Robert Deutsch / Reuters
大坂なおみが全仏オープンで記者会見を拒否し、最終的に棄権するというニュースが流れた時、私がまず思い出したのは、彼女自身が最近インタビューで述べた言葉だった。
「誰かのプロフィールを見ても、その人のことは本当には分からない。その人の人生を垣間見ることができるような気がするけれど、それはある意味、少し間違っている。
“You don’t really know people, by looking at their profile.” “You feel like you can sort of catch a glimpse into their life, which, in a way, is a bit wrong.”」
2018年の全米オープンでの優勝以降この3年間、特に昨年の全米オープン以降の活躍ぶりで、彼女に対する注目度はテニス界も国境も超えて爆発的に広がっている。
今の熱狂の引き金になったのは、やはり昨年の彼女の言動だったと思う。黒人に対する暴力への抗議として試合をボイコットし、全米オープンで警察による暴力の犠牲者7人の名前が書かれたマスクをつけて臨んだ姿は、多くの人の心を動かした。
アメリカでの報道の圧倒的多数は、彼女の「コートの外」での発言や行動を、試合の結果と同列に褒め称えていた。全米オープンも公式ページに「アスリートとして、そしてアクティビストとして、大坂なおみはチャンピオンである」と載せていた。
昨年のこの出来事を機に、彼女は社会正義のために行動する勇気あるオピニオンリーダー、ロールモデルとして認知されるようになり、彼女がSNSを通じて発信する言葉は、「正直」「Authentic(その人らしい。嘘くさくない)」と形容され、好感度につながっている。
女性スポーツ選手として史上最高額の収入
全仏オープン棄権の前の1カ月間も、ひっきりなしにニュースになっていた。5月上旬には、2021年のローレウス世界スポーツ賞最優秀女子選手賞に選ばれた(2度目)。ローレウスは、40以上の国や地域において、スポーツの力で若者の生活を変えるためのプログラムを支援する組織だ。受賞に際し、大坂はこう述べている。
「コート上での私の活動について、声を上げることが大切だと思いました。私は自分に自信がなくて、周囲からどう思われているか心配になり、行動に移すのを何度もためらいました。でもその機会があるなら、利用することがとても大切だと思ったんです。今後の抱負としては、できるだけ多くの人を救ったり影響を与えたりして、もっと良い人間になりたいと思っています」
5月上旬には、ニューヨークのメトロポリタン美術館のガラの共同議長にも選ばれた。同美術館が毎年開催するガラ(通称:Met Gala)はニューヨークの春の風物詩で、毎年5月の第一月曜日に行われる一大パーティーだ(今年はコロナの影響で9月に開催される)。
ハリウッドのスターはじめ著名人たちが、それぞれ展覧会テーマに基づいたデザインのドレスでレッドカーペットを飾る。今年の共同議長は、俳優のティモシー・シャラメ、歌手のビリー・アイリッシュ、大統領就任式で詩を朗読した詩人のアマンダ・ゴーマン、そして大坂。Z世代を代表するスーパースターを各分野から揃えた人選には期待が高まっている。
大坂は2021年1月号の Vogue の表紙も飾り、1月にはルイ・ヴィトンとブランド大使の契約も結んだ。
ファッションブランドに限らず、彼女とビジネスしたいという企業は多く、2020年5月、大坂はセリーナ・ウィリアムスを抜き、世界で最も高額を稼いだ女性スポーツ選手となった。1年間で稼いだ金額は、賞金、スポンサー契約合わせて3740万ドル(約41億4000万円)。これによって、彼女は女性スポーツ選手が1年間で稼いだ最高額の記録(2015年のマリア・シャラポワの2970万ドル)を塗り変えた。フォーブズは今年6月、大坂が自らの記録を更に塗り替え、過去12カ月間で6000万ドルを稼いだと報じた。もちろん、女性スポーツ選手として史上最高額だ。
このようなニュースを見聞きする限り、彼女の人生は順風満帆そのものに見える。まだ23歳の若さで、名誉も財産も手に入れ、実力もある。企業からは引っ張りだこで、世界中のファンに愛され尊敬されている。そんな中流れてきたのが、全仏オープン棄権のニュースだったのだ。
