撮影:柳原久子
自分らしいキャリアを築いている人は、「自分に向いている仕事」をどうやって見つけたのだろうか。「私は生まれたときからデザイナー」と語るのは、メイド・イン・ジャパンとエシカルにこだわるバッグブランド「FUMIKODA(フミコダ)」クリエイティブディレクターの幸田フミさん。インターネットの黎明期、ニューヨークのウェブデザイナーとしてキャリアをスタートした幸田さんが、「女性のための究極のバッグ」を作るまでの波乱のストーリーを振り返った。
FUMIKODA 代表取締役CEO / クリエイティブディレクターウェブコンサルタント、デザイナー、著者。NYパーソンズ大学卒業後、現地のマーケティング会社に勤務し、大手ブランドのウェブサイト構築などを手がけた。帰国後ウェブコンサルティング会社ブープランを創業。IT活用のアドバイスや講演、執筆を行う。近著『はじめてのIoTプロジェクトの教科書』。NPO BLUE FOR JAPANを通して全国の児童養護施設に入所する児童の就労支援を行なっている。2016年に日本製、アニマルフリーの女性用ビジネスバッグブランド「FUMIKODA」を立ち上げ、クリエイティブディレクターをつとめる。
「女性のための究極のバッグ」を作りたい
撮影:柳原久子
「FUMIKODA」のクリエイティブディレクター業務と並行し、2003年に立ち上げたウェブマーケティング会社「ブープラン」の社長もつとめる幸田フミさん。「働く女性にとって、バッグは堂々としているために大事なアイテム」だと話す。
軽くてノートPCと書類がしっかり入り、雨にも強い。直立するから床にスマートに置くことができる。デザインはあくまでエレガントで、会食やレセプションの席にもふさわしい──。
そんなバッグブランド「FUMIKODA」を作ったのは、幸田さん自身のニーズを満たすバッグが見つからなかったからだ。
若いときはブランドのバッグが大好きでしたが、キャリアを重ねるとブランドの色が邪魔になることもある。ハイクオリティだけれどブランド色が薄く、機能的なバッグが欲しかった。ないなら自分で作ってみようと。
FUMIKODAは、動物性素材を一切使用しないヴィーガンブランドでもある。なめらかな質感にこだわった国産のエシカルレザーは雨にも強く、耐久性も抜群だ。
大量生産され、環境に負荷がかかる素材は「持っていても心地がよくない」。そんな幸田さんのシンプルな感覚から生まれた素材へのこだわり。残り生地をつかったアップサイクルコレクションなど、サスティナブルな取り組みにも力を入れている。
起業のきっかけは離婚と子育て
撮影:柳原久子
バッグのデザイナーとしては一風変わった経歴をもつ幸田さん。「早めに結婚して幸せになってほしい」という両親の希望に疑問を感じ、手に職をつけようと理系で5年制の高専に進学した。しかしアートやデザインを学びたい思いが強く、18歳で退学。ニューヨークのパーソンズ大学に留学した。
1996年にパーソンズを卒業後、現地のファッションマーケティング会社でグラフィックデザイナーとして就職し、ウェブ制作を担当した。当時はインターネットの黎明期で、「ウェブデザイナー」という職種さえなかったと振り返る。
そこで大手ファッションブランドの初代ウェブサイト制作などを手がけながら2年勤め、日本に帰ってきました。帰国後に結婚して出産したのですが、すぐに離婚することになって。それがきっかけとなり、ブープランという自分の会社を立ち上げました
撮影:柳原久子
当時のIT業界にはリモートワークという概念もなく、終電まで働くのが当たり前。家で子育てをしながら仕事も……となると起業しか思いつかず、失敗を恐れる余裕もなかったと笑う。
会社が育つほど募る不安
そんな幸田さんが、バッグブランド「FUMIKODA」をスタートしたのは5年前のことだ。ウェブの仕事は順調で、会社の規模も大きくなってきていた。しかし社長業が忙しくなるほど、不安が大きくなっていったという。
