国際決済銀行(BIS)は年次報告書を公表。コロナショックを受けた世界経済・金融の現状と展望を分析した。
Screenshot of BIS Annual Economic Report June2021
先日(7月7日)の寄稿では、国際決済銀行(BIS)が年次報告書を公表し、コロナショックのような危機対応の短期的金融政策によって、長期的には世界の格差拡大が進む問題について、同行が大きな懸念を抱いていることを指摘した。
遅かれ早かれパンデミック(世界的大流行)は終わるのだから、足もとで採用されている金融政策が後世に何をもたらすのか、いまから考えておいて損はない——。いかにも国際決済銀行らしい、長期的な視点に立った提言だ。
とはいえ、やはり目先の資産価格の動向に影響を与える短期的な視点も欠かせない。
じつは、同報告書では、今後考えられる「3つの景気シナリオ」も提示されているので、今回はそちらにしぼって掘り下げてみたい。世界経済の現状と展望をつかむ上で大いに役立つはずだ。
世界経済は「驚くほど強い」が「非常に不均一」
シナリオを見る前に、国際決済銀行が抱く実体経済についての現状認識を紹介しておこう。
報告書は、現在の世界経済の状況を「驚くほど強いが、非常に不均一」と表現し、景気の回復傾向について、国・産業・セクターごとに濃淡があることを指摘している。
例えば、需要項目によって様子は大きく異なる。とりわけ目を引くのが個人消費だ。
個人消費については以前から、「傷痕効果」や「履歴効果」のおそれを指摘する声が出ていた。端的に言えば、ショックがトラウマのようになって、消費水準がもとに戻らないのではないかという懸念を指す。
だが、そうした動きはいまのところ見られない。それどころか、個人消費は景気回復の原動力になっている。国際決済銀行はこの動きを「正常化への渇望」と表現する。
また、現金給付を含む大規模な財政出動を背景に、アメリカをはじめとするいくつかの国では市民の可処分所得が一気に増え、「過剰貯蓄現象」が確認されるとも指摘している。
足もとの現状は、その過剰な貯蓄が消費・投資に転換され、景気に勢いが生まれているという理解になる。
しかし、個人消費が伸びていると言っても、すべての産業やセクターがその恩恵に浴しているわけではない。例えば、製造業は全般的に持ち直しているが、サービス業ではまだコロナ禍の行動制限が尾を引いている。
世界の国内総生産(GDP)は、かろうじてコロナショック前の水準に回帰したものの、その中身もさまざまで、危機前を大きく上回るアメリカや中国のような国もあれば、そうではない国も多く存在する。
ワクチン接種率、感染状況、それに伴う行動規制に違いがあることから、景気動向にも差異が出ている。とりわけ、ワクチン調達に苦戦する中国以外の新興国の接種遅れは際立つ。観光産業に依存してきた国はとくに悲惨な状況だ。
「中心シナリオ」でも各国の成長に濃淡
前回寄稿でも紹介したが、国際決済銀行はコロナショックからの回復の道のりを、「pandemic(パンデミック、世界的大流行)」と「exit(イグジット、脱出・離脱)」を組み合わせた「pandexit(パンデグジット」なる造語で表現している。
さて、短期的な視点に立った場合、そのパンデグジットはどのような軌道をたどりそうなのか。
国際決済銀行はシナリオを3通り提示する。
まず、「中心シナリオ」は、パンデミックが制御された上でゆるやかな回復が継続するというもの。先述のように堅調な個人消費が景気拡大を支え、企業部門が抱える潜在的な損失も限定され、産業間の資源再配分も円滑に進む。
そうした状況のもとで、インフレ率は上がるが、目標である2%を超える動きがあっても一時的にとどまり、金融引き締めはさほど厳しくならない。財政出動による下支え効果も続く、というのが中心シナリオだ。
もっとも、このおだやかに感じられるシナリオですら、各国の成長率に濃淡が出ると懸念されていることは目を引く。
パンデグジットのスピードと軌道は国ごとに異なり、とりわけ新興国の多くは劣後し、なかにはインフレに苦しむ国も出てくることが予想される。
「アップサイド(上振れ)シナリオ」
次に「アップサイドシナリオ」は、現在想定されているより一段と強い成長が実現し、インフレも想定を超える動きとなり、金融環境は引き締まる。金融政策についても、より迅速な引き締めを求める市場期待が強まりやすくなる。
このシナリオのもとでは、財政政策が需要に大きな影響を与えることが想定され、先述の「過剰貯蓄」の反動、つまり個人消費の伸びも、上の中心シナリオに比べて大きくなる。
パンデミックについては、いまより明るいニュースが上がってくる。
