鈴本演芸場は安政4[1857]年開席の講釈場「本牧亭」をルーツに持つ都内最古の寄席だ。鈴木敦さんはこの春、七代目席亭に就任した。
撮影:伊藤圭
江戸時代の講釈場をルーツに持ち、現存する寄席では日本最古の「上野・鈴本演芸場」。この4月、経営者である「席亭」が代替わりした。七代目に就いたのは鈴木敦さん(39)。席亭を30年間務めた父から、この春バトンを受け取った。
折しも世界はコロナ禍の真っ只中。相次ぐ緊急事態宣言で、寄席も休業や時短営業を強いられた。そんな中、鈴本はYouTubeでの配信など新しい挑戦もしている。
幕末、明治維新、関東大震災、太平洋戦争、そして戦後の娯楽多様化——。さまざまな歴史の荒波を乗り越えてきた寄席は、パンデミックという史上最大のピンチにどう向き合うのか。七代目の覚悟を聞いた。
「いつかは継ぐだろうなと、心のどこかで思っていた」
撮影:伊藤圭
もうすぐ40歳。「不惑」を控えた敦さんだが、寄席の空気には幼い頃から触れていた。当時の思い出を、少しはにかみながら語る。
「正月興行など繁忙期には家の仕事を手伝っていました。芸人さんからお年玉をいただけるからというのが大きかったですが(笑)」
「小さい頃から連れまわされて、楽屋で芸人さんたちともお会いしていたので。うまく刷り込まれたのかもしれませんね」
大学時代には心理学を専攻。在学中には地域社会とCM・演芸の話題を論文にまとめ、表彰もされた。
「父は無理にでも継がせようという感じはなかったんです。『たとえ実家を継ぐとしても外の世界を見たほうがいい』と常々言っていました」
寄席の「顔付け」はいわばライブのセットリスト。どの順番に、どの芸人を配置するか。これも席亭の腕だ。
撮影:伊藤圭
2005年、新卒で大手広告代理店に入社。広告、興行、イベントの回し方を一から勉強した。30歳になった頃だった。父である先代から「そろそろ戻ってきたらどうだ……?」と話があったという。
「はなから、この世界に入るつもりじゃなかったんです。でも、いつかは継ぐだろうなと、心のどこかで思っていました」
「でも、自分の将来が決まっているって気持ち悪かったんです。友達が『将来どうしようかな』と話していても、自分はどこか道が決まっている感覚があったので……」
悩む自分の支えとなってくれたのもまた同級生だった。周りには、歌舞伎役者の家の子息など伝統芸能に携わる友達も多かった。
「意外とみんな冷静に受け止めていて『将来自分が継ぐとなったらどう生きていこうか』と考えていた。そういう友達を見るにつれて自分も冷静に受け止められるようになりました」
2012年。7年間の会社員生活を経て実家に戻った。スタッフや芸人も、当たり前のように受け入れてくれた。こうして父のもと、寄席で働く毎日が始まった。
「まずは寄席の基本を学びました。寄席がどうやって回っているのか。芸人さんとのお付き合い、寄席の番組の顔付け(出演順)を父から学びましたね」
コロナ禍で数千万円の赤字、「寄席」の看板を守るために……。
撮影:伊藤圭
実家に戻って10年近く経った。そして今、世界は一変した。2020年からの新型コロナ禍は、寄席とも無縁ではなかった。
相次ぐ緊急事態宣言で寄席も一時は休業を強いられ、時短営業を余儀なくされた。感染防止のため観客数も半分に制限。来場者も大きく減った。
「うちは無借金経営ですが、去年の11月時点で数千万円の赤字に陥りました。寄席は現金商売なので厳しい状況は目に見えて分かる。このままの状況なら、身を切るだけになってしまいます」
売り上げは出演者と折半ゆえ、固定費の負担割合が一番大きい。このままでは数年でつぶれる。究極の目標は「寄席の看板を下ろさない」こと。寄席をどうやって継続していくか。
社員10人のリストラにも踏み切った。家族経営で非正規のスタッフが多い都内の寄席では珍しく従業員はみな正社員だった。
「昨年末、先代がリストラの話をお伝えしたときには、先代も従業員もみな泣いていました……」
「鈴本には、芸人さん同様に働く人たちを大切にしなさいと代々の教えがあります。谷中の菩提寺には先祖代々の墓がありますが、周りには身寄りのない従業員さんのお墓もあるんです」
「出演者がいて、お客様がいて、寄席というハコがあって……。その運営を支えてくれるのは従業員さんです。(収支が)また以前のようなレベルに戻れば、必ずまた正社員として一緒に働いて欲しいとお伝えしています」
「寄席」と「芸人」の危機——鈴本はYouTube配信に挑んだ
撮影:伊藤圭
2カ月間の休業を経て、今年4月に鈴木さんが新たな席亭になった。江戸・安政期からの伝統を持つ鈴本。新しいチャレンジをするならこのタイミングがいいのではないか。父からのバトンタッチだった。
コロナ禍から一年、時世はなおも厳しい。公演回数を減らし、さらなる固定費の削減も図った。毎週月曜は定休とし、夜の部はなし。365日開いていることが当たり前の寄席に定休日ができるのは異例のことだ。
「経営的には厳しい状況が続いています。それでも止まっていては仕方がない。こういうときだからこそチャレンジできることもあると思っています」
チャレンジの一つが、YouTubeでの寄席配信だ。もともと緊急事態宣言などで中止した興行の代替として、2020年6月から断続的に始めたものだった。
