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「日本人は政府に文句を言いながら、政府が何かしてくれるのをじっと待っている。中国人はそもそも政府をあてにしていないから、自分たちで判断して行動する」
2020年春から夏にかけて、日中両国でビジネスをする日本人から何度も聞いた言葉だ。コロナ禍に直面した中国は強権的な封じ込めに動き、同国でビジネスをする日本人は目まぐるしく変わる政策に今も振り回されている。
それでも、PCR検査の拡大、ワクチン、そして東京五輪の対応など、全てが後手に回ってしまった日本に比べると、非常時の対応力は中国の方が上だと考える声が多い。ただ、コロナ禍が想定以上に長引くうちに、「決定には従う」「とりあえず様子を見る」という日本人のマインドも、確実に変容しているように見える。
事前調整の日本、事後調整の中国
今年5月の労働節で、旅行に出かける中国人。杭州市で撮影。
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日本語と中国語は同じ漢字文化で、多くの単語を共有しているが、意味が違ったり、あるいはニュアンスが異なることがよくある。中でも「国民性を反映している」と感じるのが、「調整」という言葉だ。
日本語で「調整」は、「事前調整」を指す場合が多い。「勤務のシフトを調整する」「日程を調整する」などなど。
中国語の「調整」は「事後調整」で、何なら「それって丸々やり直しですよね」という時も、中国人は涼しい顔をして「調整」と表現する。経済ニュースでは、日本企業なら「改革」と使うであろう場面でも「戦略調整」「組織調整」となる。中国にとって調整は、走り出して問題が起きてから行うものなのだ。
中国で6年過ごした私が体験した「調整」も、数え上げればキリがない。以下は留学生のころ経験したほんの一例だ。
- 新学期1回目の講義に担当教授が来ない。30~40分経ったころ事務室から「この時間帯だと教授の都合がつかないから、時間割を調整します」と連絡が入った。半月もすると1週間の講義スケジュールの半分ほどが変わってしまった。
- 大学で終業式とバレーボール大会が重なっていたため、事務職員が留学生寮から出てくる学生を待ち伏せし、終業式に向かう学生の一部を問答無用でバレーボールコートに連れて行った。
日本人からすれば、何で事前に調整できないのか不思議でならない。毎回出たとこ勝負になるので、手帳に記入してもしょうがないし、誰も手帳につけないから、こういうことが起きる。当然イベントではドタキャンが大量発生する(ドタキャンという概念すらないかもしれない)。
当日参加も同じくらい多い。日本のある大学が中国で留学説明会を開いた際には2人しか申し込みがなかったのに、当日60人がやってきた。几帳面な日本人にはストレスこの上なく、実際、半年から1年怒りっぱなしで中国を嫌いになって帰国する日本人はまあまあいる。
戦わないと「損をする」中国
2021年6月15日に行われた武漢市の華中科技大学の卒業式。感染がほぼ収束している中国では、コロナ前の生活に戻っている。
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コロナ禍は日中の「調整」の違いが如実に出た。感染が最初に拡大した武漢のロックダウンは即日断行だった。今では世界のスタンダードになっている入国者の2週間隔離は、イタリアからの感染逆流を恐れた地方都市が独断で始めた。
上海に駐在する日本人男性は昨年春、現地の感染が収まってきたことを受け、一時帰国していた日本から中国に移動した。だが、飛行機に乗っている間に政府が「2時間後に隔離政策を強化する」と発表し、上海の空港に到着するとそのままホテルに連れて行かれ、家族で2週間隔離となった。
各国でロックダウンのドミノが起きていた頃、「日本は法的にロックダウンや隔離の強制はできない。中国は独裁政権だからそれが可能なのだ」とよく言われた。たしかにそれも一つの理由だが、仮に日本が法的にロックダウンが可能だったとしても、根回しや意思決定に大変な時間がかかり、その間に政治家の問題発言も発覚したりして別の混乱が生じ、時機を逸してしまうのではないか。
中国が十分に準備せず、極端な対策を取れたのは「選挙のない独裁政権」というのもあるが、国全体が平時でも無秩序かつ朝令暮改で、「うまく行かなければ後から見直す」という割り切りがベースにあるのも大きかった。
言い換えれば、中国では不具合が発生してからが交渉の始まりになる。声を上げないと捨て置かれるし、何も言わないのは自ら損を選択するようなものだ。
空港のカウンターで時折、遅延のアナウンスに対し乗客が束になって抗議をしている光景を見かけるが、文句を言っている人の多さに比例して、弁当に飲み物がついてきたり、補償がグレードアップするので、やっぱり「言わないと損」という思考になる。
待ってても変わらない。ダメ元でも交渉しないと(日本人にはごねているようにしか見えないかもしれないが)、何も得られないのだ。