イギリスでは7月5日、インド変異株の猛威が続くなかでも、ワクチン効果で重症者・死者が抑制され、行動制限の完全解除に踏み切る方針をジョンソン首相が発表しているが、そうしたニュースが世界各国から聞かれるようになれば、やや楽観的に感じるこのアップサイドシナリオも非現実的とは言えなくなる。
いまのインフレが一時的か、恒久的かという議論が沸き起こるなかで、こうしたアップサイドシナリオを検討する意味は大きいと筆者は考える。
グローバル化や技術革新の進展によって、インフレ圧力は抑制され、企業の価格支配力はここ10年弱まるがままだった。しかし、いま目の当たりにしているように、(例えば半導体不足のような)供給制約などの条件が重なれば、急激に物価が上昇する展開も完全には排除できない。
いくら物価上昇は一時的だと当局がなだめてみても、市場参加者はそれを信じず過剰反応する。結果、不意打ちを食らったようにポジションを巻き戻す(=リスク回避のために保有する持ち高を解消する)動きが想定される。
「ダウンサイド(下振れ)シナリオ」
最後の「ダウンサイドシナリオ」は、ついにパンデミックを制御できず、回復が頓挫(とんざ)する展開を想定する。
感染の波が立て続けに発生し、ワクチン接種も効果を発揮できず、より厳格な行動規制が再び導入される。
財政政策の効果は期待通りには得られず、過剰貯蓄も反動としての消費に向かわず温存されたままとなる。企業の破たんも相次ぎ、財政・金融政策による支援を打ち切ることができない状況が続く。
そうしたシナリオで懸念される帰結としては、米投資銀行リーマン・ブラザーズの破たん(2008年)に始まる世界金融危機に匹敵するほどのダメージが予想され、銀行部門も圧迫されるとの懸念を報告書は示す。
もちろん、これを前提に議論を進めると、一般的に想定されているすべての前提が崩れる。
現状は「ややアップサイドに傾いた中心シナリオ」という表現が近い。おそらく目下のインフレがおさまるのに合わせ、中心シナリオに収束していく公算が大きいと筆者は考えている。
金融政策の「のりしろ」の重要性
国際決済銀行は、中心シナリオを基本とした上で、政府や中央銀行が「のりしろ」を再構築することが大事だとして、「薄いのりしろ」しかない経済はいずれ訪れる不測の事態に脆弱であると警鐘を鳴らしている。
報告書が指摘する通り、「のりしろ」の縮小は進んでいる。
アメリカを例にとると、大きな危機を経るたびに(代表的な短期金利である)FF金利の天井が下がってきている【図表1】。
【図表1】FF金利と米10年金利の推移。議長名と年月はその利上げ局面の最高到達点と金利水準を示す。
出所:Macrobond資料より筆者作成
2015年12月から3年間かけて9回の利上げに踏み切り、利下げの余地を確保したことが、結果的にコロナ禍で活きた形だが、それがなければより危機対応に窮した可能性はある。
そうした利上げのすべてがのりしろを増やす発想で行われたわけではないだろうが、米連邦準備制度理事会(FRB)の本音をそのように理解する向きは、当時から少なくなかった。
もちろん、「将来利下げするために利上げする」というのは倒錯した議論であり、短期的に市場の理解を得るのは難しい。
しかし、リーマンショックや今回のコロナショックに金融政策で踏み込んだ対応を実現できたのは、十分なのりしろとそれに伴う信認があってこそだ。
仮に低金利政策をこのまま漫然と続けたとすると、何らかの理由で金利が上昇した場合、国債価格が下落して中央銀行のバランスシートを直撃する。残されるのは、乏しいのりしろと毀損したバランスシートだ。そのような態勢で不測の事態に備えられるのかという国際決済銀行の懸念は一理ある。
「もう何も期待できない」と市場に思われた中央銀行が、危機(に慌てた金融市場)に対してできることは多くない。それは「次の一手」について、もはや世界から注目を浴びることのなくなったいまの日本銀行を見ればわかる。
金融政策に期待できなければ、財政政策に期待が寄せられることになり、そうなれば政府債務は一段と積み上げられる展開が予見できる。中央銀行はそれを吸収するために国債購入額を引き上げる羽目になるだろう。文字通り、悪循環である。
国際決済銀行の年次報告書における指摘は、原理原則論にもとづくところが大きく、現実にそのまま当てはめるにはやや問題がある。
ただ、短期的な視点でものごとを考えがちな市場参加者に、中長期的な視点の重要性を気づかせてくれるという意味では有用で、ぜひ一読してほしい資料だ。
※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です。
(文:唐鎌大輔)
唐鎌大輔(からかま・だいすけ):慶應義塾大学卒業後、日本貿易振興機構、日本経済研究センターを経て欧州委員会経済金融総局に出向。2008年10月からみずほコーポレート銀行(現・みずほ銀行)でチーフマーケット・エコノミストを務める。