「地図はすぐに古くなるけれど、真北を常に指すコンパスさえあれば、どんな変化にも惑わされず、自分の選択に迷うこともない」。そう語る山口周さんとさまざまな分野の識者との対話。
第8回目の対談相手は、経済学者の井上智洋さん。著書『「現金給付」の経済学 反緊縮で日本はよみがえる』では、コロナ禍の失業や貧困とAIの進展により注目を集めるベーシックインカムの有用性を解説。本稿前編では、AIの進化によりベーシックインカムが必要になること。そして今すでに失われている仕事とは今後失われることが予想される仕事について語っていただきました。
山口周氏(以下、山口):ベーシックインカム(以下、BI)が新型コロナウイルスで再び注目されています。生活に必要な最低限のお金を国民全員に給付する社会保障制度です。
BI自体は20世紀初頭に提唱されたもので、歴史的には目新しいものではなく、極論すれば新約聖書の「ぶどう園のたとえ」にも原型を見ることができます。
井上先生は人工知能(AI)の進化に伴ってBIが必要であるといち早くおっしゃった。
産業革命以降、人間の肉体労働は機械によって代替されてきました。当時、蒸気機関によって駆逐された肉体労働者は、所得水準の低い人々でした。いまは逆に給与の高い仕事からAIに食われています。
例えば投資銀行のトレーダー、法律事務所のパラリーガルなどで、投資銀行のトレーディング・ルームからトレーダーたちは一斉に姿を消しました。年俸数千万円、数億円のトレーダーを雇うより100億円の人工知能を導入した方が経済合理性があるからです。
オックスフォード大学のマイケル・オズボーンとカール・ベネディクト・フライが2015年に発表した論文『雇用の未来—コンピューター化によって仕事は失われるのか』では、今後コンピュータに取って代わられるであろう職業としてこれらを列挙しています。
井上智洋氏(以下、井上):蒸気機関の発明によって、それまで手作業で布を織っていたのが、機械動力式の織機が導入され、手織職人は駆逐されました。けれども織物の価格が下がることで需要が高まり、結果的に工場労働者の賃金は上がり、実はみんながハッピーになった。
日本でも高度経済成長期に農村の次男坊や三男坊は都市部の賃金労働者になりましたが、好景気を背景に給料が上がり、多くの人が豊かさを享受できました。
経済学という学問は、基本的に工業モデルを前提としています。情報化がもたらすさまざまな問題に、経済学者は工業化時代に発展した理論を当てはめようとしますが、アップデートも必要です。
アメリカでは21世紀に入ってから、低所得と高所得の職業で雇用が増大している一方、中間所得層はITによって雇用崩壊を起こし始めています。雇用減少が著しいのは、コールセンターや経理部門、旅行代理店のスタッフです。
次にAIの影響によって、先ほど言われたような頭脳労働の雇用が減少し始めています。トレーダー、パラリーガルに加えて、資産運用アドバイザーと保険の外交員、証券アナリストの3つです。日本でもロボアドバイザーはずいぶん普及していますね。
金融業は、情報の世界だけで完結しやすく、複雑な言語コミュニケーションを必要としません。膨大な数値データを処理して法則性を見出すのはコンピュータの方が有利です。今は頭脳労働の専門職を中心に雇用が減少していますが、もう少し時間が経つと、AIが搭載されたロボットによって肉体労働も減り始めるでしょう。
山口:最終的には、あらゆる仕事がAIによって代替されていくのでしょうか。
AIは「人の心を揺さぶるメロディ」を判断できない
井上:AIが苦手とする仕事は、マニピュレーション(操作)とコミュニケーションの2つです。原理的に不可能ではありませんが、現時点では難しい。
現在のAIは猫の画像を判別できても、抽象概念、例えば民主主義や自由といった言葉は理解できません。人間であれば、自由という言葉を聞いた時、抑圧から解き放たれた状態をイメージできますが、それができない。
チャットボットのような簡単なコミュニケーションはできても、抽象的な思考に基づく高度なコミュニケーションができないのです。
もうひとつはマニュピュレーションです。画像認識や音声認識技術は、いまや人間よりよほど認識精度が向上していますが、手先の器用さは人間の幼児レベルにも達していません。
物流倉庫では、搬送は自動化していても、商品棚から商品を取り出すピッキングはまだほとんど手作業です。トマトなどの農作物を箱に詰めるパッキングもそうですね。建設業における鳶職で、特に足場の不自由なところの作業の多くも人間が行なっています。
マニピュレーション(操作)とコミュニケーションに加えて、クリエイティビティ、マネジメント、ホスピタリティの領域も、まだAIは苦手とされています。
もちろんクリエイティビティ領域でも、AIに作曲させたり小説を書かせる取り組みは始まっていますが、新規性に対応できない。新しいメロディをつくることはできても、それが人の心を揺さぶるものかどうか判断できないからです。
人間は「このメロディは心地良いな」と峻別できますが、AIは過去のデータから判断するしかありません。
新規性が新規たり得るのは、過去のデータに存在しないからです。それはAIが苦手とする領域です。全能エミュレーション、つまり人間の脳を丸ごとコピーする技術が確立されれば別ですが、100年かかると言われており、そもそも人工物と言えるのかも未知数です。
マネジメントも同じです。一部代替可能と言われますが、過去のデータにない事態にはなかなか対応できない。
