「思考のコンパスを手に入れる」ために、山口周さんによるさまざまな知見を持つ人との対話。
前回に引き続き、対談相手は『「現金給付」の経済学 反緊縮で日本はよみがえる』でベーシックインカムの必要性を示した井上智洋さん。後編では、今の時代におけるベーシックインカム導入の適切さと実現可能性について解説します。
ZOZO前澤氏の100万円を1000人実験からわかったこと
山口周氏(以下、山口):2030年ごろにタクシー運転手やトラックドライバーの仕事がAIに取って代わられるからこそ、その準備のためにも、ベーシックインカム(BI)を包括的に議論すべき時期に来ていると主張されています。
井上智洋氏(以下、井上):元ZOZO社長の前澤友作さんが100万円を1000人に配る「前澤式ベーシックインカム社会実験」に私も研究者として参画しています。
当選者の方たちには、100万円を受け取ったことによる生活や仕事、環境の変化を聞いて。今後、そのデータを分析する段階です。
山口:僕もBI導入は必要と考えていますが、よくある反論が、そもそも貧困に陥ったのは自己責任ではないか、そして本当にその配ったお金が有効に使われるのかというものです。現金を給付するとパチンコに使われるだけだから、バウチャーで支給すべきだと。
しかし、お金の用途を政府が決めるよりも、現金を給付して、各人が効用が大きいと思うことに使う方が、市場原理が働くので、社会全体のリターンは最大化されるはずだと僕も思います。
井上:前澤さんの実験では、パチンコに行く人はほとんどいませんでした。もちろん国民全体に給付すれば、そういう人も中にはいるでしょうが、全体で見ればわずかです。
行動経済学の研究では、経済的な貧しさによって合理的で的確な判断がしづらくなることがわかっています。お金に余裕がなければ閉店間際のスーパーで半額商品を買えばいいのに、貧しい人ほどコンビニで割高なものを買ってしまう。とすると、現金を給付する方が合理的にお金を使える可能性がある。
オランダの歴史家ルトガー・ブレグマンが『隷属なき道 AIとの競争に勝つ ベーシックインカムと一日三時間労働』で述べているのは、人は現金をもらったからといってさほど無駄に使わないし、逆に偉い人が決める用途がいかに現場を無視した非現実的なものかということです。
例えばアフリカの貧しい国に現金をあげるよりも「牛をあげれば乳搾りができるだろう」と考えて牛をあげる。ところが維持コストがかかって赤字になる。でもバイクがあれば運送ビジネスを始められます。
現場の人はそれがわかっているけれども、偉い人には届かない。どうせ現金を配っても無駄なことに使うからと用途を限定するのは、庶民をなめていると思います。人間はみんながそれほど愚かしいわけではありません。
ただ教育は別です。経済学では外部効果と言いますが、教育の効果を享受するのは、受けた本人だけではありません。日本で僕ひとりだけが教育を受けても社会の秩序やサービスは保たれません。
他の人にも教育を受けてもらうことで、社会全体で恩恵を受けられます。ですから、義務教育をはじめとする教育支援は政府が行うべきです。
山口:ブレグマンの本では、ロンドンでの実験も紹介されていました。現金を給付したところ、多くの人が貧困を脱出するための職業訓練に通うなど、大半が有意義な使い方をして、お酒や麻薬に消費する人はほとんどいなかったと。
世界各国でBIの実験が進められていますが、井上さんの著書では、期待通りの成果が得られなかったフィンランドの実験紹介されていました。BI導入の是非を判断するには、もう少し実験が必要な段階なのでしょうか。
井上:フィンランドの場合、失業者2000人を対象に月650ユーロ(約7万円)を支給しました。失業保険の給付よりも労働意欲を高められるのではないかと期待していたのです。
失業保険は就職すると打ち切られますが、BIは就職してももらえるからです。しかし、BI受給者の方がストレスが少なく幸福度が高いという結果は得られたものの、労働意欲はどちらもあまり変わりませんでした。
仮に日本で同じ実験をした場合、失業者がもう少しのんびり過ごす可能性はあると思いますが、月に約7万円もらえるからといってみんな会社を辞めることにはならないと予想しています。
一人暮らしでも月7万円では悠々自適とはいきません。4人家族なら28万円受給できますが、子どもの教育費にお金をかけたいと考える人も多いと思うので。すぐにでも仕事を辞めるという人は、BIがなくてもいずれ辞めると思います(笑)。
ベーシックインカムが社会の閉塞感を打破する可能性
マクロ経済学の視点からベーシックインカムの必要性を示す井上智洋さん。
提供:井上智洋
山口:従業員エンゲージメント、つまり会社への忠誠心や思い入れの度合いの調査では、日本は139カ国中132位でした(ギャラップ社・2017年)。自分の仕事や勤務先に愛着を感じている人はアメリカの方が高い。
