!」と前向きに公表して離婚をしていました。
日本人の寿命は伸び、我慢してまで一生添い遂げよという常識は変えていったほうがいい。夫婦だからといって毎日一緒にいなければいけないというルールもないし、今の時代に合う新しい夫婦観・家族観をそれぞれがつくっていけばいいと思います。
どんな形であっても、お互いがお互いの人生を追求できるパートナーであればいい。いろんな社会システムと同様に、夫婦のあり方も型にとらわれず、新しい形を追求していくほうがいいと思います。