「勝敗が自分の存在の全てではない」
2021年2月、全豪オープンでも優勝し、テニスだけでなく、発言の影響力も増していた。
LOREN ELLIOTT / Reuters
大坂は最初記者会見を拒否した理由を、「自分のメンタルヘルスを守るため」と説明した。同じような質問を何度もされ、自分の心の中にパフォーマンスについての疑念を生むような問いをされることが嫌だったと。1万5000ドルの罰金は喜んで払う、そのお金をメンタルヘルスのための慈善事業に寄付してほしいとも述べていた。
それを受け、四大大会の主催者は連名で、今後も会見に応じない場合は、出場停止処分とする可能性にまで言及し、記者会見は選手の義務だという立場を貫いた。
だがその後、大坂がこの数年「鬱」だったことを明かしたことで、主催者側との立ち位置が逆転。主催者側が、彼女の「自分のメンタルヘルスを守るため」という言葉を真剣に受け止めなかったことが、冷酷に映る結果となった。
大坂は2021年1月の全豪オープンでセリーナ・ウィリアムスに勝った後に、
「私はかつては、試合に勝ったか負けたかに自分の存在の全てがかかっていると考えていました。今はもうそういう風には感じていません。
“I used to weigh my entire existence on whether I won or lost a tennis match. That’s just not how I feel anymore.” 」
と述べている。彼女自身の考え方も変化してきたということなのだろう。そして、今の自分にとっては、精神の平安を守ることが何よりも大事だという結論を出したのだと思う。
スポーツ選手間でも分かれる反応
この一連の出来事と彼女の言動に対しては、賛否がハッキリ分かれ、今も議論は続いている。
多くの著名なスポーツ選手たちは、大坂に共感し、励ますコメントを出していた。セリーナ・ウィリアムスは、同じような立場を経験してきた身として大坂の気持ちがよく分かるし、できることなら今すぐハグしてあげたいと述べていた。
往年の名選手であるナブラチロワも、こう述べた。
「私たちは選手として、体のケアをするようには教えられますが、精神的・感情的な面は軽視されてきたように思います。これは、記者会見をする・しないということ以上の問題です」
テニス界以外からも、NBAゴールデン・ステート・ウォリアーズのスター選手であるスティーブン・カリーは、
「こんな決断を強いられることがあってはならない。でも、権威ある立場の人々が選手を守ってくれない時、こんな風に立派なやり方で対応している君はものすごく素晴らしい」
イギリスの陸上史上最速の女子短距離選手で、2019年世界陸上金メダリストのディナ・アッシャー・スミス選手は、
「リスペクト! 誰かが自分のメンタルヘルスを守るために必要な手を打っている時、人々は耳を傾け、解決のために力を合わせるべきです。彼女をさらに追い詰めるのではなく。選手たちのメンタルヘルスの問題は真剣に受け止められるべき」
一方、彼女を批判する側の声も大きかった。多くは、彼女ほどの選手なら、メディア対応は成功の対価として受け入れて当然で、それをしないのは甘えであり、プロとしての自覚がないという論理だ。現在の男子テニスのトッププレイヤーであるナダルも、大坂の決断を尊重するけれども、プロの選手は自分のパフォーマンスについて答える義務があると思うと述べた。
イギリスの元テニス選手アンドリュー・キャッスルも、「彼女は完全に間違っている」と批判し、選手の仕事は「テニスの球を打つだけ」ではなく、記者に答えることも義務のうちだと述べている。
英メディア「テレグラフ」の著名スポーツライター、オリバー・ブラウンは、「ディーバ(女王様)気取り」だと批判。やはりイギリスのテレビ司会者ピアース・モーガンは、「世界のスポーツ界で最も怒りっぽい小生意気な女の子 (“world sport’s most petulant little madam.”)」で「ナルシシスティック」「傲慢」「甘やかされている」「膨張したエゴの持ち主」とこき下ろした。モーガンは、メーガン妃がオプラ・ウィンフリーとの対談番組でメンタルヘルス問題を告白した時も、自らがアンカーを務める番組の中でメーガン妃は嘘をついていると述べ、降板させられている。
