撮影:千倉志野
モリテツヤ(34)は福岡県北九州市で地元の運輸会社に勤めるサラリーマンの父と専業主婦の母の間に生まれた。地元の公立小学校では「ケンカで勝つのがいちばん」というルールを疑わない子どもだった。
意図せず強い立場になるジャカルタ
インドネシアの首都、ジャカルタは今や高層ビルが立ち並ぶ都会だが、住宅地には昔ながらの風景が残る。
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父の転勤で、小学4年のときインドネシアのジャカルタに移り住んだ。すると、日本ではごく中間層の家庭だったのに、富裕層に組み込まれた。日系企業の駐在員家族が暮らす高級アパートメントや地元の桁違いな富裕層が暮らすエリアがある一方で、窓すらない粗末な家に大家族がひしめき合っている景色にも出くわした。
スコールが降ると、自分と同じ年頃の子どもがどこからともなく傘を持ってきて道端に並べて売るたくましさに圧倒された。
親からもらった数百円の小遣いがジャカルタでは何十倍もの価値を持ってしまう。自分では何の努力もしていないのに、北九州市から飛行機で4時間のジャカルタでは意図せず強い立場に属してしまう。このとき感じた居心地の悪さは、金の価値とは何かを考えさせた原体験だ。
帰国して千葉県幕張市に定住し、地元の公立中学に進学した。
会社員以外の選択肢を見つけなくてはという焦りはずっとあった。高校に進んでからはファミレス、コンビニなどさまざまなアルバイトをしたが、ことごとくうまくいかなかった。一生懸命やっているのに、いつも3カ月ほど経つと、「仕事ができないヤツ」という烙印を押され、退散せざるを得なくなった。
祖母が美容室を営んでいたため身近に感じていた美容師になるべく、美容学校に進むことも考えたが、先輩後輩の序列が厳しいと聞いて踏み切れず、大学に進学した。システムに組み込まれずに生きるすべを見つけるための4年間の時間稼ぎだった。
2冊が後押しした本屋×農業の生き方
悩んでいた20歳の頃に出合った2冊の本が、会社員を選ばない生き方へと背中を押した。
1冊は『就職しないで生きるには』(レイモンド・マンゴー)。
60年代にアメリカでヒッピームーブメントを体験した著者は、楽しくて自由に生きられる生計のたて方を模索して、ひょんなことから本屋になった。すると、若い頃には憎悪すべき対象だった「仕事」の意味が、美しくて楽しい最良の「遊び」に変換してしまう。マンゴーは「仕事こそ命だ。それ自身が報酬だ、その仕事がいい斧なら、それを感じることができ、充実感がある。わたしたちは根源的利益をつかむ」とまで書いた。
「24時間働けますか」との問いに恐怖と反発を覚えた3歳以来、組織に自分を合わせて働くことにモヤモヤと不安を抱えてきたモリは、この本に出合い、組織に属さず自分の好きなことを仕事にすれば仕事は楽しくなると希望を持った。
もう1冊は『懐かしい未来』(ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ)。
チベット高原で古い文化と生活様式を守って暮らすラダックの人たちのコミュニティに、スウェーデン人の著者は言語学者の立場から関わりを持つ。
チベットのラダック地方。
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風土に合った家を自分たちで建て、農作物を育て、互いに分け合い、助け合う生活をしていたラダックの人々だったが、西洋のグローバル経済の価値観、貨幣経済の流入によりコミュニティの関係性が変質していく。その様子を内側から見つめて書かれたレポートだ。
かつて人々の生活の基本だった農業が、資本主義経済に影響を受けた若者たちに軽蔑されるようになる過程や、若者が流出した結果、農業の担い手が減り、化学肥料を使わない伝統的な農業が脅かされるようになったコミュニティの変容が明かされている。
だが一方、都市で貨幣経済の価値を経験し、西洋のブランド品を身につけた若者が、より多くの稼ぎを得るために時間と心のゆとりを手放しているとも指摘している。
「ムーミン谷」のような本屋との出合い
汽水空港のロゴは、「気流舎」店主でグラフィックデザイナーでもある加藤賢一が手がけた。
撮影:千倉志野
2冊に出合ったのは下北沢にある古書店「気流舎」だった。
迷い込むようにして入ったその古書店は、店主がセルフビルドで外観と内装をつくっていた。パンクス、思想、哲学の本が詰まっている4坪ほどの小さな空間は、モリには「ムーミン谷」のように見えた。
どうやって生きていこうかと迷っていたこの頃には本屋に何らかのヒントがあるのではないかと考え始めていた。
この2冊とこの場所に背中を押されるように「本屋をやりたい」と言ったが、家賃は高いし儲からないと周囲は反対した。それならと、モリは考えた。家賃の安い場所でやったらいいよな。本が売れなかったとしても、畑をやれば飢え死にしないよな。
2000年代後半の同じ頃、世間では「派遣切り」「ネカフェ難民」が社会問題となっていた。派遣切りに遭った人たちや住む場所を追われてネットカフェを転々とする人たちと、資本主義経済のもと、組織というシステムに合わせてパーツとなることのできない自身の根本には同じ問題が横たわっている。
「ぼく自身の組織との距離をめぐる問題意識は、個人の問題にとどまらない人類の文明の課題だと思ったんですよね」
とモリは言った。自分にとっての解を見出すことは同じ問題に悩む人たちにとっての解にもなる。この頃からモリはそう考えるようになっていく。
2年間、どっぷりの農業修行
ボランティアとして1年働いたアジア学院では、外国人留学生たちに混じって有機農業を学んだ。
提供:モリテツヤ
リーマンショックの翌年、2009年に大学を卒業すると、農業修業のため、埼玉県にある有機農法で知られる農家に住み込んだ。1年後、まだ農業の勉強が足りないと考えたモリは、さらに栃木県のアジア学院へ進んだ。
アジア学院はキリスト教に基づいて共生と持続可能な社会の実現を目指してつくられた学校法人だ。食物が育まれる土台であり、地球の根源である土。アジア学院では土との関わりを大切にする。環境破壊につながる経済活動には批判的な立場をとり、自然との共生、他者との共生を思想の主軸とする。
提供:モリテツヤ
自然農法や畜産など小規模農業の技術と農村リーダーの育成を主目的に、アジアからの学生を隊長にした教育カリキュラムがある。モリはここでボランティアスタッフとなり、外国人学生と一緒に自然農法を学んだ。毎日土に触れ、四季の変化の中で作物が育ち、収穫されるまでを体験した。
1年のボランティア期間を終えた2011年3月のある日、モリは荷物を幕張の実家に送り出した。ひとまず実家に帰って現金収入を得るために運送会社で働こうかなと漠然と考えていた。資金を貯めながら、農業と本屋の実現に適した場所を探しに国内を旅しようと思っていた。
旅先で考えたことをまとめてZINE(自費出版の冊子)をつくれば、自分の考え方を伝えるツールにもなると考えていた。その頃、農業をしながら本屋をやると言うと、だいたい見知らぬ人の反応は「真面目な青年」というものだった。パンクのマインドで選択したことを「純朴」「真面目」と片づけられることへの苛立ちがあった。
モリには、そういう凝り固まった見方をする人ほど、硬直した社会への不満に蓋をして受動的に生きているように映った。
空っぽになった部屋を掃除していた午後、東日本大震災が起きた。この体験は計画を否応なく前倒しにさせることになる。
落ち着くべき場所を探す移動が始まった。
(敬称略・明日に続く)
(▼第1回はこちら)
(文・三宅玲子、写真・千倉志野)
三宅玲子:熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜14年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルブログ「BillionBeats」運営。個人サイト。