撮影:伊藤圭
1人でベンチャーキャピタル(VC)「Yazawa Ventures」を立ち上げた矢澤麻里子(38)がVCという存在を知ったのは20代半ばだった。2000年代半ば頃の話で、日本でもITバブルが崩壊し、第1次起業ブームは去っていた。
だが矢澤はぼんやりとだが、大学を卒業する頃から、起業に興味を持ち始め、起業家こそが停滞している日本を変えるのではないかと思っていた。実際自身も大学卒業後に、ニューヨークでいくつかのサービスの立ち上げを模索した時期もある。
「トヨタやホンダのような大企業も、最初は創業した人がいたからこそできた。創業者や創業したばかりの小さい企業をもっと応援する人や仕組みがないと、と漠然と考えていたんです。『これをやろうかな』と思いついた人に、『それ、いいね』と言って、お金という形で支援できればと。そう考えていた時に出合ったのがVCという仕事で、応援する存在を極めたいと思うようになったんです」
そう思いながらも、本当に自分にその仕事ができるのか、ずっと自信が持てなかった。そこには父親との関係が影響している、と矢澤は言う。
矢澤の父親は祖父が興した紙の卸事業を、多い時には社員10人を雇うまでの会社に育てた。製紙会社から買ってきた紙を地元の学校や企業に卸す仕事だった。父の「お得意さんのために」という姿勢を見て、矢澤は仕事とは誰かを笑顔にすることだと感じてきた。何より、楽しそうに働く父の姿を見るのが好きだった。
一方で、父親は「女性は働くべきではない」という考えの持ち主だった。女性は働かなくても家のことができればいいと教え込まれ、はっきりと「会社を継がなくていい」とも言われ育った。矢澤は父親を通して、働く楽しさを感じつつも、働くことを否定されるという二重のメッセージを受け取っていた。
NY留学が専業主婦との分かれ道
ニューヨーク州立大学卒業式での矢澤。海外に出たことは、自身の職業観に多大な影響を及ぼしたと語る。
提供:矢澤麻里子
矢澤はニューヨーク州立大学を卒業しているが、帰国子女でもなければ、中学高校時代に留学経験があった訳でもない。むしろ「両親は海外志向が全くなかった」(矢澤)ので、矢澤も英語を勉強する必要性を感じていなかった。
大学1年の冬休みにアルバイトをして貯めた小遣いで、「これで最初で最後にするから」と父親を説得して、イギリスで2〜3週間のホームステイを体験した。英語が全くできず途方に暮れたが、帰国後どうしてももう一度海外で勉強したいという熱はより高まった。英語をコツコツ勉強し、親には内緒で海外の大学を受けた。親に海外の大学に行きたいと打ち明けたのは、合格してからだった。
「海外の大学を卒業していることで、環境に恵まれていたんでしょ、とよく言われますが、私の場合全くそんなことなくて。あのときに自分の意思で海外に出ていなかったら、今頃私は専業主婦になっていたと思います。自分で環境を変えてきた経験があるから、想い一つで環境も変えられると信じていて。そういう熱い想いを持った人が活躍できる世界をつくりたいと思ったんですよね」
進学先の大学はニューヨーク州の北部、カナダとの国境に近い場所にあった。冬になると雪深い土地。英語もまだおぼつかない身では、寮生活でも孤独だった。考える時間はいくらでもあった。なぜ自分は生きているんだろう。自分の幸せはなんだろう……。1人で海外に身を置いたからこそ、内省の時間を持てた。
突き詰めて考えていくうちに、「自分の幸せとは周りの人が幸せになること」と気づくと、音楽にはその力があると考え、仲間たちとクラブでのイベントを開催した。しかし、それでは参加している人しか幸せを体感できない。もっと多くの人を幸せにするために、自分には何ができるんだろうか。
卒業後はニューヨークで起業も模索した。「今から考えると、起業とはとても言えないレベル」(矢澤)というが、語学を学びたい人と教えたい人のマッチングサイトという、今では当たり前に存在するスキルシェアのビジネスを2000年代半ばにすでに考えていた。結局事業計画や資金繰りが甘かったためうまくいかず、帰国。ソフトウェア企業に就職して、エンジニアやコンサルタントとして働いていた時期もあった。
諦めさせられていた人を諦めたままにさせない
