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人工クモ糸を合成し繊維へと加工する技術で有名な国内ユニコーンのスパイバーに、ミドリムシからバイオ燃料を作るユーグレナ。
こういった注目の国内ベンチャーに共通している要素は、何だと思いますか?
これらの企業はみな「バイオ技術」を基盤技術としています。
実は今、このように産業の現場でも重宝されているバイオ技術に、新しい風が吹いています。
「バイオ技術が、人間の想像力のはるか先に行ってしまった」
こう話すのは、東京工業大学のゲノム科学者、相澤康則准教授です。
相澤准教授は、2019年にLogomixというベンチャー企業を設立し、CEOも務めています。
Logimixは2020年8月、日本初の産学連携合成生物プロジェクト「細菌ゲノムアーキテクトプロジェクト(BGAP)」を発足させました。このプロジェクトでは、自然界に存在し得ないゲノム構造を持った、産業現場で有用性の高い大腸菌株を作り出そうとしています。
ゲノムは、私たち人間をはじめとしたあらゆる生命の姿形を作り、生命機能を維持するための「設計図」のようなものです。
世界を見渡すと、ゲノム工学技術の革新を国際的に協調して加速させようという国際プロジェクトの「GP-write」や、酵母の全ゲノムを人工合成することを目指した「Sc2.0」など、「設計図」であるゲノムをこれまでにない規模で設計・合成するプロジェクトが進められています。
このように、ゲノムを構築する技術は「合成生物学」と呼ばれる研究分野に含まれています。近年、合成生物学は、産業応用の観点からも世界中で非常に注目されています。
「ゲノム合成」や「合成生物学」はバイオ技術に何を与え、未来にどんな可能性をもたらすのでしょうか。
7月の連載「サイエンス思考」では、GP-writeやSc2.0に中心的に参画している相澤准教授に話を聞きました。
バイオテクノロジー市場は200兆円規模へ
東工大学の相澤准教授。
撮影:三ツ村崇志
青カビがペニシリンを作ったり、ミドリムシがバイオ燃料の原料を作ったり、微生物は私たち人間にとって非常に役に立つ物質を製造することができます。とりわけ、冒頭で紹介した大腸菌は、プラスチックや薬、燃料など、さまざまな物質生産に活用される「産業微生物」です。
生物の細胞内では、DNAから情報(遺伝子)が読み取られることで、タンパク質が作られています。こういった無数のタンパク質を介して、細胞内ではさまざまな化学反応(代謝)が起こり、生命を維持しています。
ヒトにとって有益な物質も、この過程で生み出されているのです。
発酵食品が独特の味わいを生み出しているのも、微生物の代謝によって生み出された成分のおかげです。
味噌や醤油、酒など、発酵食品は微生物の力を利用して作られている。
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合成生物学では、多くの遺伝子を生物に組み込むことで、本来その生物が持ち得なかったタンパク質を作ったり、それによって新しい代謝のシステムを獲得させたりしようとしています。
「合成生物学のすごい点は、種の壁を越えてしまうことです。本来交配できない生物種の遺伝子たちを一つの細胞内で働かせることを目指すわけですから。その組み合わせによって無限にアウトプットが変わってくる」(相澤准教授)
組み込む遺伝子は、異種の生命体に存在しているものでも構いませんし、ヒトの手によって「デザイン」されたものでも構いません。
しかし、ゲノム配列を解読する技術が進歩した今日でも、人類が理解し産業活用できている遺伝子の数はごくわずかです。この先、ゲノムに関する理解が進めば進むほど、まるでパソコンにインストールするアプリケーションの数が増えていくように、DNAに組み込める機能が増えていくといえるのです。
アメリカや中国ではその期待度の高さからか、合成生物学的な手法をもとに研究開発を進めている企業に多額の資金も集まっています。
例えば、アメリカの合成生物学のパイオニアとして知られるギンコ・バイオワークスは、2021年5月に、総額175億ドルのSPAC(特別買収目的会社)との合併によって、ナスダックに上場することを発表しました。
ギンコ・バイオワークスは、バクテリアを活用して新たな抗生物質の開発などを進めています。
ザイマージェンでは、微生物の作成などが機械で自動に行われているという。この装置は、菌株の育成やテストを自動で行うためのもの。
提供:Zymergen