そしてホスピタリティです。人間の介護士さんなら「体がかゆい」と言われたらどんな加減で掻いてあげるといいのかわかりますが、AIやロボットはかゆみを経験しないので、掻き加減を数値化してインプットしなければ対応できません。
そう考えると、新規性に関わる領域は、現時点ではまだAIが対応できないと言ってよいと思います。
ヒットチャートを席巻する曲を量産できる
宇多田ヒカルは日本ポップミュージックの新しい領域を切り拓いた一人。
REUTERS/Carlo Allegri
山口:新規性というのは難しい概念だと感じます。人間が聴いて心地良いと感じる音の組み合わせのパターンは有限ですから、完全に新しい楽曲やコードは存在せず、どこかしら昔のものの焼き直しです。
人間が生み出した音楽は、果たして本当に新規と言えるのか、過去のデータを組み替えただけではないのかと。
井上:おっしゃる通りです。音楽に限らず、最初にその分野が出てきた時は、芸術性とエンターテインメントは両立する。
ベートーヴェンやモーツァルトの楽曲は、新規性を備えた芸術的なものでありながら、エンターテインメントとして楽しむことができたはずです。
けれど、どんな領域でも、新規性はやがて取り尽くされます。私は「取り尽くし効果」と呼んでいます。ゴダール以降、新しい映画は生まれていないという人もいるように、さまざまな芸術のジャンルで同じことが繰り返される。
AIが新しいものを創造できないといっても、人間だってそうじゃないかというのは、その通りだと思います。ただ、それは程度問題とも言えます。
小室哲哉や宇多田ヒカルが日本のポップミュージックを席巻したのは、何かしら新しい音楽のパラダイムを生み出したからです。
宇多田ヒカルはアメリカのR&Bと演歌の情緒的なメロディを組み合わせただけという人もいますが、ポップミュージックの中では、新しい領域を切り拓いたと言えるのではないでしょうか。
現時点では、AIにはそれができません。
山口:AIの得意不得意は分野によってかなり濃淡がありますね。囲碁や将棋では、AIが人間の世界チャンピオンを破りましたが、音楽や絵画、文学作品についてはどうか。
ビルボード・ランキングのトップ10がAIのつくった音楽で占められたり、AIが芥川賞作家になるようなことは起こるのでしょうか。
井上:AIは最適化を行なっているに過ぎません。つまり何を最適とするか定義し、目標を数値化する必要があります。囲碁であれば、棋譜のパターンを数値化して、相手に勝つための手を打つための最適化を行います。
楽曲やコードはデータ化できますが、目標の数値化が難しい。
すでにあるヒット曲をパターン化して、YOASOBIっぽい曲の量産はできますし、その結果、ヒットチャートをAIが席巻することはあるかもしれません。しかし最初のオリジンとなる部分は、まだAIにはつくれないと思います。
2030年、低所得層の多くの仕事はロボットに
テスラ社Model Sの車内。自動運転はますます普及していくことが予想される。
Shutterstock/Flystock
山口:マニュピュレーションも苦手ということですが、マニピュレーションの領域は、総じて給与水準が低い仕事が多い。一方で、新しい価値を生み出す仕事は所得水準が比較的高い。
AIが苦手とする職業の報酬水準が二極化し、両者の中間にある、手順の確立された情報処理や事務作業がAIに取って代わられということでしょうか。
井上:日本でも所得分布を見ると、中間所得層が二極に分化し、格差が拡大しています。とりわけ低所得層の人口、年収100万円未満の人が増えています。
商品棚から品物をとって段ボールに詰める仕事はほとんどの人ができるはずなので、機械に取って代わられることはないけれど、賃金は低くなります。
山口:そうした仕事ですら、2030年ごろにはロボットに取って代わられると予測されていますね。
井上:AIやロボットに限らず、運送・物流・農業などの分野で自動運転カーや工場・倉庫内の無人搬送ロボット、ドローンなどのスマートマシーンが完全に普及するのは2030年頃だと予測しています。
自動運転トラクターはすでにありますが、公道を走る自動運転トラックの実用化は道半ばです。2025年あたりから高速道路を走れるかもしれませんが、一般道を走るには、さらに時間がかかります。
自動運転トラックやタクシーがある程度普及して「人間のドライバーを見かけなくなったね」「失業した人が増えた」と多くの人が実感するようになるのが2030年頃ではないでしょうか。
(構成・渡辺裕子、山口氏写真・伊藤圭、編集・浜田敬子、小倉宏弥、デザイン・星野美緒)
井上智洋:駒澤大学経済学部准教授。経済学者。慶應義塾大学環境情報学部卒業。IT企業勤務を経て、早稲田大学大学院経済学研究科に入学。同大学院にて博士(経済学)を取得。2017年から現職。専門はマクロ経済学、貨幣経済理論、成長理論。著書に『人工知能と経済の未来』『ヘリコプターマネー』『AI時代の新・ベーシックインカム論』などがある。
山口周:1970年生まれ。独立研究者・著作家・パブリックスピーカー。World Economic Forum Global Future Council メンバー。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了後、電通、ボストン・コンサルティング・グループなどで経営戦略策定、組織開発に従事した。著書に『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』『ビジネスの未来』など。