大学卒業後の矢澤(写真中央)は、起業初期のシードベンチャーに投資するVC、サムライインキュベートに入社。エアークローゼットなど74社への投資に関わった。
提供:矢澤麻里子
「より多くの人を幸せにする」「世の中を変える」—— 。矢澤の芯にあるのはこの2つの想いだ。この2つを果たすための仕事とは、と探していた時に、知った仕事が起業家を支援するベンチャーキャピタリストという存在だった。だが実際、転職活動を始めてみると、リーマンショック後の投資環境は冷え込んでいた。日本にはまだVCの数も少なく、何の経験もない若者を採用してくれるところはなかった。
少しでも経験を積もうと、シリコンバレーに渡り、VCで半年間のインターンを経験後、日本のVCの採用試験を受けた。
スタートアップの成長段階はシード、アーリー、ミドル、レイターと呼ばれ、VCによってどの段階を投資対象にしているかは異なる。矢澤はあくまでも起業初期のシードと呼ばれる段階に投資をしているVCにこだわっていた。当時、経験もないほぼ新人を採用しているVCは3社ほどしかなかった。
矢澤がシードに特化したVCにこだわったのは、起業に踏み出す最初の時期に関わりたいと思っていたからだ。ただお金を投じるだけでなく、起業しようと思ったその人の人生そのものに寄り添い、一緒に成長を目指したい。それは独立した今でも、変わらない。
Yazawa Venturesに出資した1人であるウィズグループ代表の奥田浩美は、投資をする際に3つのWhyを重視するという。その3つは「なぜ始めるのか」「なぜ今なのか」「なぜこの人なのか」。なぜ矢澤に投資したのかと聞くと、奥田はこう答えた。
「彼女は海外の大学を卒業し、VCという仕事をしているから、最初から環境に恵まれていたように思われがち。でも親の事業を継ぎたいと願ったのに、それを親に認めてもらえず、自力で道を切り拓いてきた。決して王道の道を歩んできた訳ではないからこそ、『地方にいるから』『女性だから』と環境のせいで諦めようとしている人たちの背中を押せると思ったんです」
そういう奥田も鹿児島出身で大学まで地元で過ごしてきた。そこからインドに渡り、大学院を修了して、帰国後、ITに特化したビジネスカンファレンス事業を立ち上げ、日本では女性起業家の草分け的な存在となった。今では多くのスタートアップ経営者の相談にも乗っている。
「私にもあのまま鹿児島にいたら……という想いが常にあるんです。彼女には、『諦めさせられていた人』を『諦めたままにさせない』力がある」
事業アイデア100個出せるほど想いがあるか
エアークローゼットは、創業者から本気度の高さを感じ、投資を決めた一社だ。
エアークローゼット公式サイト
矢澤も投資先を決めるポイントを「想い」だという。
サムライ時代に印象に残っている起業家の1人が、エアークローゼットの社長兼CEOの天沼聰だ。いまでこそ、洋服のレンタルサービスの先駆けとして認知されているエアークローゼットだが、最初に天沼が持ってきたビジネスアイデアは違うものだった。
「経営者として、人としてはすごく魅力的だったし、想いもあった。だから『サービスを変えるなら、投資します』と言ったんです」
そこから天沼は100以上のビジネスアイデアを考えて持ってきた。
「『100個考えてきます』と言っても、それがどれほど難しいことか。実際できない人も多く、『思ったほどやらない人が多いな』と感じていたんです。天沼さんたちのチームからは本気度が伝わってきました」
最終的に矢澤は、洋服のシェアリングサービスは絶対世の中に求められると思ったので、投資を決めた。
「投資を決める際、起業家の『世の中を変えたい』という想いがどれだけしっかりしているかはすごく意識しています。この領域にチャンスがありそうだからではなく、起業家本人の原体験があって、そこから世の中に貢献したいという想いの人。だから生い立ちなどまで遡り、人生でどんな価値観を大事にしているのかも聞きます。これには自分の原体験や負の感情がどこかで影響しているとは思います」
そう話す矢澤は自分で道を切り拓いてきたという体験とともに、もう一つの「負の感情」がある。働く女性誰もが葛藤する、仕事と自分の人生、ライフイベントとの両立に苦しんだ体験だった。
(▼敬称略、続きはこちら)
(▼第1回はこちら)
(文・浜田敬子、写真・伊藤圭)