深刻さが理解されにくいメンタルヘルス
モーガンは極端な例だとしても、大坂の告白後に彼女をバッシングする声をメディアやSNSで見聞きするたびに感じたのは、メンタルヘルスの深刻さがきちんと理解されていないということだ。
今日のアメリカでは、特にZ世代(現在18〜25歳)に鬱や不安障害が多くなっており、深刻な鬱の症状を経験したことがある人は8人に1人、親世代に比べると圧倒的に多いというデータがある。大坂もこの世代だ。一つにはテクノロジーやコミュニケーションという環境変化の影響もあるだろうが、同時に、前世代に比べ、メンタルヘルスの問題を認め、カムアウトすることが、より一般的に受け入れられることとも関係していると思う。
Opinion: Naomi Osaka’s silence speaks volumes
イギリスのCenter for Mental Healthは6月1日に、オリバー・ブラウン、ピアース・モーガンのコメントに直接言及はしていないものの、「英メディアのコメンテーターたち」のメンタルヘルスに対する理解と共感のなさ、根深い偏見に対して遺憾の意と、改善すべきだという声明を出している。
白人男性が多数のスポーツメディア
2018年の全米オープン決勝にて、大坂と対戦したセリーナ・ウィリアムズは「コート上の差別」を明らかにした。
USA Today Sports / Reuters
一方で、今回のバッシングに関しては、大坂が女性で黒人・アジア人であることから、人種・性別という切り口の議論もある。
6月1日のワシントンポストには、「記者会見で、男性選手は選手でいられる。大坂なおみのような女性選手は、鬱陶しい質問に煩わされる」という題のコラムが掲載された。女性、特に黒人はじめ有色人種の女性選手がなぜ記者会見を拒否しがちかという問題について、このコラム二スト(モニカ・ヘス)は、「彼女たちはしばしばあまりにもひどい扱いを受けるから」と結論づけている。
記事に引用されている2016年のCambridge University Pressの研究が面白い。男性と女性の選手を描写するのに使われた言葉を比較してみると、男性について使われる(女性については使われない)言葉で一番多かったのは、「最速」「強い」「大きい」「素晴らしい」(“fastest,” “strong,” “big,” “great.”)だった。女性について最もよく使われていた(男性については使われない)言葉は、「未婚」「既婚」「妊娠中」「年とった」(“unmarried,” “married,” “pregnant,” “aged.”)だった。
スポーツ・メディア業界、少なくともアメリカのそれは、いまだに圧倒的に白人男性が占める社会だ。University of Central Floridaの Institute for Diversity and Ethics in Sports(スポーツにおける多様性・倫理研究所)の2018年の分析によれば、スポーツ・メディアの編集者の85%、コラムニストの80%、記者の82%は白人。編集者の90%、記者の88.5% は男性だという。
女性たちに向けられるあほらしい質問
テイラー・スウィフトなどセレブの間からも、メディアに対して「なぜ女性だけがくだらない質問をされるのか」という指摘が起きている。
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女性と男性に向けられる質問の性質が違うのはスポーツ界だけの話ではない。政治の世界でも芸能の世界でも、女性たちは日々、あほらしい質問を浴びせられている。
