「思考のコンパスを手に入れる」ために、山口周さんによるさまざまな知見を持つ人との対話。
前回に引き続き、対談相手は『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』で人間関係の貸し借りが人生のセーフティネットになると解説した文化人類学者の小川さやかさん。後編では、ルールに縛られないタンザニアの「インフォーマル経済」から日本社会が不寛容な理由を考察します。
人間関係を可視化させたインターネット
山口周氏(以下、山口):1万円を500人に貸すことで、自分が困った時、誰か助けてくれるかもしれないというお話がありました。インターネットが普及すると、SNSで知り合った見ず知らずの人とエム・ペサを使って貸し借りが可能になりますよね。人間関係がバーチャル空間に移行する中で、これまでの貸し借りの考え方は変わっていくのでしょうか。
小川さやか氏(以下、小川):タンザニアの多くの人にとっては、インターネット上のバーチャル空間は実はリアル空間と地続きです。
例えば路上で靴磨きをしていた時の友達は、その後に古着商人になったら、それきりでした。そして古着商人をやめて板金職人になって、建設現場で働いてといった転職を繰り返していく。ところがインターネットの普及で、昔の友達とも瞬時につながるようになった。過去の人間関係がつながって可視化されているのが彼らにとってのインターネットです。
バーチャルな人間関係は、これまで築いてきたリアルな人間関係と地続きで、そこで新たに出会う人がいても、辿っていくとリアルな友達の友達というように、どこかでつながっています。
加えて、もともとの世界がある意味ではインターネット的です。都市部では友人同士がニックネームで呼び合うのが普通で「俺はJだ」「俺はトール」で人間関係が成立してしまう。Jがジョンなのかジュなのかもわからないし、背が高い人はみんなトールになります。いわばリアルの世界がアイコンでできている。
ニックネームしか知らない顔見知りに数十万円の商品を渡して売りに行ってもらうのも当たり前で、インフォーマル経済に履歴書は要らないし、住民票もありませんから、トンズラされたら終わりです。
では、どうやって相手を見極めるのか。それは相手が他の誰との関係性に埋め込まれているか、つまり誰の友達か、誰と貸し借りをしているのか、さらに普段の言動を見て「この人になら貸してもいい」と判断しています。ですから、そもそもバーチャルな人間関係とリアルな人間関係をあまり明確に区別していないと思います。
さらに、貸した相手そのものも一種の投資だと彼らは考えています。自分が1万円貸した相手が大富豪の社長になるかもしれないし、ただの詐欺師かもしれません。結果がわかりきった人に賭けるのは銀行預金と一緒。人生の博打としては、身元も不明でどうなるかわからない人に賭ける方が面白いですよね。
不確実性があるから寛容になれる
小川さんの著作の舞台になった、香港のチョンキンションマンション。
撮影:小川さやか
山口:僕も銀行の人に言っています。1万人に1人くらい貯金がゼロになる代わりに、100万人に1人、その分の貯金が当たるようにしたらどうかって(笑)。そうすれば預金する人が増えますよと言うのですが、ポカーンとされます。
社会から偶有性があまりにも失われた結果、不確実性が商売になる時代です。パチンコ産業は20兆円市場ですが、20兆円でみんなが買っているのは不確実性です。生物がこれだけ広いエリアに拡散したのは、不確実性に適応したからですし、人間はある種の不確実性を食べて暮らしていて、偶有性がなければ生きていけない。
100年前には「何かが起こるのではないか」と畏れていましたが、現代では「何も起こらないのではないか」と畏れている。
不確実が希望がないことと同義に語られることへの問題意識を掲げておられました。むしろ「先がどうなるかわからないことは、新しい希望にあふれているとも言える」と。操作可能性と予測可能性が「明日どうなるかわからないといったゾワゾワ」を封じているとも。
このゾワゾワという身体感覚が回復していかないと、生きることの生々しい手応えは日本の社会から失われてしまう。そこが問題意識のベースになっておられるのだなと。
小川:その通りです。日本社会は、近代を通じて不確実性を可能な限り排除して、予測可能性を高めることを目指してきました。その過程で、インフォーマルなもの、非公式なものは排除され、良くないもの、取るに足らないものだという価値観が定着した。その結果、フォーマルなものに極度に依存する社会になったと思います。
テクノロジーの発展で、将来かかる病気まで遺伝子解析で予測できるようになりました。リスクを予測可能なものと捉えるので、回避せずに失敗したら自己責任であるとみなされ、時にバッシングされます。タンザニアの人たちは逆で、むしろ不確実だからこそ生きていられるという価値観です。
