撮影:千倉志野
モリテツヤ(34)が農業を学んだアジア学院では、普段からチェルノブイリ原発事故など原発をはじめとするエネルギーの問題を海外からの留学生を交え議論していた。地球環境に負荷をかけず安全性を担保した発電方法でないと持続可能性は低いという考えが、アジア学院に集まってくる若者には共通していた。
エネルギーの問題を考えることと、自分たちで土を耕し自然農法で作物を育てる生き方。双方にある根本の問いは同じだ。環境、植物、動物など、他者をなるべく傷つけずに生きていくにはどうしたらいいのかを考え、農業を選んだ人たちだ。
退寮前日に起きた原発事故
福島第一原発事故の後、放射能に関する情報は錯綜。さまざまなデマや誤報道も相次いだ。
REUTERS/Air Photo Service
東日本大震災後の福島第一原発事故によって、モリの半農半X計画は一気に前倒しされることになる。
「早く放射能から安全な場所へ逃げなきゃ。早く農業をやりながら本屋を始めよう、そして安全な場所をつくってみんなが逃げてこられるようにしなきゃって焦っていました」
モリは10年前の思いをこんなふうに振り返った。
退寮日を翌日に控え、荷物を送り出してアジア学院の寮の自室を掃除していたとき、東日本大震災、そして福島第一原発事故が起きた。4日後には実家のある幕張を出発した。なるべく原発から遠くへ逃げ、放射能から安全な場所で農業と本屋の計画を始めるためだ。モリは電動自転車と電車を乗り継いで土地を探しに西へと移動の旅を始めた。
京都では鴨川べりで1週間ほど野宿した。ユースホステルに住み込みのアルバイトを見つけ、京都市内の本屋やレコード屋をめぐり、農業のできる場所を求めて里山を歩いた。アジア学院の仲間が関西から被災地にトラックで支援物資を運ぶ手伝いで、東京まで何往復か運転した。福島第一原発事故による放射能のリスクを探るために京都大学の教授をアポなしで訪ね、受け取った情報を仲間に伝えた。
その頃、作家・坂口恭平は熊本市で被災地や関東からの親子を受け入れる「ゼロセンター」の活動を始めていた。自分は何も始められていないと焦った。
鳥取移住も何もできない1年間
鳥取に住んだものの、モリはすぐにフィリピンへ有機農業の支援に向かった。
提供:モリテツヤ
数カ月が経つ頃、鳥取で安く農地と廃屋を借りられるという情報がもたらされた。
1万円で空き家と田んぼと畑が一反ずつついているという。
勇んで移り住んだが、この1カ所目の場所で、モリは地域に受け入れられない経験をする。
とにかく仕事を、と面接を受けた先では、「一人で移住してきた変わった人」として扱われた。車がないと移動ができないこともわかった。
借りた空き家はDIYしないと住めない状態だったが、大工仕事の経験がなく、手をつけられない。
原始人のような生活に不安が募っていたところへ、最初に農業研修をした農家から、フィリピンでの有機農業の応援に誘われた。現地の農場は一面がサトウキビ畑だった。台風などの自然災害が起きてサトウキビが全滅して換金手段が失われたとしても、食料に困らず自給自足できる状態を目指す実験農場だ。
米や果物の栽培、畜産を行い、飼育する鶏の糞は池の魚の餌にする。農業だけで循環する仕組みを整えれば、農薬を使わずに済むため現金が要らない。貧しい地域の人たちが飢え死にしない環境をつくることを目的に農業を中心に循環する仕組みは、モリが目指す理想の世界だった。数カ月をフィリピンで過ごして鳥取へ戻ってくるという生活を1年ほど続けているうちに、また立ち止まった。
「フィリピンに行ったら楽しいんだけど、自分の本来の目的は何も進んでいないわけです。原発の問題は、今の社会のシステムではもうダメなんだということを象徴するものに思えていました。
原発が壊れたんだからもう別の生き方を始めるしかないじゃん、ということを訴えていきたいし、実践したいと思っているのに、自分に何のスキルもお金もないために何もできていない。それがたまらなかった」
自分の人生を前に進めるためには楽しいフィリピン生活をやめなくてはならない。
農場の人たちに最後の別れの挨拶をし、帰国する飛行機の中で、果たして自分の場所は鳥取なのかという疑問はあった。
リノベ、セルフビルド…0からの大工仕事
汽水空港の店舗裏手には、モリがセルフビルドした小屋が今も建っていた。しばらくは実際に暮らしていた。
撮影:千倉志野
湯梨浜町を知ったのは、そんなときだった。
先に移住していた現代アートユニットが、空き家を改装してシェアハウス兼ゲストハウスを開くという。湯梨浜町の東郷湖のあたりには温泉街があり、かつてはバーやストリップ小屋も賑わったという土地柄からか、外からの流入者が新しいことをするのをおもしろがるような気風があった。
同じ鳥取でも土地によってよそ者への免疫は異なる。モリはこの場所で本屋を開くことを決めた。それが汽水空港の始まりだ。
