Getty Images/Alastair Pollock Photography
約100年前、岡山県笠岡市「つくも貝塚」から、片腕と片足が失われた全身傷だらけの成人男性の遺体が発掘された。つくも貝塚は縄文時代後期の貝塚で、「第24号」と名付けられたこの遺体もまた、約3000年前、縄文時代を生きた人であることが判明した。
しかし、なぜこれほど大きなけがを負っているのか、当時何があったのか、原因は長らく謎に包まれていた。
そこから100年の歳月を経た現代、英・オックスフォード大学、貝塚を発掘・収集した京都大学など、国際研究チームによる骨格の3Dモデルを用いた最先端の解析手法によって、第24号の死因が100年越しに究明された。
この成果は、2021年6月23日にアメリカの国際学術誌に発表された。
第24号は、約3000年以上前に「サメ」に襲われて死亡した、世界最古のサメ被害者だったのだ。
遺跡から発掘された、死因不明の謎の遺体
津雲貝塚 第24号人骨の発掘時の写真(1919年)。
出典:京都大学収蔵写真よりJ. Alyssa White氏作成
第24号が発掘されたのは、1919年。
第24号の人骨は、京都帝国大学・清野謙次教授の自然人類学研究室に保管され、炭素を利用した年代測定によって死亡時期が紀元前1370~1010(約3000~3400年前)であると推定された。
第24号はその骨格から30代中盤から40代前半の比較的若い中年男性で、縄文時代としては標準的な身長157.9cmの筋肉が発達したしっかりした体格だったと考えられている。
しかし、右足と左手は失われており、全身の骨に多数の傷があった。発掘時の写真を見ても、事故との関連性を示す副葬品などはなく、傷の原因は長らく謎だった。
100年後に解決されたミステリー
写真は左の上腕骨。特徴的な咬痕が観察される。
撮影:中務真人
第24号が発掘されてから約100年後の2017年、清野教授の研究資料を引き継いでいる京都大学自然人類学研究室の中務真人教授の元に、オックスフォード大学の考古学研究者アリッサ・ホワイトさん(大学院生)から1通のメールが届く。
ホワイトさんは古代の戦争で亡くなった人骨に残る傷跡の研究をしており、骨に残る傷跡から第24号の死因を解析したいと希望していた。
骨の解析には、ホワイトさんらが開発した、全身骨格の3Dモデル上に第24号の資料から判明した傷跡をマッピングしていくという新たな手法が使われた。
骨格のモデルは、人体の部品(骨格や臓器など)を解剖学的にも精巧に作成した3次元モデルデータベース「BodyParts3D(旧称:ポリゴンマン辞書)」で作成。これを地理空間情報ソフト「ArcGIS Pro」に読み込んだ。
ArcGISといえば米ジョンズ・ホプキンス大学が公開している新型コロナウイルス感染状況マップの作成にも使われているツールだ。ホワイトさんは、地図の代わりに人体3Dモデルを読み込んで「全身骨格マップ」を作り、第24号の骨の傷跡をマッピングしていった。
この手法によって、骨に残った傷あとから、体の表層にいたる傷口の広がりや同じ部位に通っている血管などを視覚的に再現。第24号が3000年前にどんなけがを負い、何が死因になったのかを解き明かしていった。
津雲貝塚 第24号人骨の全身骨格3Dモデルと傷の位置。
出典:京都大学収蔵写真よりJ. Alyssa White氏作成
傷跡から明らかになった「サメに襲われた」という真相
作成された第24号人骨の3Dモデルには、少なくとも790カ所もの傷跡が残されており、傷の場所から、血管や内臓などの軟組織へのダメージを推定することができた。ただ、傷つき方を考えると、当時使われていた石器などでつけられた人為的なものではなさそうだった。
いったい第24号は、どのようにしてこれほどひどい傷を負ったのか。
ホワイトさんは傷跡の特徴から、「サメに襲われたものでは?」との仮説にたどり着いた。
「これがアフリカで見つかった人骨であれば、すぐに『ライオンやハイエナのような食肉目によるものかもしれない』と考えるのですが、日本の瀬戸内海の周辺にはそうした大型の動物がいないため思い至りませんでした。ホワイトさんは骨と傷の関係の専門家ならではの発想でサメだと考えたのだと思います」(中務真人教授)
