4月13日、セルビアの首都ベオグラードの接種会場で、2回目の米ファイザー製ワクチン接種を受ける男性。
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バルカン半島・旧ユーゴスラビアのセルビアが脚光を浴びている。新型コロナウイルスのワクチン接種が進み、経済活動の正常化が進んでいるためだ。
2回目まで完了したワクチン接種率は人口の30%近くに達し(5月30日時点)、ドイツやフランスといったヨーロッパの先進国を引き離している。5月上旬には店内での飲食も容認され、首都ベオグラードを中心に、街は活気を取り戻しているようだ。
セルビアでは米ファイザー製をはじめ、米モデルナ製、英アストラゼネカ製、ロシア製(スプートニクV)、中国医薬集団(シノファーム)製の5種類から新型コロナウイルスのワクチンを選ぶことができる。
要するにセルビアは、ワクチンを世界中からかき集めることに成功し、それが順調なワクチンの接種につながっているというわけだ。
日本の報道では、セルビアで順調に進むワクチン接種に、中国の暗躍を指摘する声が目立つ。いわゆる「一帯一路」構想への関心からだろうが、これは少々、オーバーシュートした見方と言わざるを得ない。
確かに、セルビアは親中的な国家である。だからといって、セルビアは中国に完全に歩調を合わせているわけではないことに注意したい。
そもそもセルビアは隣国のモンテネグロと同様、早ければ2025年に欧州連合(EU)に加盟する。EU加盟は長年の国是であり、一義的には、EUとの関係を重視せざるを得ない。
とはいえセルビアは、旧ユーゴ紛争(1991~2001年)で一方的に悪役に仕立てられて以来、EUに対して根深い不信感を抱えている。
元々はロシアと密接なセルビア
もともとセルビアは、中国というよりもむしろロシアとの間で親密な関係を築いてきたことで知られる。民族的にも宗教的にも近く、ともに北大西洋条約機構(NATO)に対して強い警戒心を抱いていることが主な理由だ。そもそもNATOは旧ソ連を念頭にした欧米による軍事同盟であり、現在でも後継国家であるロシアを仮想敵国としている。
独立問題を抱えていたコソボでの「人権侵害」を理由に、セルビアはNATOから一方的に空爆を受けた経験があるためだ。
新ユーゴスラビア連邦時代の1999年のことだが、その記憶は今でも欧米、とりわけEUに対する不信感としてセルビアに残り続けている。隣国モンテネグロをはじめ、西バルカン諸国(バルカン半島に属した国のうち、まだEUに加盟していない国々)でもNATOへの加盟を目指す国が増えてきたなかで、セルビアは一貫してNATO加盟には否定的だ。
かつてソ連版NATOともいえる軍事同盟「ワルシャワ条約機構」には、中東欧諸国のほとんどが加盟していた。ソ連解体と前後してワルシャワ条約機構も崩壊したが、ロシアを念頭にNATOは残り続けている。
中東欧諸国の大部分がEUとNATOに加盟した今、ロシアとしては西バルカン諸国のNATO加盟は何としても防ぎたいところだ。
そうしたなかでロシアは、ベラルーシとともにセルビアを抱き込む形で「スラブの兄弟愛(slavic brotherhood)」と呼ばれる軍事協力関係を結び、定期的に演習を行うなど関係を深めてきた。
こうした下地があったからこそ、セルビアはロシア製の新型コロナワクチンであるスプートニクVを円滑に入手することができたのである。
EUの欺瞞を突いた中国のワクチン外交
セルビアの都市クラグイェバツのレストランで中国シノファーム製のワクチンを接種する男性。この店ではワクチン接種促進のため、接種者なら1回に限り、火曜日に無料で食事ができる。
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EUの執行部局である欧州委員会のユンケル前委員長は2018年2月、早ければ2025年にもセルビアとモンテネグロのEU加盟を容認するスタンスを示した。
しかし、それからわずか1年半後の2019年10月、今度はフランスのマクロン大統領が西バルカン諸国のEU加盟に対して異議を唱えるなど、EUは煮え切らない態度に終始した。
さらに新型コロナウイルスの世界的な拡大が確認された2020年春のEUの対応が、セルビアのEU不信を一気に強めることになった。つまりEUはマスクなど医療物資の域外への輸出を禁じ、加盟候補国への援助を怠ったのだ。
この欺瞞を突く形で、中国は積極的な「マスク外交」を展開、セルビア人の信頼を急速に勝ち取ったのである。
中国もまた、EUに圧力をかける観点からセルビアに接近している。
従来は確かに「一帯一路」構想の観点から、中国はセルビアに接近していた側面が強い。とはいえ中国による投融資が思いのほか実現せず、中東欧や西バルカン諸国からは中国と距離をとる国が目立ち始めている。
そうしたなかで、セルビアは数少ない親中国スタンスをとり続けている国の1つだ。
習近平国家主席が「一帯一路」構想を掲げ続ける以上、中国はそれを下ろすことはできない。しかし中東欧や西バルカンをひとくくりで抱えることができない現状を踏まえた場合、ピンポイントで親中国を支援し、EUに対して圧力をかけるほうが効果的となる。
中国の外交姿勢も、量から質への転換期を迎えていると言えるだろう。
大量のワクチン確保を可能にしたたかな外交戦略
こうしたロシアと中国の暗躍が予想されたからこそ、EUはセルビアをいち早く自らに取り込もうとしたわけだ。
しかし、EUはその煮え切らなさゆえに、セルビアがロシアや中国から新型コロナワクチンをスムーズに入手する展開を許した。挽回を図りたいEUは、セルビアなど西バルカン諸国向けにワクチンの供給を強化した。
結果的に、セルビアはワクチンの坩堝(るつぼ)となり、ヨーロッパでも屈指の接種率を誇るようになった。セルビアが持つ地政学的な重要性が、今回は吉となったかたちだ。
中国シノファーム製のワクチン。これだけではなく、地政学的な理由から、積極的なワクチン供給がなされ、結果的にセルビアは潤沢なワクチン確保に成功した。
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同時に垣間見えるのが、セルビアのしたたかな外交戦術である。セルビアは人口700万余りの小国だが、ユーゴスラビアを率いた過去の経験もあり、一筋縄ではいかない。
セルビアの基本路線は、あくまで2025年のEU加盟だ。
しかし、EUへの不信感が拭えないなかで、セルビアはこれまでもロシアと中国を利用し、EUに対して圧力をかけてきた。こうしたセルビアのしたたかさを読み間違えると、セルビアが「一帯一路」構想にまい進する中国に、名実ともに接近しているという単純な理解に陥ってしまう。
ワクチン開発で後塵を拝する日本にとって、セルビアの事例は単に遠い国の出来事かもしれない。
しかしセルビアのケースは、新型コロナウイルスのワクチンをめぐる駆け引きが国際政治そのものであること、そしてそのパワーゲームが、必ずしも大国にとって有利なばかりではないことを良く物語っている。
(文・土田陽介)
土田陽介(つちだ・ようすけ):三菱UFJリサーチ&コンサルティング(株)調査部副主任研究員。2005年一橋大経卒、2006年同修士課程修了。エコノミストとして欧州を中心にロシア、トルコ、新興国のマクロ経済、経済政策、政治情勢などについて調査・研究を行う。主要経済誌への寄稿(含むオンライン)、近著に『ドル化とは何か‐日本で米ドルが使われる日』(ちくま新書)。