撮影:伊藤圭
1人でベンチャーキャピタル(VC)「Yazawa Ventures」を立ち上げた矢澤麻里子(38)には、もうすぐ2歳になる娘がいる。毎朝8時に子どもを幼稚園まで送って行った後、スイッチを切り替え、投資家やスタートアップの経営者とのオンライン会議やメールなどでのやり取りが続く。気がつくと、お迎えに行く午後6時。1日はあっという間に過ぎていく。
一旦子どもと帰宅した後は夕食を作り、お風呂に入れ、寝かしつけ。本当はそこからもうひと頑張り、仕事に戻りたいところだが、寝落ちしてしまう夜も少なくない。グローバルなベンチャーキャピタルを育成するというオンラインセミナーを受講していた時には、一度午前2時に起きてミーティングに参加していたが、体力的についていくのが精一杯だった。
“犠牲”になった結婚生活「もう離婚だね」
サムライインキュベート時代の矢澤(写真右下)らと、投資先の企業人たち。結果を出してきたものの、プライベートに与えた打撃も大きかった。
提供:矢澤麻里子
最初に就職したVC、サムライインキュベート時代の矢澤の働き方は、ちょっとした“伝説”になっている。半年のインターン経験はあったものの、VCとしてはほぼゼロからのスタート。矢澤は人一倍働くことで、成果を出そうとした。週数十社ペースでスタートアップの面談を行っていたことは、記事にもなっている。イベントの準備などが重なると、朝早く家を出て帰宅が日をまたぐことも珍しくなかった。
その働き方を続ける中で、“犠牲”になったのが結婚生活だった。夫とは矢澤の働き方を巡って、しばしばケンカになった。矢澤自身、当時の働き方をいいと思っていた訳ではなかった。長時間労働に待遇が見合わないことの不満も抱え、仲間と働き方や待遇の改善を会社にも働きかけていた。「少し休みたい」という気持ちは、誰よりもあった。
一方で、支援するスタートアップにとことん寄り添いたいという気持ち、小さい組織で自分が休んだらどうなるんだろうという責任感から逃げられない。このままここで働いていけるかどうか悩んでいた時、夫と大きなケンカになり、こう言われた。
「じゃあ、もう離婚だね」
自分の「逃げられない」状況も話していたから、夫は働くことを肯定し、理解してくれていると思っていた。
「ビジネスパーソン、VCとしてはめちゃくちゃ尊敬できるけど、奥さんじゃない」
「もう少し家に早く帰ってきてくれると思っていた。正直結婚すれば働き方が変わるんじゃないかと期待していた」
夫からその時投げられた言葉は、今でも鮮明に覚えている。
矢澤は今、こう振り返る。
「ずっと両親に認められたいという気持ちがあったのに認められなくて、仕事をすることで社会に認められたいと転化していたのかもしれません。だから彼にも頑張っている自分を好きでいて欲しいと思っていて。それが『頑張っている姿は評価するけど、奥さんじゃない』と言われたことは、本当にショックでした」
自分がもっと状況や気持ちを率直に話していればよかったのか。あの時どうすればよかったのかと、今でも思う。離婚後、矢澤の中には「やっぱり女性は働くべきではないのかな」「父親の価値観が正しかったのかな」という考えが事あるごとにぶり返した。
その後、起業家支援に注力する弁護士である現在の夫と再婚した。Plug and Play Japanを立ち上げる際に相談に乗ってもらったことから親しくなった。再婚に不安がなかった訳ではないが、事業について相談するうちに、「何かあった時にちゃんと向き合って話せる人だ」と感じて踏み切れたという。
それでも矢澤にはいまだに、働きすぎることに対して恐怖心がある。仕事にのめり込みすぎると、また何かを失ってしまうのではないか。その恐怖心と目の前の仕事の折り合いをどうつけるか腐心してきた。
独立のタイミングで妊娠…葛藤
独立が先か子どもが先か、2つのライフイベントの間で揺れる最中の出来事だった(写真はイメージです)。
Leonardo da / ShutterStock
1人でVCを立ち上げようと思ったのは、Plug and Playでの仕事が一区切りついた頃だった。独立に向けて動き出そうか、という時に、妊娠していることが分かった。
「その頃はファンドも立ち上げたいし、子どももほしい、どうしようという感じでした。先に出産したら、ファンドの立ち上げは3〜4年後になってしまう……。出産後の自分にお金を預けてくれる人なんているだろうか。でも、年齢的には30代後半に差し掛かっていたので、子どもを持つなら今しかないんじゃないかって」
尊敬している女性経営者に相談にも行った。彼女には10年近く不妊治療の経験があった。
「妊娠は思っている以上にできないものだから、子どもがほしいのだったらそちらを優先してもいいと思う」
その相談から3日後に分かった妊娠は、悩んでいる気持ちに踏ん切りをつけてくれた。両方やろう。ファンドも諦めず、やってみよう。途中、切迫早産になり、準備をいったん中止せざるを得ない状況にもなった。妊娠中、本当に1人でVCをやれるのか、お金が集まるのか、ずっと葛藤していた。
ファンド立ち上げ前から矢澤のメンターとなり、結果的には投資もしたウィズグループの奥田浩美にはこう言われた。
「結婚や出産と仕事の両立に悩む女性は多いけれど、ライフイベントはゼロスタートするいいチャンスでもあるんだよ。出産後に新しいことを始めると、子どもがいることを前提に環境を整えられるので、大変そうに見えて、案外ラクだよ」
奥田も1度目の起業は結婚の後、そして出産直後に2度目の起業を経験している。
奥田のアドバイスが背中を押してくれたとはいえ、以前のように自分の時間を全て仕事に注げる訳ではない。アイデアや課題を思いついた時にすぐに手を動かせない。特に家にいる時には目の前に子どもがいる。「あれ、どうしよう」と思いつつ、お迎えに行き、ご飯を作らなくてはならない。子どもも生活も待ってはくれない。
「最初はその状態に悶々としてつらかったんですが、少しずついろんなアプリなどツールを使って、時間をうまく使うことを覚えてきました。そして苦しい時、今はその状態を話せるパートナーがいて、1人で抱えなくて済むので精神的に支えられています」
Yazawa Venturesのサイトには、「この国の『働く』の未来を変える、さまざまな分野のスタートアップをシードレベルから支援します」とある。そして「この国にもっと『働くよろこび』を」と続く。特に支援したい分野として挙げるのが、DX(デジタルトランスフォーメーション)や業務効率を含めて働く環境を変革するスタートアップや、それぞれの個人が多様な活躍をできるようテクノロジーで後押しするスタートアップだ。
矢澤自身には働いてきた中で味わってきた痛みがある。だからこそ、それぞれの人がそれぞれの環境の中で、働くことを楽しいと思える未来をつくりたいという想いに直結しているのだ。
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(文・浜田敬子、写真・伊藤圭)