この手の話で私がまず思い出すのは、2010年にヒラリー・クリントンがキルギスタンを訪れた際の話だ。テレビ局KTRが主催した公開インタビューで、男性司会者がヒラリーに「どのデザイナーの服が好きですか?」と聞いた。ヒラリーが「男性にそんな質問をしますか?(Would you ever ask a man that question?)」と言い返すと、拍手喝采が起きた。しかもこの直前にヒラリーは、女性であることで性差別的な扱いを受けたり、男性なら気にしなくても良いようなことを気にしなくてはならない……という話をしたばかりだったのだ。
年齢に関する性差別的な質問にテイラー・スウィフトが、「男性が同じ質問をされるとは思えない」と答えたのも有名だし、カンヌ映画祭でケイト・ブランシェットに記者が「どうやって撮影と子育てを両立しているのか」と尋ねたとき、「それは絶対に男性には聞かない質問ね。女性にだけ向けられるものよ」と切り返したこともあった。彼女は「2014年になってもそうなのかと思う。私たちの業界だけではなく、全ての業界が同じ。本当に驚いてしまう。ときどき自分が中世に逆戻りしたんじゃないかと思うくらい」とも言っている。
レッドカーペットで記者たちが女優にする質問があまりにもくだらな過ぎると、2015年、リース・ウィザースプーンは#AskHerMoreというハッシュタグで、ジャーナリストたちに、着ているドレスやデートしている相手のことではなく、もっとまともな質問をしてくれと訴えるキャンペーンを起こしている。
次々と支持を表明したスポンサー企業
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大坂は日清食品、全日空、ヨネックスなど多くの企業と提携しているが、今や単なるイメージキャラクターとしてのスポンサー契約だけではなく、幅広い業種の企業とビジネスを手がけるようになっている。
5月19日のニューヨーク・タイムズは、「大坂なおみはいかにして全ての人のお気に入りのスポークス・モデルになったか:メット・ガラからサラダボウルまで、いきなりどこにでも現れるようになったテニス・チャンピオン」という記事を掲載している。
その記事によれば、ヘッドフォン・メーカーの Beats、リーバイス、ナイキなどと製品を開発したり、ドレスや水着をデザインしたり、4月にはKinlòというスキンケア商品の会社を作りCEOを務めるとも発表した。LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)が主催する新しい才能を発掘するためのコンペでは、審査員も務める。
鬱の告白は、ビジネス界からネガティブに受け取られるリスクもあったと思うが、今回の告白を受け、彼女とビジネスをする企業の多くは即座に強い支持を表明した。
ナイキ:「我々はナオミと共にある。彼女を支持し、自身のメンタルヘルスについて語った彼女の勇敢さを称えたい。
“Our thoughts are with Naomi”. “We support her and recognize her courage in sharing her own mental health experience.” 」
日清食品:「一刻も早い復帰を祈り、引き続きの成功を願う。
"We pray for Ms Naomi Osaka's earliest recovery, and wish her continue success”」
日産自動車:「私たちは、日産のアンバサダーが自分自身を表現する権利をサポートし、彼女の決断を支持します。
"We support the right of our ambassadors to express themselves and stand by her decision”」
サラダ専門のファストフードチェーン、スイートグリーン:「メンタルヘルスに関する話し合いを進める彼女の努力を支持し、スイートグリーンのチームの一員であることを誇りに思っている。
“Our partnership with Naomi Osaka is rooted in wellness in all its forms. We support her in furthering the conversation around mental health and are proud to have her part of the sweetgreen team.”