昨年来、一部の落語家なども自らYouTubeチャンネルを立ち上げ、落語の生配信などにも取り組んでいる。寄席も「どこかでネット配信をやらなければ……」と、人が出歩かなくなったタイミングで感じていた。
だが、「開口一番」から最後の主任(トリ)まで寄席を配信で再現した例は今までなかった。それを、現存する日本最古の寄席である鈴本が真っ先にチャレンジした。とにかく「寄席が止まる」ことへの危機感があった
「寄席が止まれば、芸人さんは高座に上がれない。芸を磨けず、披露する機会が失われる。お客さんも来られない。そうなれば配信しかできない。とにかくできることをやろうとチャレンジしました」
コロナ禍の寄席芸人を支援——「芸人応援チケット」の成功
課題となったのは収益面だ。YouTubeの配信自体は無料でやるしかない。当初はスーパーチャット(投げ銭)機能がなかった。どうやってチケットを売ろうか——。
考えたのが、寄席が再開したら500円の割引券として使える1枚1000円の「芸人応援チケット」だ。
売り上げは折半ではなく、配信の外注費など経費のみを差し引いて収益は全て落語協会へ渡した。
「お客様の善意やご好意に訴えるしかなかったんですが、とりあえずは本当にやってみるしかなかった」
そんな覚悟で始めた試みだったが、YouTubeの寄席配信は数万人規模で視聴され、芸人応援チケットの売上も数千枚にのぼった。
「お客様に楽しんで頂けて、芸人も全ての仕事が飛ぶであろう中少しは貢献できて、みんなハッピーになったのかなとは感じています」
配信に葛藤する寄席芸人に見た「強さ」
撮影:伊藤圭
芸人たちも、最初は配信形式で高座に上がるのに戸惑いがあったようだ。
「落語や講談などストーリーをお話する方はもちろん、色物さんや漫談などの芸人さんは特にお客様からの反応があって成立する芸もある。はじめは感覚が分からない芸人さんもいました」
敦さんも、配信当日はディレクションを担当。楽屋に入って芸人をフォローし、仲入りではトークも。とにかく駆け回った。
どんなネタなら画面の向こうのお客さんに喜んでもらえるだろうか。師匠たちから相談を受け、ネタ選びを手伝ったりした。
「普段なら出番が終わった演者さんに『今日のお客さんどう?』とか反応を聞くんです」
「『軽い』『重い』『笑わない』『前の方にゲラ(よく笑う)のお客さんがいる』とかいろんな情報交換をし、直前にネタを決めている。でも、配信ではそれができないんです」
それでも、そこは笑いのプロだ。最初は戸惑っていたが、回を重ねるにつれてみな慣れてくる。
「普段の高座なら、話し方のテンポが少しずつ早くなったりするものですが、配信のときはドンと構えて動じないようになる。そこが寄席芸人の強さだなと思います」
「高座で戦っている『寄席芸人』こそ最強」
撮影:伊藤圭
寄席という場所は、一日に複数の芸人が出演する。芸人からしてみれば、客は必ずしも自分を目当てに来ているわけではない。
「お客様にどうやって楽しんでもらえるか。興味を持ってもらえるか。『あぁ、あの人初めて見たけど面白かったなぁ』と思ってもらえるか。そこが勝負なんですね」
「息遣いや汗を見ればわかりますが、芸人さんたちは高座で戦っているんです。毎日戦っている寄席芸人は、芸人として最強だと僕は思います」
そして敦さんは語る。「寄席芸人の生きる場所は、寄席しかないんです」と。
「寄席には、テレビやYouTubeには出てこないけど『何だこの人は!?』という芸を持った魅力的な人が沢山います(笑)僕たちはそういう『寄席芸人』を愛しているし、彼らはこの場所でないと生きていけない」
「寄席には芸人さんだけでなく、寄席には前座さんもお囃子さんもいます。この世界が好きで入ってくる人たちが途絶えてしまうような、修行の場がなくなってしまうようなことは避けたい。ぜひ、お客様にも寄席芸人の多様性を楽しんでもらいたいですね」
寄席の教え、それは「人間は完璧じゃなくていい」
撮影:伊藤圭
人間は完璧じゃなくていい。失敗してもいい。しくじりも許される。一度の失敗で、全てがダメになるというわけではない。そんなことも寄席は教えてくれる。
「落語には『与太郎』という、のんびり、ぼんやりとした子がよく登場します。それでも、落語の世界では与太郎をのけ者にせず、コミュニティのみんなが受け入れている。失敗したことを糾弾しまくる人もいない。『あるがままの世界』だと思うんですよね」
「“何か”から逃げて、寄席に来てくださる方もいることでしょう。それで少しでも気が楽になったり……。出演者も我々も、そんな寄席を守りたいという思いなんです」
幕末、明治維新、関東大震災に太平洋戦争。戦後は娯楽の多様化——。先人たちは歴史の荒波を乗り越えて、「世の中、こんな生き方もあるんだよ」と私たちに語りかけてくれる「寄席」という場所を残してくれた。
「ご先祖様がここまで続けてくれたんですから、自分も頑張らないと……と思いますよね。そう思うように、父にうまく染められたのかもしれないですが(笑)」
寄席を守ること、そして寄席の灯を未来へ引き継ぐこと。七代目が受け継いだ鈴本の歴史は、これからも続く。
(取材・文:吉川慧)