5000円で空き店舗を借り、寝泊りしながら少しずつ開業の準備にとりかかった。日中は道路工事や左官屋の手伝いや大工仕事の現場で働く。家賃、光熱費、スマホ代、国民健康保険、税金などの最低限の維持費だけでも4、5万円は現金が必要だからだ。現金収入が月に12万ほど。維持費を差し引いて手元に残った現金で食費をまかない、さらに残った数万円を本の仕入れに使う算段だ。
丸ノコと呼ばれるノコギリを買ったり、板を買って打ち付けるなど、空き時間にボツボツと作業する。何から手をつけていいかわからず、柱を眺めているだけで半日経ったこともあった。苛立ちのあまり叫び声をあげたことは数知れず。
専門業者の助けを借りて、トイレと台所をつくり、入り口はシャッターのまま、ブルーシートを貼って出入り口にして、何とか体裁を整えた。
小屋の中には本の在庫が積まれていたが、綺麗なものだった。大工仕事を未経験からここまで作れるのかと驚く。
撮影:千倉志野
店の中に寝床があるようではダメだろうと、本屋の裏の空き地に自分が住むための小屋を建てることにした。簡単に考えていたところ、現場仕事で世話になっている大工に「舐めているのか」と怒られ、教えてやるからと図面を書かされた。何度も書き直し、教えられながら、土台や柱の作業を進めて行った。
棟上げ式には近隣から30人ほど集まった。
骨組みができると、土や壁の材料は大工と左官屋が材料を無償で提供してくれた。左官屋の仕事の手伝いで覚えた壁塗りの技術で、壁を仕上げた。いろんな人に助けられながら、一人で建てた小屋は4畳ほど。木の窓枠と扉がかわいらしい、さっぱりとやさしい雰囲気の小屋だ。
「どうせ続かない」「何のため」厳しい声
撮影:千倉志野
迎えた開店初日。取材にきたテレビ局のディレクターは取材意図を、「こんな田舎で、こんな店、どうせ続かないから挫折するまでを描きたい」と説明し、モリを傷つけた。
客足はさっぱりだった。待ちくたびれた頃にやっと客が店に入ってきたかと思うと、一切棚を見ずに「こんな田舎で、一体何の必要があってこんな店をやってるのか」と真顔で尋ねて帰って行く。
最初のうちは笑って受け流していたが、次第に「何のために?」と聞かれることを苦痛に感じるようになる。
ただ座って客を待っているのは向いていない。待っている間にものをつくればいいと思い立ったのは、8カ月が過ぎた頃だった。隣接する空き家を借りてブックトークのためのスペースをつくることにした。空き家に残されたゴミを片付けて改装工事を始めたさなか、2016年10月21日、鳥取西部地震が起き、改修計画は頓挫した。行き詰まったモリはうつ状態になり、店を閉じた。
淡々と前向きなパートナーに救われた
モリと、パートナーのモリアキナ(写真右)。アキナは店舗も畑も、モリと一緒に切り盛りする。
撮影:千倉志野
どん底からモリを引っ張り上げたのは、パートナーのモリアキナだ。
鳥取に隣接する島根県松江市で生まれ育ったアキナは、広島や米子でヘアメイクの仕事をしていた。左官屋さんの紹介でモリと知り合ってからは、小屋を建てる仕事を手伝いがてら時々遊びに来ていた。
将来が見えない最悪の状態で結婚しても地獄につき合わせるだけだと尻込みするモリに対して、アキナは「私はそうは思わない」と、いつも淡々と前向きだった。
店から歩いて15分ほど山側へ向かった集落に、廃屋と畑を借りて2人で暮らし始めた。店を閉じているため、畑仕事ができた。畑をしながら溶接の職業訓練校に通った。半年ほどそんな暮らしをしているうちにだんだん元気が戻ってきた。
ブックトークができるよう店を増築しようと決めたら、頑張ろうと思えるようになった。
増築のための費用を稼ごうと溶接工場に働きに出たが、厳しい現場責任者に毎日怒鳴られ、3カ月ほどで蕁麻疹が出るようになった。アキナにやめるよう勧められ、思い切って前倒しで増築にとりかかった。
現在の汽水空港はこのときにつくられたものだ。床、構造、壁など、ほとんど全てをモリがつくった。書棚も全て手づくりだ。
「一度小屋を建てたことで、大工仕事の基本がわかったんだと思います」
2018年7月に再びオープンして現在に至る。かつては1週間誰もこないこともあったが、今は来客のない日はない。そして2020年のコロナ禍は、なぜこの場所で本屋をやるのか改めてモリに考えさせることとなった。
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(文・三宅玲子、写真・千倉志野)
三宅玲子:熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜14年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルブログ「BillionBeats」運営。個人サイト。