幼い頃から絵を描くことやデザインが好きで、それを仕事にしたいと思ってきた。でも、会社が育つと自分でデザインする余裕はなくなる。気づいたら営業やプレゼンがメインで、ずっとジレンマを感じていたんです。
そんなとき、幸田さんの心に火をつけたのがバッグだ。自分としては筋道が通っていたけれど、経営者の先輩たちからは「何を今さら、ものづくりなんて」と心配された。ビジネスとしては一番キャッシュフローが悪い仕事だったからだ。
「常識が通用しない」世界に飛び込む
撮影:柳原久子
なかなか決心できず、FUMIKODAを始めるまで2年ほどかかりました。一番難しかったのは、ものづくりの世界に入り、それまでの当たり前が当たり前でなくなったこと
キャリアを積むと「自分の当たり前」が正しくなっていく感覚があり、自分を疑うことが少なくなると幸田さん。しかし異なる業界へと足を踏み入れたことで、幸田さんは「これまでの常識がすべて通用しなくなる」という体験をした。
そのひとつが熟練の職人とのやり取りだ。デジタルの世界では、いいものを作るために叩き台を作ってはブラッシュアップする作業が一般的。しかしその感覚で、自分のこだわりを伝えたいと何度も試作の修正を求めたところ、「ちょっとついていけないよ」と反発されてしまった。
ものづくりの世界では今もFAXが使われているなど、コミュニケーションのしかたがIT業界とは違います。世の中には色々な仕事があり、常識がある。ダイバーシティを味わったというか、まずは自分の常識を捨てなければ、その世界に受け容れてもらえない。
今はちゃんと主張をしつつ、協力してこだわりを実現する関係性を築けていると幸田さん。大切にしているのは、FUMIKODAを愛用してくれるお客様や著名人からの嬉しい反応を、そのつど作り手に伝えること。FUMIKODAのバッグに誇りをもってもらえるように、ていねいなコミュニケーションを心がけている。
「生まれたときからデザイナー」自分のミッションを見失わないために
撮影:柳原久子
私は生まれたときからデザイナーだと思っているんです。FUMIKODAを始めて、ずっと苦しかったのがようやく普通に息ができるようになった
留学を決めたときも、FUMIKODAを作ったときも、幸田さんには迷いがなかった。それは、自分が生まれてきた意味に対する確信めいたものがあったからだ。
私のミッションは、デザインで悩みを解決し、社会に貢献すること。それをしていれば自分も満足だし、まわりにも喜んでもらえる。ずっとそう感じていて、それは間違っていなかったと今も思っているんです
幸田さんのように、自分のミッションを見つけるためにはどうしたらよいのだろうか。
私自身も20代の頃は全然わかりませんでしたが、40代前後になると自分が何をすると褒められるのか、ありがとうと言われるのか分かってくるはずです。好きなことよりは、得意なこと。それ以外がミッションになることはあまりないと思うし、ミッションを外れそうになると、私の場合は物事がうまくいかなくなりました。
不得手を克服するよりも、自分が持って生まれた能力を活かしたほうがいい。それは神様が与えてくれたものだから、ちゃんと使わないとバチがあたります(笑)。仕事をしているとつらいこともあるけれど、自分のミッションとつながっていれば、成長のための学びと捉えることができる
コロナ禍でリモートワークが増えたこともあり、月に1度、海辺に小旅行することを習慣にしているという。FUMIKODAのバッグに最小限の荷物を入れた一人旅。特においしいものを食べるわけでもなく、ただ何時間も海を眺めて過ごす。
自分自身がブレないように、自分に嘘をつけない自分になるために。それが何よりも贅沢で、大切な時間だと教えてくれた。
撮影:柳原久子
MASHING UPより転載(2021年7月9日公開)
(文・田邉愛理)
田邉愛理:ライター。学習院大学卒業後、センチュリーミュージアム学芸員、美術展音声ガイドの制作を経て独立。40代を迎えてヘルスケアとソーシャルグッドの重要性に目覚め、ライフスタイル、アート、SDGsの取り組みなど幅広いジャンルでインタビュー記事や書籍の紹介などを手がける。