アメリカのザイマージェンでは、機械学習を活用して、遺伝子を組み替えた微生物に効率的にタンパク質や樹脂素材などを製造させる技術を持っています。ザイマージェンは、2016年にはソフトバンクグループの主導によって1億3000万ドルを調達、2019年には住友化学との提携を発表したことでも知られています。
「アメリカの合成生物学の大企業は、酵母や大腸菌などの汎用性微生物のゲノムに、いろいろな生物の遺伝子を載せることで、クライアントが望む化合物を微生物に合成させています」(相澤准教授)
日本国内では、遺伝子を組み替えた微生物を使いタンパク質を製造し、繊維へと加工する技術を持つ国内ユニコーンの「スパイバー(Spiber)」がよく知られています。
合成生物学をはじめ、バイオテクノロジーの活用は将来の産業を語る上ではもはや欠かせないものなのです。
OECDの試算によると、2030年には、バイオテクノロジーを活用する市場規模が、少なく見積もってもOECD加盟国の国内総生産(GDP)の2.7%となる約200兆円にまで拡大すると見込まれています。
バイオテクノロジーと生物情報を処理する手段としてITやAIが組み合わされることで、「第5次産業革命」とも呼ぶべき産業構造のパラダイムシフトが起こるのではないかとも期待されています。
「物質生産」は合成生物学の一面でしかない
世界と日本のバイオ技術市場の規模予測。
出典:バイオ小委員会 報告書
「ゲノムを変えるということは、細胞内の遺伝子ネットワークや代謝回路のランドスケープを変えるということです」(相澤准教授)
細胞内で生じる化学反応の触媒となる酵素に対する阻害剤を使ったり、RNAを分解する化合物を使ったりと、細胞の状態を変える手法はいくつかあります。しかし、どれも基本的には一時的に細胞に影響を与えるだけであり、時間が経てば元に戻ってしまいます。
一方、ゲノムを変えるということは、細胞機能の基本設計を変えるということです。
その結果、いったい何が実現できるのでしょうか。
2015年12月、ノーベル賞の授賞式に出席する屠呦呦博士。マラリアの治療薬の原料となるアルテミシニンを発見したことが評価された。
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成功した事例の1つとして、「マラリア」の治療薬への応用があります。
2015年、マラリアの治療薬の成分である「アルテミシニン」を発見したことが評価され、中国の屠呦呦(と・ゆうゆう)博士に、中国人女性初となるノーベル生理学・医学賞が授与されました。
この「アルテミシニン」という成分は、クソニンジンという植物に含まれる成分です。しかし、クソニンジンは供給が不安定で価格も乱高下する問題を抱えていました。
そこで役に立ったのが、合成生物学的な手法でした。
微生物の一種である「酵母」に、クソニンジンの遺伝子を導入することで、酵母の代謝経路を改変。アルテミシニンの原料を効率よく、安定的に入手できるようになったのです。
2006年にこの酵母が実現すると、2014年にはイタリアの製薬メーカー・サノフィによって商業応用されました。ただしその後、中国を中心にクソニンジンの供給が増えて価格が下落。サノフィは酵母を使ったアルテミシニンの製造工場を売却することになりました。
マラリアの治療薬の成分である「アルテミシニン」の原料となるクソニンジン。
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また、相澤准教授は、
「現在の合成生物産業は、『微生物を使った物質生産』が主流だと考えられがちですが、より複雑な生物種への応用も少しずつ始まっています。これにより現時点ではバイオの範疇外だと考えられている分野も、近い将来合成生物技術の恩恵を受けるようになるでしょう」
と、実現できることは幅広いと指摘します。
アメリカのバイオベンチャー、イージェネシスバイオでは、ブタのDNA上に存在する免疫拒絶反応などに関わる遺伝子をヒトの遺伝子に置き換えた「ヒト化ブタ」の研究開発を進めています。
もともとブタの臓器は、ヒトの臓器によく似ていることが知られています。
イージェネシスバイオの研究がうまくいけば、免疫拒絶反応に関わる遺伝子を置き換えたブタの臓器をヒトに移植する未来が意外に早く来る可能性があります。
この研究は大きな倫理的な問題をはらんでいるため、実現に向けてさまざまな議論が必要であることは言うまでもありません。しかし、臓器移植を実現できずに、命の危機が及んでいる人がアメリカだけでも11万人以上いることを考えると、現状を打破する手段として期待されていることも確かです。
このように、異なる生物種の遺伝子をインストールすることで、これまでのものづくりの範疇を超えた新しい価値の創造が始まっているのです。
ゲノム編集が合成生物学を加速させた