スイートグリーンの共同創業者で、チーフ・ブランド・オフィサーであるNathaniel Ruは、ウォールストリート・ジャーナルとのインタビューの中で「彼女が自分の脆さを公にしたこと、それがとても正直であったことに我々は非常に心を動かされました」と述べ、大坂とのパートナーシップはあらゆる意味でのウェルネス(健康さ)に関わるものであり、彼女と仕事できることを誇りに思うとしている。
瞑想アプリの会社Calmは、この度の大坂の罰金と同額の1万5000ドルをローレウス・スポーツ・フォー・グッド財団に寄付した。今後、メンタルヘルスを理由に四大大会でのメディア対応を拒否する選手たちが出てきた場合、全ての罰金を肩代わりする(あるいはローレウスに寄付)と発表し、話題になった。
大坂のメッセージを借りて発信する企業
デジタルネイティブなミレニアル・Z世代は10代からSNSに親しみ、急速に拡散する社会問題を自分ごととして捉えて行動する。
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なぜ企業は彼女から距離を置くどころか、むしろ積極的に支援を表明しているのだろうか。これには、今の世の中の流れと彼女の属人的要因とが作用していると思う。
英語で「purpose-driven marketing」という言葉を最近よく聞くようになった。ESGの潮流ともつながっている話だが、企業が社会をよくするためにどんな貢献をしているかがその企業の魅力となり、それを使ってマーケティングするという考え方だ。大坂のように人種差別や、メンタルヘルスといった問題に対し積極的に発言し、リーダーシップをとっている人と組むことで、企業は彼女が体現する価値観を自分たちのメッセージとすることができる。
現代の消費者、特にミレニアルやZ世代と呼ばれる若い世代の消費者たちは、企業が環境や人権、社会正義に対しどのような価値観に沿ってビジネスをしているかを注意深く見ており、それに基づいて消費者としての決断をするようになっている。購買活動を通して一種の投票活動を行っているようなものだ。
女性で、若く、文化的・人種的に多様で(白人ではなく)、いかにもグローバルという彼女の属人的要因も、今の時代が求めるものに合っている。さらにスポーツ選手として稀有な才能を持つだけでなく、正義感が強く、発信力がある。
テニスのファンは、消費者として魅力的なセグメントだと言われている。例えば、2019年の全米オープンの際の統計によれば、観客の56%が女性(スポーツの大会で女性が過半数というのは非常に珍しい)、78%が少なくとも大卒以上の学歴(全米平均は35%)で、平均的世帯収入が21万6000ドルと、教育レベルも収入も比較的高い。この層の心をつかむためには、ブランドは今の時代に合った、洗練されたアプローチをとるべきだろうし、そのイメージには大坂はパーフェクトだろう。
一方、「ノーコメント」という企業もあったにはあった。日本のスポンサーの中でも、WOWOWは、「大坂選手の個人的な問題についてコメントする立場にない(”not in the position to comment [on] Ms. Osaka's withdrawal by her personal issue.”)」としているし、ルイ・ヴィトンもコメントを出していない。全仏オープンのスポンサーであるRolex、Engie、Infosysもノーコメントだった。
選手のメディア対応は必要なことか
政治家は公人だが、会見ではメディアに対して最低限の質問しか受け付けない。
ISSEI KATO / Reuters
これまでにも会見を拒否したスポーツ選手はいた(拒否したかった選手はもっと大勢いただろう)訳だが、このたびの大坂の行動によって、おそらく初めて大々的に「スポーツ選手のメディア対応は、本当に必要なことか」という議論も起きている。
かつて私は講演会の企画の仕事をしていた。招待したい著名人に登壇依頼の手紙を書くのが仕事の重要な一部だった。何人かの作家やファッション・デザイナーには、「私は人前で喋るのが苦手で(あるいは嫌いで)、講演は全てお断りしています。作品を通して私の仕事や考えを判断してほしい」という言葉で断られたことがある。アーティストの場合、「私の作品が全て」と言えば、多くの場合は納得してもらえる。
スポーツ選手だって人前で喋るのが苦手で、会見やインタビューを受けたくない人がいてもおかしくない。「試合が全てです」ではいけないのか。