肉を切り裂いたり、強いあごの力で噛みつぶしたり、くわえて引き裂いたりといったサメの攻撃方法は、骨に多数の入り組んだ傷を残すことが知られている。
第24号の骨盤、左脚、腕と肩にはかみあと、骨折がいたるところにあり、長骨には交差した傷が残っていた。これは、胴から長く伸びた脚や臀部に噛みつき、手で抵抗しようとすると今度は手や腕に噛みついて引きちぎろうとするサメの攻撃パターンと一致していた。
こうして、フロリダ博物館の共同研究者がサメによる被害事例との比較を行ったところ、「サメに襲われた」というホワイトさんの仮説に確かな裏付けが得られたという。
第24号がサメに襲撃された状況は、3000年前のこととはいえかなり恐ろしいものだ。
人を襲うサメの中で、つくも貝塚の近海である瀬戸内海に生息するのはホホジロザメとイタチザメ。襲撃したサメは、そのどちらかだと考えられる。
イタチザメが残す傷跡の特徴だという「らせん状の傷」が骨に残されていれば、サメの種類まで特定できたかもしれないが、今回の解析ではそこまでは至らなかった。
全身の大きな骨に残る傷痕はサメの襲撃パターンとの比較され、一致することがわかった。
出典:京都大学収蔵写真よりJ. Alyssa White氏作成
サメに襲われた第24号は、右脚を失い、抵抗しようとして今度は左手を失い、失血とショックで命を落としたとみられている。
腕や脚の長い骨に傷痕が多く残っている反面、頭蓋骨や脊椎に傷跡が少ないのは、食べられる肉が少ない部分はあまり襲わないというサメの攻撃の特徴を反映しているためではないかと考えられる。
また、骨が長い期間水中にあった形跡がないことから、サメに襲われたあと、比較的すぐに仲間によって遺体が引き上げられ、津雲貝塚に埋葬されたことが伺える。
3000年前、なぜ第24号は海に入り、サメと不幸な遭遇をしてしまったのだろうか?
「目的は必ずしも明らかでありませんが、おそらく『釣り』をしていたのでしょう。縄文後晩期の瀬戸内から出る釣り針は非常に大きなものが中心です。タイ、サワラなど大型の魚を狙ったボート(丸木舟)から、漁をしていたのではないでしょうか。津雲貝塚からはサメの遺物はほとんど出てきていないので、特にサメを狙っていたというわけではないと思います」(中務教授)
今回の研究によって、第24号は先史時代のサメ襲撃の最古の事例となった。
縄文時代の出土品を調べると、沖縄から北海道までの広い地域でサメの歯や骨の装飾品が見られている。内陸の長野県の出土品にもシュモクザメのような装飾を施した土器があるなど、サメは交易の対象となっていた可能性があると考えられている。
中務教授は今回の研究成果について、
「これは一つの事例なのですが、(これでただちに何かが明らかに、というわけでもないですが)様々な側面においていろいろな材料がそろったときの考察の鍵になるわけです。
例えば、瀬戸内海なので、全く誰にも見られない状況で海に出ていることは考えにくいので、襲われているところを見た人がいるはずです。その人たちは、その後、サメに襲われた仲間の死体を危険を冒して回収するわけですね。漁労(※)のスタイルについてもそうです。本当に丸木舟で沖に出たかは誰にも分かりません。しかし、漁労のためのボート製作を示唆するような道具が出たときに、(今回の事例は)漁労の方法についてヒントになるのではないでしょうか」
※魚や貝を獲る活動
と当時の生活スタイルを知る上での手がかりになると語る。
技術の進歩によって、3000年前の人々の生活の一端が新たに垣間見ることができた。
「発掘資料の分析技術も年々進歩し、以前は想像もできなかったことが、分かるようになってきています。この発見を通し、発掘資料を大切に後世へ伝えることの重要性が広く理解されることを希望します」(中務教授:京都大学プレスリリースより)
(文・秋山文野)※研究成果は2021年6月23日に米国の国際学術誌「Journal of Archaeological Science: Reports」のオンライン版に掲載されている。