不確実性があってこそ贈与が成り立つ。人生とはままならないものだから、何か不運が起こったとしても、その人にすべての責任があるわけではない。何が起こるかわからないから、優しくしてあげた誰かは路上生活者で終わるかもしれないけれども、ひょっとしたら億万長者になるかもしれない。
だから自身だけでなく他者の未来にも賭けるという意味の贈与が生まれます。不確実性がある程度あるからこそ、自分や他人に対する寛容さが生まれ、社会を形成しています。
適度にルール無視するから秩序が成り立つ
小川さやかさんとタンザニアの商店主。
提供:小川さやか
山口:同じ種類の動物でも家畜と野生動物では脳の大きさが違うというダーウィンの研究がありますね。不確実性に向き合わなければ生物として弱くなってしまう。
デヴィッド・グレーバーは『官僚制のユートピア』で、それぞれの善悪の判断や損得勘定で動けば、規制でがんじがらめにしなくても社会は回ると書いています。オランダで交通事故が非常に多い交差点から信号を撤去したら事故が激減したという話もあります。
僕たちが絶対視しているシステムやルールがパフォーマンスの向上にどれだけ寄与しているのか、実は相当疑いの目を持ってみる必要がある。
小川:私はデヴィッド・グレーバーもジェームズ・スコットも愛読しているので、アナキズム寄りですが(笑)。インフォーマル経済の研究をしていて、警察組織や裁判所に頼れないところで、社会が崩壊せずそれなりに回ることにしばしば驚きと感動を覚えます。
ジェームス・スコットは『実践 日々のアナキズム——世界に抗う土着の秩序の作り方』の中で遵法ストライキについて書いています。パリのタクシー運転手たちが交通ルールを完璧に守るというストライキで、それをした途端、交通麻痺が起こる(笑)。
実際、法定速度やルールを完璧に守っていたら、交通は回りません。ここではスピード上げてもいいかなとか、ここは危険だからスピードを落とそうとか、お互いにハンドサインを出しながら、融通して回している。
ルールを適度に無視して、自分たちで考えて何かをしている状態は、交通だけでなく、社会の隅々にあり、本来その上に秩序ができているはずです。そのことを忘れて、細かいルールをつくっては制度化しようとすると、ひとつ制度をつくるとまた別の制度をつくらなければならなくなるのが現実ではないでしょうか。
大阪では昔、バス停で並びませんでしたが、お年寄りや妊婦さんがいたら先に乗せてあげるし、走ってくる人がいたらわざとゆっくり乗って、おのずと秩序が保たれていたという話を聞いたことがあります。でも整列乗車の標識線が引かれると、先着順が唯一のルールになり、バスに乗れば、体の不自由な方や妊婦さんには優先席を譲りましょうとアナウンスを流すことになります。
自分たちが融通を効かせてきたことをルール化することで、違うルールで何かを補い、また違うルールで補い、でもどんなにたくさんルールをつくったところで、みんなが臨機応変に知恵を働かせて運用してきた状態は再現できず、がんじがらめになっていく。
「ずる賢さの哲学」はストリートで学ぶ
山口:日本の学校もナンセンスな校則がたくさんありますね。下着の色まで規定するなど意味不明です。「良識の範囲内で」と一言言えば済むのに、細かいルールでがんじがらめにしようとする。
小川さんの本を読むと、タンザニアの人たちは貸したお金が返ってこなくても、仕方ないねとあっさり水に流しています。それもまた、ある種の成熟ではないかと感じました。ルールを極力排除して「良識の範囲で」考えられるのは、成熟度と何らかの関係があるのではないかと思います。
小川:『都市を生きぬくための狡知―タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』にも書きましたが、タンザニアの人たちは、狡知、つまりずる賢さをストリートの教育で学びます。彼らは、嘘イコール悪いことだと思っていません。
でもオレオレ詐欺の話をすると、それはひどいと言います。たしかに安物を高く売りつけることもあるが、売りつけた相手が血眼になって追いかけてくるような商売はよくないと。
だまされても気づかない人だっているし、気づいたところで明日になれば忘れてしまうようなお金持ちだっている。そういう人を狙って上手にやらないと回らないじゃないか、というのが彼らの言い分です。
どこまで計算高いのか、天然なのかわからない。ずる賢さを徹底的に押し出して、そこまでやるなら面白いとか、哀れだから仕方ない、そこまで完璧にゴマをするならあっぱれだと相手に思わせる。
ずる賢いことをスワヒリ語でウジャンジャと言いますが、そこまでやったらウジャンジャの真骨頂だという言い方をします。ずる賢さの哲学のようなものがある。その狡知をストリートで学びます。
不確実性に身を投じると生きやすくなる
タンザニアの露天の商人たち。
撮影:小川さやか
山口:ヤクザの仁義のようですね。非合法コミュニティではあるけれども、ヒューマニズムに根ざしたルールがある。仁義を欠いていないかというコミュニティの内在的なルールを常に考えなければ生き残れない世界でもあります。
