撮影:伊藤圭
その日は6月上旬だというのに、真夏を思わせる暑さだった。インタビューの日、矢澤麻里子(38)は、両手に大きな荷物を抱えて取材場所までやってきた。片方の紙袋には、「レターパック」の封筒が何枚も入っていた。
「まだ社員もいないので、契約書の発送など全て自分でやらなくちゃいけないんです」
2020年、たった1人でベンチャーキャピタル(VC)を立ち上げた。その名も「Yazawa Ventures」。あえて自分の名前をつけた。
シリコンバレーにはアンドリーセン・ホロウィッツ(マーク・アンドリーセンとベン・ホロウィッツが共同で設立)など設立者の名前をつけたVCが珍しくないが、日本ではまだ数少ない。矢澤も1人でVCを立ち上げると決めた時、まさか自分の名前をつけることになるとは思ってもみなかった。信頼できるメンター的な人たちに相談すると、「Yazawa Venturesでいいんじゃない?」と勧められた。
それでも自分の名前を冠したVCを立ち上げることにどこか恥ずかしいという思いもあり、登記した後になっても、まだ迷いがあった。
「でも最終的に名前にして良かったと思っています。起業家を応援することで世界を変えたいという、そもそもなぜVCを志したのかという自分の想いを何度も反芻することにもなっているので。
一方で、なぜ私が『恥ずかしい』という想いを捨てきれなかったかを考えると、女性起業家全般に言えることかもしれませんが、自分に自信が持てない、ということにもつながるのではないかと思っていて」
そして、矢澤はこう付け加えた。
「私の場合、そこには父親が、女性が働くことをネガティブに捉えるタイプの人だったことも影響していると思います」
詳しくは2回目に書くが、矢澤の父は神奈川県で紙の卸会社を経営していた。矢澤は父親がつくり上げた会社を継ぎたいという思いを持っていたが、父にその意思はなかった。
「本当は継いでも良かったのに、継げなかったという思いが今でも自分の中にあって……。Yazawaという名前をつけたのも、父の名前を残したいという思いもあるのかもしれません」
少ない女性VCが女性起業家に与える影響
キャシー松井など、金融業界で活躍する女性が立ち上げ、注目を集めたMPower Partnersは、ESGの視点を重要視する。
MPower Patners Fund L.P. 公式ウェブサイトよりキャプチャ
一口にVCといっても、運営方針や出資元などによっていくつか種類がある。例えば、金融機関が母体のものから大学や政府機関が母体のもの。地域に特化したVCもある。矢澤が立ち上げたVCは独立系と呼ばれるが、女性が1人でGP(ゼネラルパートナー、投資運用担当者)を務めるVCは日本で初めてだ。
そもそもVC業界で働く女性は少ない。先日、元ゴールドマン・サックス日本副会長で「ウーマノミクス」の提唱者であるキャシー松井や元OECD(経済協力開発機構)東京センター長の村上由美子ら金融業界で活躍してきた女性らがVC「MPower Patners Fund L.P.」を立ち上げ、大きな話題になった。日本では例のないESG(環境、社会、ガバナンス)を重視するVCということでも注目を浴びたが、やはり3人のGPが全員女性ということも大きな理由だった。
女性VCの少なさは、そのまま女性起業家に対する投資額の少なさにも直結している。それはシリコンバレーでも同様だ。
投資額は年々増えているとはいえ、女性が創業したスタートアップへの投資額は33億ドル(約3600億円)で、アメリカのスタートアップ投資額のたった2.3%に過ぎない(2019年のデータ、PitchBookより)。女性起業家が受ける投資額は平均93万5000ドルと男性平均の210万ドルに比べて半分以下というデータもある。
女性起業家を増やすためにも、多くのVCが女性を増やそうとしてはいるが、意思決定層に女性が占める割合は10%未満という数字もあり(2019年、Axiosより)、いまだにVC界は圧倒的に男性優位だと言える。
矢澤がVCとしてこんな経験をしたことがある。ある20代後半の女性起業家が資金調達をする際、投資家サイドからこう言われた。
「うちは女性の起業家には投資しづらいんですよ。女性は出産などライフイベントがあるから、投資家サイドとしてはそれを許容できない」
別の妊娠した女性起業家から、真っ先に相談を受けたこともあった。
「女性キャピタリストも増えてきて、こんな状況は少しずつ変わってきているとは思います。でも、私自身が仕事と自分自身のライフイベントの間で葛藤してきて、独立する際にも子どもをどうしようと悩んできました。そういう状況がよく分かるからこそ、私ができることはあると思っています」
女性VCの草分け的存在として
撮影:伊藤圭
矢澤は男性優位と言われるVC業界で10年近い経験を積んできた。日本においては女性VCの草分けとも言える存在だ。
VCの仕事は、自らの人脈を通じて原石のようなスタートアップの情報を集めるソーシング、そのスタートアップのビジネスモデルや成長性を見極めるデューデリジェンス、その上で投資額を決め、投資後は出資先に助言して成長を後押しするなど多岐にわたる。そもそもファンドを組成するために投資家を回って、お金を集めなければならない。
矢澤はシリコンバレーのVCでのインターンを経て、スタートアップの創業期に特化したVC、サムライインキュベートに入社し、経験を積んだ。人手が足りなければ、バックオフィスの仕事も手伝い、イベントの運営もしながら、キャピタリストとしてスタートアップに寄り添い、成長を後押ししてきた。洋服のレンタルサービスであるエアークローゼットなど74社への投資に関わり、多い時で15億円の運用をメンバーと共に任されていた。
その後に転職したPlug and Play JapanではCOOとして日本法人を立ち上げ、アクセラレーターという形で大企業とスタートアップのオープンイノべーションを日本に広めた。そうした経験の積み重ねが独立の背中を押した訳だが、ひとりVCということは、全ての作業を担当するということでもある。
Yazawa Venturesのサイトには、「この国の『働く』の未来を変える、さまざまな分野のスタートアップをシードレベルから支援します」とある。そして「この国にもっと『働くよろこび』を」と続く。
この言葉に矢澤がどんな想いを込めたのか。その背景にはどんな経験があったのか。次の回から見ていく。
(▼敬称略、続きはこちら)
(文・浜田敬子、写真・伊藤圭、デザイン・星野美緒)