スポーツ選手は、公人ではない。大坂の会見拒否に対する罰金が報じられた時、SNSでは「選手が会見を拒否して罰金を取られるくらいなら、質問に答えない日本の政治家にも罰金を課したら良いのでは。税金で雇われているんですから」というようなコメントをいくつも目にした。
確かに、官邸の会見では質問者も質問回数も事前に調整され、追加質問も受けないような会見が日本では常態化していることを考えると、質問に答えないことに対する罰則規定があっても良いのではないかと思えてくる。しかも、この場合、話している内容は国民にとっては死活問題であり、答えている人は選挙で選ばれた人たちだ。責任という意味では、スポーツ選手とは次元が違う。
誰がスポーツをコントロールしているのか
スポーツ業界がメディアとの関係を大切にするのは、それがビジネスモデル上、重要だからだ。でも、「誰がスポーツをコントロールしているのか?」という問題は、時代とともに変わりつつある。選手たちと、彼らがいなくてはビジネスが成り立たない各競技団体やリーグの力関係が、SNSの普及や選手個々人の発信力の高まりによって、以前よりも拮抗してきている。
高額のギャラをもらっていることと引き換えに、選手は何でも受け入れなくてはいけなくてはならないのだろうか。
2018年、FOXニュースのアンカーであるローラ・イングラハムが、NBA(ロサンゼルス・レイカーズ)の大スターであるレブロン・ジェームズに対し、「黙ってドリブルしてりゃいいのよ」と言った。ジェームズが、トランプに対する批判や人種問題についての意見を述べたことを受けて、彼女は「ボールをドリブルして年間100万ドルもらっている人から、政治のアドバイスなんて聞きたくない」と言ったのだ。これは「スポーツ選手を dehumanize する(人間扱いしていない)発言だ」として大批判を浴びた。
彼女のようにスポーツ選手はスポーツだけやっていればいいという考えを持っている人は極端かもしれないが、選手をあたかもマシーンのように見なしたり、自分たちとは違う人間離れした存在かのように思い込んでいる部分は私たちにもあるかもしれない。選手として素晴らしいほど、私たちと同じように弱さを持った人間であり、負ければつらいし、落ち込むこともあり、でもそれを見せないように努力していることを忘れ、非現実的な期待をもって見てしまっていないか。
オリンピックに向けて、日本でのスポーツ選手に対する扱い方を見ていても、そう感じることが多い。選手を神格化し、あまりに多くのものを背負わせ過ぎてはいないだろうか。大坂もスーパーウーマンに見えると言っても、まだ23歳、迷いや悩みや自信喪失があって当たり前な年頃だ。
最近になってメディアとスポーツ選手の関係が変わっていると実感する一つの現象は、スター選手たちが自分の声でナマに発信できるプラットフォームを作りつつあるということだ。前述のレブロン・ジェームズ、スティーブン・カリーはじめNBAのスター選手何人かは、自分たちで独自のメディア会社を作ってしまった。大きな資本もファンベースもある彼らは、既存のメディアに頼ることなく、直接、ファンや世間に対して発信できる。大坂もいずれこの方向にいくかもしれない。
今回、大坂は追い詰められたことで、自分を守ることを最優先した。それを「自己中心的」と批判する人たちもいたが、結果的には、スポーツ界におけるメンタルヘルスという、これまでしっかり語られたことのない問題について一石を投じることになった。さらに、自分の弱点をさらけ出したことによって、むしろ彼女はより人間味を増し、その影響力や好感度は、下がるどころか上がることになるだろう。
メンタルヘルスへのスティグマ(恥、後ろめたさ)という意味では、日本はアメリカ以上に強いと思うが、語られていないだけで、この問題は日本のスポーツ界にも存在する。これを機にこの問題についての対話と理解が少しでも進むことを期待したい。
(敬称略)
(文・渡邊裕子)
渡邊裕子:ニューヨーク在住。ハーバード大学ケネディ・スクール大学院修了。ニューヨークのジャパン・ソサエティーで各種シンポジウム、人物交流などを企画運営。地政学リスク分析の米コンサルティング会社ユーラシア・グループで日本担当ディレクターを務める。2017年7月退社、11月までアドバイザー。約1年間の自主休業(サバティカル)を経て、2019年、中東北アフリカ諸国の政治情勢がビジネスに与える影響の分析を専門とするコンサルティング会社、HSWジャパンを設立。複数の企業の日本戦略アドバイザー、執筆活動も行う。Twitterは YukoWatanabe @ywny