「地図はすぐに古くなるけれど、真北を常に指すコンパスさえあれば、どんな変化にも惑わされず、自分の選択に迷うこともない」。そう語る山口周さんとさまざまな分野の識者との対話。
第7回目の対談相手は、生命科学研究者であり、起業家である高橋祥子さん。著書『ビジネスと人生の「見え方」が一変する 生命科学的思考』では、「個体として生き残り、種が繁栄するために行動する」という生命原則が、ビジネスや人生をいかに規定しているかを解説しています。客観的な科学を知ったうえで、私たちはいかに生きていけば良いのでしょうか。
山口周氏(以下、山口):MBAに代表される経営学は、実は学問としての歴史は短く、100年くらいです。一方、自然科学や人文科学領域は数千年の歴史があり、そこにはある種の普遍性があります。
僕はよく「ブリッジをかける」と言いますが、自然科学や人文科学の領域で発見された原理原則は、ほかの領域においても有用なインスピレーションを与えてくれます。
高橋さんは生命科学研究者であり経営者でもある立場から、著書『生命科学的思考』では、研究を通じて発見した生命の原則が、会社経営においても応用できると書かれています。本を読んで、組織や社会で起きていることを洞察する上で大きな切り口になると感じました。
コロナ禍によって、都市化の見直しなど社会の枠組みにも変化が起こりつつありますが、一連の出来事について、どうご覧になっていますか。
高橋祥子氏(以下、高橋):Beforeコロナ、Afterコロナと言いますが、そもそもウイルスは我々人類が誕生するずっと前から存在しており、人類の進化にも寄与しています。
今回の新型コロナウイルス感染症が収束しても、人類はずっとWithウイルスで生きていくことが前提になります。
ウイルスには、今回のように感染症を引き起こすものもあれば、症状の出ない無害なもの、そして進化の一端を担う有益な影響をもたらすものもあります。
ウイルスは意志を持たないアルゴリズムなので、どちらかといえば感染症を引き起こすウイルスを拡散し、感染症を拡大する原因をつくっているのは、明らかに我々人間です。
都市化もそうですし、大規模な自然破壊の後に感染症が起こりやすいことも判明しています。エボラウイルスもそうです。
温暖化によって南極の永久凍土が溶けると、そこから未知のウイルスが大量に放出されることも予測されています。
人類による自然破壊が新たな感染症リスクを生み出し、グローバリゼーションによって加速度的に拡散する仕組みを我々自身がつくっている。
さらに資本主義によって経済格差が広がり、不衛生で医療の行き届かない貧困地域も感染症の発生リスクを高めます。
Withウイルスは前提ですが、感染症の広がるきっかけをつくっているのは私たち人間であり、特に資本主義社会の促進が大きな要因になっています。
ですから今回の新型コロナウイルス感染症が収束しても、また新しいウイルス、新しい感染症は生まれます。それに対して社会構造そのものを変えていく必要がある。
SDGsでは「貧困をなくそう」、あるいは気候変動や環境対策がゴールに挙げられていますが、それは地球のためだけではなく、我々自身のために必要だということが今回のコロナ禍でより明確になったのではないでしょうか。
資本主義が社会の脆弱性を生み出している
生命科学者でありジーンクエスト代表取締役の高橋祥子さん。
提供:高橋祥子
山口:世界最古の文明はメソポタミアで発祥したとされますが、地中海沿岸で文明が興ったのは、そこが交易路だったからです。人が集積する、つまり密だった。
イノベーションは人が交わるところで起こりますから、ウイルスの拡散する要件とイノベーションの生まれる要件が類似しているとも言えます。
私たちはせっせとウイルスが拡散しやすい世界をつくってきたわけで、その結果、コロナ禍に見舞われている。ある意味、狙い通りのことが起こっているわけです。
高橋:そういうことですね。
山口:テクノロジーの進歩に伴って、世界は小さくなりました。メルカトル図法の世界地図とは別に、各都市間の移動時間を表現した地図があります。
例えば東京・サンフランシスコ間は飛行機に乗れば約9時間半です。これまでもペストやスペイン風邪のようなパンデミックはありましたが、今回のように半年足らずで世界中に広がったのは未曾有のことでした。
それはこの世界の移動時間が大幅に短縮されたことと関係があるわけですね。
僕たちは都市化を進め、資本主義社会の中で、利益の生まれやすい仕組みや、イノベーションが起こりやすい仕組みを追求してきましたが、そのシステムの変化こそが社会の脆弱性を生み出す結果になっている。そこを見直さない限り、同じことが必ずまた起こると。
高橋:はい。山口さんや私が生きている間に少なくとももう一回は起こると思います。
利己的な欲求に突き進むと「神の手」は働かない?