日本は雇用流動性も低く、同じ会社に20年以上勤続している人が先進国中最多で、1年未満は5%以下です。フィンランドでは1年未満が25%で、4人に一人は就職して1年経っていない。
月々決まったお金をもらえるポジションを手放したくないという安定志向がリスク回避や雇用流動性の硬直化を生み出しているとすると、BIが導入された場合、好きでもない仕事を嫌々続けるのではなく、自分が本来やりたいと思っていた仕事を目指して職を変える人が出てくるのではないでしょうか。
人間は自分が楽しいと思える仕事をやる方が成長するし、自己投資額が増えるという研究結果もあります。結果として、社会全体の価値創造能力は上がるのではないか。
「反緊縮」、つまり財政支出の増大によって消費を促進することで日本はよみがえる、そのためにBIを導入し現金を給付するべきと、井上さんは書かれています。
景気の浮揚もさることながら、BIによって新しいことを勉強して、やってみたかったことに挑戦してみる。そんな人が多少なりとも増えると、社会の閉塞感はずいぶん変わってくるように思います。
井上:実は、前澤さんが今回の実験で一番期待しているのはその点のようです。
貧困対策もさることながら、毎月現金が支給されることによって、人々が楽しく、生産性ある仕事ができるようになるのではないかと。
100万円を受け取った人が転職して、よりやりがいある給与の高い仕事に就いたという結果が出れば、前澤さんの狙い通りですが、データ検証にはもう少し時間がかかりそうです。
今の日本を見ていて暗い気持ちになるのは、会社を辞めたいと言いながら、仕方なくしがみついて生きている人があまりに多いことです。私の知り合いにもいます。
人生の長い時間を費す仕事がつまらなければ、人生そのものがつまらなくなってしまいます。
所得が二極化する「クリエイティブ・エコノミー」の到来
リモートワークが導入され、隙間時間に自分の好きな仕事で稼ぐスタイルが可能に。今後は多くの人がエンゲージメントの高い、やりたい仕事に就くための仕組みが求められる。
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山口:2020年4月から5月、コロナ禍による倒産や失業がそれほど増えていないタイミングで、自殺者数が前年比でかなり減少したのは、緊急事態宣言によって会社員が出勤というストレスから解放されたためではないかと書いておられます。
自宅でテレワークをする人も増えましたが、みんなが朝から晩まで仕事していた訳でもない。オンライン会議の合間に副業やYouTube配信などでお小遣いを稼ぐ人も増えています。そういう意味では、史上初めて会社が労働者に搾取される時代が到来している(笑)。
毎月給料をもらいながら、空いた時間で好きな仕事をして稼ぐ。そうしたポートフォリオを自分で設計する人が増えていくでしょうし、会社の給料は一種のBIとも言えます。
逆に、サボろうと思えばサボれる時代だからこそ、エンゲージメントの低い状態では、国家的な生産性の低下を招く危険がある。なるべく多くの人がやりたい仕事に就いて価値を出せる仕組みを再設計する必要があります。
一方、AIによって中間所得層の仕事が奪われ、新しい価値を生み出す仕事かマニュピュレーションに二極化していく。けれども価値を生み出す仕事は、報酬の変動性が大きい。典型的な例がアーティストです。
その点からも、一部の高所得層に課税して、BIで広くばらまく再配分を行わなければ、一部の高所得層に富が集中する構造になってしまう。BIは税制改革とセットでと書かれていますね。
井上:AIやロボットによってさまざまな職業の雇用が減少する一方、新しい仕事も増えていきます。
ここ数年の間にもYouTuberやTicToker、LINEのスタンプ職人といった新しい仕事が生まれていますし、今後も増えていくでしょう。
オックスフォード大学のマイケル・オズボーンは、クリエイティブ・エコノミーが到来すると言っています。森永卓郎さんは、一億総アーティスト社会と言っています。
楽しげな響きですが、所得分布で見ると、低所得層ばかりになります。上位一握りは億万長者になれますが、ほとんどは売れない人たちで、年収10万円以下の人も珍しくない。
一億総アーティスト社会が到来すると、さらに二極化が進むでしょう。これは結構しんどい社会だと思います。
山口:だからこそBIが必要であると。
イノベーションに必要なのは数です。無数の挑戦があって、ほんのひと握りがイノベーションとして結実する。あとは死屍累々です。
ですから、イノベーションによってもたらされた価値を再分配し、失敗を恐れず挑戦できるセーフティネットが必要です。みんなが確実性を求めて失敗を忌避するようになれば、挑戦の絶対数は減り、イノベーションは枯渇し、社会は萎縮していくからです。
「ヘリコプターマネー」をマクロ経済政策の主軸に
