マトランティスの画面。
提供:PFN
「Matlantis(マトランティス)は、従来の原子レベルシュミレーターと同程度の精度を達成しながら、10万倍から1000万倍高速に処理することができます。これは、従来なら2カ月かかっていたシミュレーションを、わずか0.3秒で行うことができるということです」
こう語るのは、人工知能分野で国内のユニコーン企業(未上場で企業価値10億ドル以上の企業)として知られるPreferred Networks(以下、PFN)の岡野原大輔代表だ。
マトランティスとは、7月6日に発表された、PFNとENEOSの合弁会社「Preferred Computational Chemistry」(以下、PFCC)が提供するクラウドサービス。新物質の開発や材料探索を加速するための高速の汎用原子レベルシミュレータだ。
PFCCは2021年6月1日に設立されたばかりの合弁会社。出資比率はPFNが51%で、ENEOSが49%だ。
今回、PFCCが発表したシミュレーターでは、従来の原子レベルの物理シミュレーションでは数時間~数カ月かかった計算を数秒単位で実施できるとする。材料科学の研究分野においてかなり強力なツールとなる可能性を秘めている。
未知の材料を含む、分子や結晶などの任意の原子の組み合わせに対する物性(=物質の持つ性質の)シミュレーションが可能という。現在は55の元素をサポートしており、今後さらにサポート範囲を拡大する予定だ。
PFCCの取締役を兼ねるENEOSの藤山優一郎執行役員は、
「研究開発のサイクルを変えるものになるんじゃないかと思います」
とサービスに対する自信を語った。
急成長する、コンピューターで物質の性質を探求する「MI」領域
PFNの岡野原大輔代表。
記者会見の画像より抜粋
人工知能(AI)は画像認識などの分野で活用される技術として認知が進んでいるが、実は近年、材料科学分野での発展が目覚ましい。
論文のデータや実験データから「性質が既に分かっている材料の原子構造」を学習させたAIを使って、新しい材料を予測・探求する研究分野「マテリアルズ・インフォマティクス(MI)」が急成長しているのだ。
「材料」と言われてもなかなかピンとこないかも知れないが、私たちの身の回りにあるプラスチックや金属、合金などの素材はもちろん、化学反応の際に活用される「触媒」などまで、材料の種類は多岐に渡る。つまり、材料研究はあらゆる生活を支える基盤だ。
マトランティスで現状探索できる元素の種類。現在55の元素をサポートしている。
提供:PFN
材料の性質は元素の組み合わせや表面構造などに応じて変わりうる。そのため、研究分野は広大だ。研究者は、何千何万とある候補物質の中から、それまでの経験や理論をもとに有用な材料に目星をつけながら、実験を繰り返して研究開発を進めている。
しかし、実験をするには材料を集め、目的の物質をうまく作る方法を見出さなければならないなど手間もかかる。また、量子力学をベースにした分子シミュレーションの計算をしようにも、分子が大きければスーパーコンピューターを使っても数日、数カ月という時間がかかってしまうこともあるという。
つまり、人力ですべてを進めるには、限界があった。
MIのブレイクスルーは「物性データを学習したAI」による予測
MIでは、材料の原子構造と物理的性質のデータをAIに学習させることでモデルを構築し、そのモデルを利用して未知の材料の構造から物理的な性質を予測することが可能だ。
つまり、研究対象となる膨大な数の物質の中から、ある程度「見込みのありそうなもの」を選抜することが比較的簡単にできるというわけだ。
「アメリカが2011年にMIのプロジェクトを立ち上げたことをきっかけに、非常に大きな流行になっています。アメリカ以外にもヨーロッパ、中国、日本、いろいろなところでプロジェクトが進んでいます。
日本の中でも、大手の材料メーカーでは、MIにまったく手をつけていらっしゃらないというところはほとんどないのではないでしょうか。ただ、やってみると、意外とそう簡単ではないということが分かってきます」(藤山執行役員)
MIの大きな課題「汎用性」に一歩
PFCC取締役兼任ENEOS執行役員の藤山優一郎氏。
記者会見の画像より抜粋
MIでは、材料の原子構造と物理的性質のデータをもとに入力した原子構造をもつ材料の物性を予測する。
そのため、シミュレーターで精度良く予測できるのは、あくまでも学習させたデータに近い材料となる。既存の学習データのどれにも一致しない、まったく新しい材料の性質を予測することは難しい。
広範囲に渡る網羅的なデータがあればそれも実現できる可能性はあるものの、そこまで膨大なデータベースを作り出すことは現状では難しい。
藤山執行役員も、
「過去の実験データだと、デジタル化されていないこともあります。あるいは成功事例は出てくるのですが、失敗事例が出てこない。学習データとして、失敗事例も欲しいのですが、なかなか手に入りません」
と課題を語る。材料メーカーにもデータは蓄積されているはずだが、機密性が高く、そもそもオープンに使えるデータにはなっていないケースも多い。
未知の材料にも適用できるような「汎用性」の実現は、大きな課題だった。
今回、PFCCが発表した「Matlantis(マトランティス)」では、原子どうしのつながりを一種の「ネットワーク」と捉えて深層学習技術を適用する「グラフニューラルネットワーク」という技術を活用。これに、PFNの計算リソースを使った物理シミュレーションによって、膨大な数の原子配列、分子配列のエネルギーを計算する量子力学の理論である「第一原理計算」によって、AIに学習させるデータセットを構築している。
これが、これまでのMIとの大きな違いだと藤山執行役員は指摘する。
「最終的な学習モデルは非常に高速で、原子配置を入力するともうほとんど瞬時にエネルギーを計算でき、物質の性質も出てきます。理論に基づいているので、未知の物質に対しても高い予測精度を持っており、非常に汎用性が高いです」(藤山執行役員)
この実現には、膨大な数のデータセットを生み出す計算資源と専門的な知識が必要だったが、計算資源の問題はPFNが解決。
また、学習させるデータを検討する上での専門性は、ENEOSの技術者とのディスカッションを繰り返すことで解決した。
「実験科学者にとって、リアルの実験は重要です。マトランティスを使ってバーチャル実験をやり、たくさんの分子材料の中から10個良いものを選びそれをリアル実験で確かめることができるようになります。材料探索をする側からすると、非常に高速にたくさんのスクリーンができる。そこで材料開発全体を大きく加速しうると思っています」(藤山取締役)
マトランティスの特徴
提供:PFN
また、マトランティスでは、擬似的に「逆問題」を解くことも可能だと藤山執行役員は語る。
「普通材料開発というのは、硬い・柔らかい・電気を通す・曲がるといった物性を得るためにどういう化学構造のものを作ればいいかを思考するのですが、これを逆問題と言います」(藤山執行役員)
マトランティスの場合は、その驚異的な計算スピードによって、数万の組み合わせの物性を計算することができる。
「要は、数万の中から一番良い物性のものを選べるんです。つまり計算が速いということを利用して、擬似的に逆問題が解けてしまう。欲しい物性をもつ物質を探し出せてしまうということがわかってきています」(藤山執行役員)
(文・三ツ村崇志)