「我慢すればいつか報われる」刷り込み
「短期集中」で感染を抑え込むはずの緊急事態宣言が繰り返され、東京は第5波の中で五輪を迎えている(2020年11月撮影)。
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対して日本では、クレームどころか、意見を言うことが「秩序を乱す」と受け取られかねない風潮がある。
5年前に中国から帰国し、久々に日本人だけの会議に出た。発言しているのはトップと中国帰りの私と、米企業勤めが長い3人だけだった。
知り合いの公立高校教師からは、「職員会議は教員が意見を言う場ではない。決まったことを承認する場で、若手が発言するのは相当な勇気がいる」と聞いた。
背景を分析すると、「沈黙は金、雄弁は銀」ということわざだったり、「秩序やルールを守る」ことの優先度の高さ、さらには「裏で相当根回しが進んでいて、会議が形骸化している」「方向性が決まった後は、変えることが極めて難しい」という日本特有の文化が見えてくる。
理不尽な目に遭っても「今は耐えなさい」「我慢すればいつか報われる」的な諭され方をすることもよくある。意見を言うことにリスクがある社会だからこそ、匿名のパワーが肥大するのかもしれない。
ただ、非常事態が想定以上に長期化し、当初は待ちの姿勢が目立っていた日本人も「『上』をあてにせず、自分で動く」方向にマインドチェンジしているように見える。
ルールや秩序は人々が公平、平和に暮らすためのインフラであるとの共通理解があるから、日本人はそれに従ってきたし、その自制心の高さは国際的にも賞賛されてきた。ただ、ルールを政治家が守っていなかったり、ルールが目的を見失っていたり、あるいは入念に準備されたと思っていたのが実は丸投げの寄せ集めでつくられていたり。とにかく、インフラであるルールが実はかなりの部分でザルであることが、感染症対策や五輪を巡るあれこれで、図らずも周知されてしまった。コロナ禍はパンドラの箱を開けたのだ。
緊急事態宣言でも酒を提供する飲食店、4連休に旅行に出かける消費者。1年前だったら袋叩きだっただろうが、「上」の言うことに従っていても皆が救われる状況にはなっていない現状に、「個々で最適解を見出すしかない」雰囲気が広がっている。
意見を言うことに勇気がいる日本社会
「五輪が始まり日本人選手が活躍すれば、反対論も下火になる」という声もある。
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それでも、日本でルールや決定を「事後調整」するハードルは相変わらず高いし、正面から物申すことですらリスクを伴う。中国に比べると意見表明、自由な発言が許され、SNSでは「表現の自由」の大義名分を掲げた誹謗中傷が飛び交うのにだ。
高校野球の鳥取県予選で、学校関係者に感染者が出た米子松陰高が、出場辞退を余儀なくされた(大会側が出場を拒否したのに、「辞退」という体をとらせるのも全く日本的だ)。納得できなかった主将がTwitterで「何とかならないか」と声を上げたことで、橋下徹元大阪府知事らが反応し、鳥取県高野連が当初方針を見直すことになった。
主将の行動を、報道やSNSは「勇気」と評価した。本人も取材に対し、不安や怖さがあったと語っている。ルールに現実を想定していない部分があり、かつ、あの方法をとらなければ救済されない状況だったのに、日本ではリスクへの懸念が先に立つ。
もし主将がTwitterで訴えるやり方を、事前に周囲の大人に相談していたら、きっと反対されていただろう。ルールの見直しを訴えるにもSNSを使わないと届かないこと、筋の通った意見を実名で言うのに勇気が必要なこと。どちらも日本という国や国民性の一端が浮き出ている。
中国の共産主義、社会主義は形骸化しており、実際には不公平と恣意性に満ちた社会であることを、皆が知っている。ルールがいつ変わるか分からないし、むしろルールができる前にいろいろ試しておこう、儲けてしまおうと臨機応変に動く。
そんな中国人に接していると、(これまで美徳とされてきた)波風を立てないことを優先する、全体のために我慢する日本の国民性が、非常時にフリーズし、後手後手に回る政府を許容する結果につながっているのではないかと思うことがあった。
行政の要請を無視して酒を提供する飲食店や、高野連の決定に納得できずSNSで訴える高校球児に理解が広がっているのは、国民が「理不尽には殴り返すことも必要」と認識し始めたからだろう。お上の面々は方針転換が苦手なままだが、一国民レベルで「自分で判断する」「堂々と反論する」動きが起き始めたのは、日本がグローバル社会で戦う上で、長期的にはプラスになるように感じる。
浦上早苗: 経済ジャーナリスト、法政大学MBA実務家講師、英語・中国語翻訳者。早稲田大学政治経済学部卒。西日本新聞社(12年半)を経て、中国・大連に国費博士留学(経営学)および少数民族向けの大学で講師のため6年滞在。最新刊「新型コロナ VS 中国14億人」。未婚の母歴13年、42歳にして子連れ初婚。