「法的な違法性(illegal)」と「道義的な違法性(illicit)」と書かれていましたが、「道義的な違法性」を判断できるのは、同じコミュニティの内在的なルールがあってこそです。
明文化されたルールがあるわけではないけれども「ここまでやったらまずいかな」という一線を超えてしまうと、コミュニティの価値を毀損して、村八分にされてしまう。
ジャレド・ダイアモンドは、アメリカ人の思考様式を形成する最大の要因のひとつは、国土の広さだと言っています。ヨーロッパでは生まれ育った町の100キロ圏内に小学校の同級生たちが住んでいて、狭い関係性の中で生きていかざるを得ない。
でもアメリカでは、西海岸から東海岸に移るだけで、それまでの関係性をご破算にしてリセットできます。だからこそ連邦法のように州を横断する明文法が生まれました。
タンザニア人にとっては、貸し借りを含めた人的なネットワークが生きるための資本になっていて、コミュニティから抜けることは、財産を捨てるのと等しい。だからコミュニティの中で限度を超えたインモラルな行動を抑止する効果があり、自分の貸しがいつかどこかで返ってくる安心感を持って生きていくことができるんだなと。
小川:たしかに香港や中国にいても、タンザニア人ネットワークから外れることはないですね。ちゃんと故郷のネットワークの中に埋め込まれています。もちろん日本のように同じ会社で30年勤続するという発想はゼロですし、人間関係もコロコロ変えますが、広いネットワークの中に生き続けています。
山口:1970年代にアイルランドで銀行ストライキが起きた時、商業銀行が半年以上閉鎖して経済がストップするだろうと思ったら、むしろ経済は成長した。アイルランドには、どんな小さな村にもパブがあると言われますが、常連の誰がどこに勤めて給料はどれくらいなのか、パブの主人は知っています。「あの人なら大丈夫」だとパブの主人が言うと、それが信用の裏書きとなって、小切手のように流通したそうです。
トップダウンでつくられたシステムがなければ社会は回らないと僕たちは思っていますが、実はそうではない。むしろ人類の歴史を見れば、そんなシステムがなくてもやってきました。そういう先入観に囚われない方がいいし、それから不確実性の中に身を投げ出していく方がゾワゾワして楽しい。
小川:タンザニアに「ずる賢いウサギ」という民話があります。ウサギが自分より力の強い動物や人間を騙して世渡りする物語ですが、たまに失敗することもある。
日本では因幡の白兎のように勧善懲悪の話になりますが、タンザニアでは違います。どんなに知恵を働かせても、失敗する時は失敗する。それは運が悪かったりツメが甘かったりしたからで、そもそも世界はそういうものだという教訓を学びます。
報われないこともあるのだという前提のうえで努力や正義の大切さを説き、ままならなさや不条理に、どんなふうに知恵を働かせたり、対峙したりしていけばいいのかを問う力こそが大事なんだと教えられます。
不確実性とは、そういうことだと思います。努力はすばらしいという価値観と、それがうまくいくかどうかは別の話です。
人生とは不確実なもので、努力が必ずしも報われるとは限らないし、予測できないこともたくさんある。だからこそ面白いし、他人を受け入れ、自分が受け入れられる余地もある。そんな価値観に身を投じることができたら 生きやすい世界になるのではないでしょうか。
(構成・渡辺裕子、山口氏写真・伊藤圭、編集・浜田敬子、小倉宏弥、デザイン・星野美緒)
小川さやか:1978年愛知県生まれ。専門は文化人類学、アフリカ研究。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程指導認定退学。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員、国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同センター助教、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授を経て、現在同研究科教授。『都市を生きぬくための狡知――タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』で、2011年サントリー学芸賞(社会・風俗部門)受賞。そのほかの著著に『「その日暮らし」の人類学――もう一つの資本主義経済』がある。
山口周:1970年生まれ。独立研究者・著作家・パブリックスピーカー。World Economic Forum Global Future Council メンバー。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了後、電通、ボストン・コンサルティング・グループなどで経営戦略策定、組織開発に従事した。著書に『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』『ビジネスの未来』など。