「ヘリコプターマネー」の概念を提唱したアメリカの経済学者ミルトン・フリードマン。
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山口:BI導入の話になると必ず財源の議論になります。僕も先日、人事院でBIの話をしたところ、財務省の人から聞かれました。
井上さんは、BIを固定・変動の二階建てで導入することを提唱され、固定BIはいずれ税金を財源とするべきだが、変動BIについては、その限りではないと書かれています。
それどころか、MMT(現代貨幣理論、Modern Monetary Theory)の立場からは、財政健全化は必要ない、つまり節約して財政支出を減らしたり、増税して財政赤字を縮小したりする必要はないと。
井上:MMTはいわゆる「非主流派」の経済理論ですが、「政府の借金はインフレをもたらさない限り、問題ではない」という主張で知られています。
ただMMTを支持する経済学者にもさまざまな議論や思想があり、多くの人はBIに反対していますし、私自身、MMTのすべてが正しいとも思いません。
これまで政府支出には税金を徴収する必要があり、そのバランスが崩れると、国債=国の借金の残高が増えてしまうから、政府支出を抑制するか、増税しなければならないと考えられてきました。
しかし、そもそも政府・中央銀行がお金を印刷して市中に供給しているのに、自分たちの配ったお金を国民から借りるのもおかしな話です。政府・中央銀行は通貨製造機を持っていますから、お金が足りないなら、紙幣を印刷すればいいだけです。
私が提唱しているヘリコプター・マネーは、ノーベル賞を受賞したアメリカの経済学者ミルトン・フリードマンがつくった概念で、ヘリコプターからお金をばらまくように中央銀行が市中にお金をばらまいたらどうなるかという思考実験です。
私は、それをマクロ経済政策の主軸にするべきと考えています。中央銀行は発行した国債をどんどん買い取って「マネタイゼーション」(貨幣化)を行う。国債を日銀が買い取るなら、それは日銀がお金を刷って配るのと同じことです。
ただ1点だけ注意しなければいけないのはインフレです。通貨を発行して政府支出を拡大し続ければ、やがてインフレが起きます。
しかし、日本はこれまで20年以上デフレ不況に苦しんできて、インフレ率目標の2%さえ達成できていません。100円のおにぎりがその日のうちに200円になるようなハイパーインフレではなく、ほどよいインフレはむしろ望ましいはずです。
インフレを過度に恐れて緊縮財政を続けてきたために、長いデフレ不況から脱却できていないのであれば、思い切った「反緊縮」政策が必要ではないでしょうか。
インフレターゲットを決めた上でお金をばらまく。緩やかなインフレが10年か20年続くことで、ようやく日本経済は活気を取り戻せるのではないかと思います。
山口:社会保障が充実している北欧では、高福祉・高負担で、国民は高い税金を払っています。日本で増税はあり得るのでしょうか。
井上:当面、増税の必要はないと考えています。MMTには「租税は財源ではない」という言い回しがあります。スペンディング・ファーストと言って、市中に出回るお金は政府支出によって生まれ、租税によって消滅すると考えられています。
だとすれば、政府支出を行うために税金を徴収する必要はない。増税の理由は、所得再分配による格差の是正、それからインフレ抑止だけです。
日本では、インフレ率目標2%に到達する前に2回の消費税増税を行いましたが、正直何の意味もなく、むしろマイナスです。デフレ不況が長引き、インフレを目指す中で増税して、市中に出回る現金を減らす。
それではデフレが続くばかりです。デフレから脱却したければ、政府支出を増やして、世の中に出回るお金は増やし、需要を創造する以外に取り得る手は現状ないと思います。
(構成・渡辺裕子、山口氏写真・伊藤圭、編集・浜田敬子、小倉宏弥、デザイン・星野美緒)
井上智洋:駒澤大学経済学部准教授。経済学者。慶應義塾大学環境情報学部卒業。IT企業勤務を経て、早稲田大学大学院経済学研究科に入学。同大学院にて博士(経済学)を取得。2017年から現職。専門はマクロ経済学、貨幣経済理論、成長理論。著書に『人工知能と経済の未来』『ヘリコプターマネー』『AI時代の新・ベーシックインカム論』などがある。
山口周:1970年生まれ。独立研究者・著作家・パブリックスピーカー。World Economic Forum Global Future Council メンバー。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了後、電通、ボストン・コンサルティング・グループなどで経営戦略策定、組織開発に従事した。著書に『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』『ビジネスの未来』など。