アダム・スミスは、「神の見えざる手」について記述した有名な著書『国富論』の前に、人間の感情についての分析を行う『道徳感情論』を執筆した。
Hulton Archive/Getty Images
山口:人間にはさまざまな機能がありますが、中には不合理で不要と感じるものもあります。
痛みを感じる神経や、怒りや悲しみといったネガティブな感情もそうです。個体として感情機能を制御できたらいいのにと思う。
高橋さんの本では、どんなに非効率に見える機能も、進化の過程で見ると、生物が生存し繁栄するために有利な特性だったから、その形質を持った個体が生き残ってきたと書かれています。
そう考えると、いま社会に残存している制度や仕組みも何らかの必然性を持ってそうなっている。
資本主義の問題点についてはさまざまな指摘がされていますが、世界は資本主義に覆われているように見えますし、そのオルタナティブ(代替品)として提案されたはずの共産主義は絶滅に瀕しています。
所有についても、私有か共有という議論がなされる一方で、私有を前提とした経済システムが堅牢性を増しているように見える。
膨大な試行錯誤を経て、この均衡点に落ち着いているとすれば、資本主義という強固なシステムは進化の淘汰に生き残ったと言えるのでしょうか。
高橋:私は資本主義が堅牢なシステムとは思っておらず、この100年間ほど、たまたまうまくいっただけだと考えています。資本主義は、人の欲求に基づいて設計された制度です。
経済学者のアダム・スミスは『国富論』で、人が利己的な欲求のままに消費行動をしていけば、「神の見えざる手」が働いて、おのずと需給バランスが取れるとしていますが、そもそも欲求というのは生物的な発想ですから、生物学的な視点のアプローチが必要です。
というのも、アダム・スミスは『国富論』の前に『道徳感情論』を書いています。そこでは欲求を超えた社会性として、義務や道徳を確立する必要があるとしています。
山口:個人の自己愛や利益の追求だけでなく、共感が重要だと説いていますね。
高橋:義務や道徳、共感が重要で、個人の利己的な欲求の調和は、その上で生じるとしていますが、現代では、後者だけが切り取られているように思います。
人間に欲求や感情があるのは、個体として生き残り、種として繁栄するために必要な機能だったからです。でも、そうした機能が現代の環境を生きるために最適なものかどうかはわかりません。
例えばカロリーの摂取もそうです。いま世界で10億人以上の人が肥満や肥満合併症で苦しんでいます。おかしな話ですよね。本来、生きるために必要であるはずのカロリーを摂取しすぎて病気になる。
生命科学的に考えるなら、心地良いと感じるだけ食べれば最適なカロリー摂取量となる方が生存には有利ですが、そうはなっていません。
それは人間が進化してきた歴史において、食料が不足する環境が長かったために、最適な摂取カロリー量よりも少し多く摂取するようになっているからです。
食料が潤沢になった現代では、欲求のままにカロリーを摂取するのではなく、生物学的な欲求が何かを理解した上で、知性を持って、ちょっと腹八分目にしておこうとセーブできる個体の方が、健康的に長く生きられます。医療費を抑えられるので、社会にとってもメリットが大きい。
利己的な欲求のままに動くのではなく、生物的な仕組みを理解した上で、それをハックする態度を持たなければ、同じように資本主義は今後、成り立たなくなるのではないでしょうか。
山口:本能的な欲求のまま行動しても、必ずしも環境に適合するとは限らないと。
思考は多くのエネルギーを消費する行為だから、思考しなくていい環境であれば、生物はなるべく思考しないことを選択してきたと書かれていました。
人間が1日に消費するエネルギーの約20%は脳で使われますから、いかにエコに脳を運営するかは一大テーマです。
なるべくパターン認識やヒューリスティクスなどの手法を使って、最適解を都度求める手間を避けようとする。
一方、現代の資本主義社会では、体に良いものを食べたり、高水準の医療を受けられたりできる、経済力のある人間の生存確率が高くなっています。
その経済力は、与えられた問題に対して速く正確に答えを出す能力、受験勉強のような意味を感じにくい営みに長時間集中できる能力によってもたらされることが多い。
仮に資本主義システムが今後も続けば、その枠組みの中で生き残るために経済的成功につながる能力を追い求めることになる。つまり原始時代には淘汰されていたバイタリティのない人間、生物としては脆弱な人間が生き残る可能性もあるわけですね。
高橋:思考しなくてもよい環境であれば考えなくなっていくように、進化の過程では、不要なものはなるべく削除して進化します。
例えば私たちはビタミンCを一生懸命摂取しますが、ほとんどの哺乳類はビタミンCを体内で生合成できます。
それは、たまたま人間がビタミンCを対外から摂取できる環境にいて、ビタミンCを生合成できない個体が進化の過程で不利にならなかったからです。