2020年にノーベル化学賞を受賞した、エマニュエル・シャルパンティエ博士(左)と、ジェニファー・ダウドナ博士。
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経済産業省の資料によると、合成生物学が急速に進歩したきっかけは、「1.近年進んだゲノム解析の高速化・低コスト化」「2.ゲノム編集技術の登場」「3.IT/AI技術の発展による、ゲノム配列と生物機能の関係の解明の高速・最適化」という3つの要素が揃ったためだと考えられています。
とりわけ、2020年にカリフォルニア大学バークレー校のジェニファー・ダウドナ博士と、ドイツ・マックスプランク研究所のエマニュエル・シャルパンティエ博士がノーベル化学賞を授与されたことで知られる「ゲノム編集」は、合成生物学の発展に大きな役割を果たしています。
ゲノム編集は、DNAの好きな場所を正確に破壊したり、正確に用意したDNAを挿入したりすることができる技術として、生命科学の発展に大きく寄与してきました。
ゲノムを解読する技術が出てきたからこそ、ブラックボックスだった生物のソースコード(遺伝子)が見えるようになりました。
そして、ゲノム編集技術によって、その一部を変えてどんな機能を持っているのか、仕組みを理解できるようになったのです。
合成生物学では、こうして理解してきたソースコード(遺伝子)を組み合わせることで、まったく新しい機能を持つプログラムを組み上げようとしているのです。
「バイオファースト思考」を獲得せよ
ゲノム編集のイメージ。高い精度でDNAの狙った場所を改変することができるようになったことで、ゲノムに対する理解が大きく進んだ。
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相澤准教授は
「合成生物学が30年後に生み出している価値を100とすると、現時点で見えている合成生物の恩恵はおそらく1未満ではないか」
と想像しています。
「どの細胞に、どの生物種の遺伝子をいくつ組み合わせるか」
合成生物的方法が取り得る選択肢の数は無限と言っても差し支えないでしょう。
その無限にある選択肢を、世界に存在している多種多様な課題の解決のためにどのように活用するのか。現状では、まだ私たちの想像力や空想力が足りず、テクノロジーが持つ潜在能力を活かしきれているとはいえません。
相澤准教授は、
「合成生物学は、アイデア次第で、新しい価値を量産する可能性に満ちている」
と話します。
自身の企業であるLogomixは、クライアントの課題を解決できる合成生物的方法のアイデア提案と技術提供に携わっているといいます。
「一見バイオには全く関係ないと思われる課題でも、まずバイオテクノロジーでソリューションを考える」
この考え方は「バイオファースト発想」と呼ばれ、内閣府主導で2019年に始まっているバイオ戦略で推奨されています。
「ディープテック」のポテンシャル
地球上に存在する菌の数は膨大だ。また技術の発展によって、菌だけではなく、もっと複雑な生物種にも活用の幅が広がるかもしれない。
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「あらゆる生物種のゲノムに対するエンジニアリング基盤技術をしっかり作っておくことが、未来における研究開発の自由度を高めると思っています」(相澤准教授)
「バイオファースト発想」といっても、現時点では、設計通りにゲノムを改変できるほどゲノム工学技術は成熟していません。
特に動植物のように長く複雑な構造を持つゲノムを、ゲノム編集技術だけで別の生物種のゲノムに組み込み、その機能を発現(異種発現)させることは難しいのです。
「異種発現する原理・原則はまだ確立されていません。長い産業利用の歴史がある大腸菌で異種発現させるにも、未だに多くの試行錯誤が必要になります」(相澤准教授)
いずれにしろ、合成生物学はまだまだ基礎研究のやりようがある分野であることは間違いありません。
その積み重ねによっては、極限環境で生存している非常に特殊な微生物や、動植物のような複雑な生物システムからも、合成生物は恩恵を受けられるようになるでしょう。
「人類は産業の発展のために資源を消費し、地球を大いに疲弊させてきました。しかし今は、そこから転換し、持続可能な社会を作らなければならない時代です。
ゲノムを理解することで、合成生物によって地球環境に優しい産業の礎をつくることも可能です」(相澤准教授)
ディープテック(研究開発が必要な技術)としての課題が解決し、どんな細胞システムでも自由に改変できるようになったとき、合成生物学で実現できる選択肢の幅は、さらに拡がっているはずです。
(文・三ツ村崇志)