進化の過程で、不要な機能は排除されます。現代社会では不要と思われる機能、経済的成功につながらない能力や機能を排除していくと、社会システムが変わった時、不具合が起こるのではないかと思います。
ランダムに起こるエラーが進化をもたらす
生命の原理や原則を客観的に理解することで、それに抗うために主観的な意志を活かして行動できるという。
提供:高橋祥子
山口:DNAがコピーされる時、1億から100億分の1の確率でコピーミスが起こる。コピーミスは、短期的にはがんなどの原因になるけれども、長期的には進化のきっかけになるという話も印象的でした。
ランダムに起こったコピーミスの中で、たまたま環境に適合したもの、生存や繁殖に有利な形質を持ったものが生き残る確率が高まり、その繰り返しによって、私たちが進化と呼ぶものが起こると。
高橋:外界の環境が変化した時、たまたま生存に有利な個体が生き残ったことを事後的に進化と呼んでいます。
遺伝子の多様性がある中で、結果的にどれかが生き残るだけで、自分たちが選んで進化できるわけではありません。また進化が進歩とも限りません。
山口:我々の社会では、コピーミスのようなエラーはネガティブで、できれば避けたいものと考えられる一方、進化はポジティブなものと捉えられています。エラーと進化、この一見異なるものが表裏一体に結びついているのは面白いなと。
経営学の組織論でも、理念や企業文化をDNAとして継承したり、テキストとして正確にコピーしていくことが絶対善だと思われています。
しかし、コピーの過程でランダムに起こるエラーこそが進化をもたらすなら、意図的にエラーを起こすプロセスの設計が必要になります。
高橋さんの会社では、研究開発における「6対3対1」、つまり商品開発など直近の事業に関わる研究に6割、中期的に何かにつながりそうな研究に3割、何に関係するかまったくわからない研究に1割のリソースを注ぐという社内ルールを導入されています。
これはランダムネスを人為的に取り込むことを意図されているのだと思います。
日本社会では無謬性が重要視されていて、ミスやエラーを忌避しますが、それが社会の閉塞感を招いているようにも思います。
高橋: たまに正確性かエラーかを二元論で捉える人がいるのですが、エラーが100%であれば忌避されるのは当然です。
そうではなく生物もほとんどの仕組みは正確に機能していて稀に突然変異などのエラーがあるから進化を促します。
会社も同じで、何に関係するかまったくわからないことばかりやっていたら倒産します。でも短期的な利益に結びつくことだけではなく、遊びや余白を残しておかなければ、長期的には衰退してしまいます。
山口:僕はアリの巣の話を思い出しました。アリは巣穴から外に出て餌を探しますが、餌を見つけると興奮してフェロモンを出すそうです。
巣穴に戻ってきたアリのフェロモンの匂いを辿って、ほかのアリも餌に辿り着ける。
これだけ見ると、いかに正確にフェロモンを追跡できるかが餌の回収効率に直結するはずですから、100%追跡できる集団が最も回収パフォーマンスが高いと思いますよね。
しかし実際には、追跡できないアリが一定の比率でいる方が良いそうです。うまく匂いが嗅げないのか、嗅げてもフラフラとほかのルートに行ってしまう性質があるのかわかりませんが、一定の確率で追跡ルートから外れてしまうアリを発生させることで、より近いルートで餌に辿り着くアリが出現するそうです。
そのアリが巣穴に戻る時、同じようにフェロモンを出しますが、揮発性の物質ですから、より最短ルートで戻ってくる方が匂いは強く残り、他のアリはそちらのルートを辿るようになる。
つまり、ランダムにエラーが起こることによって、中長期的にはチーム全体の生存確率が高まると。
高橋:面白いですね。本質的な話だと思います。
(構成・渡辺裕子、山口氏写真・伊藤圭、編集・浜田敬子、小倉宏弥、デザイン・星野美緒)
高橋祥子:1988年、大阪府生まれ。2010年京都大学農学部卒業。2013年東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程在籍中に、遺伝子解析の研究を推進し、正しい活用を広めることを目指すジーンクエストを起業。2015年同学博士課程修了。2018年ユーグレナ執行役員就任。著書に『ビジネスと人生の「見え方」が一変する 生命科学的思考』『ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるのか?』。
山口周:1970年生まれ。独立研究者・著作家・パブリックスピーカー。World Economic Forum Global Future Council メンバー。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了後、電通、ボストン・コンサルティング・グループなどで経営戦略策定、組織開発に従事した。著書に『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』『ビジネスの未来』など。