撮影:今村拓馬
NPO法人Learning for All(LFA)代表理事、李炯植(30)の「あらゆる子に力があり、環境さえ整えれば伸びる」という考え方の土台は、子ども時代の経験によって培われた。
裕福な北側、暴力と貧しさはびこる南側
李の小学校の学区の「北側」は裕福な家庭が多い住宅地があり、李が住んでいた「南側」には団地が広がっていた(画像はイメージです)。
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李は兵庫県尼崎市生まれ。両親と2人の兄弟、障がいのある祖母と、10歳くらいまで市営住宅で暮らしていた。当時は父親の仕事が安定せず、薬剤師の母は毎朝4時半起きで、今でいう「ワンオペ育児」をしながらフルタイムで働いた。
李の小学校の学区は、幹線道路を境として北側に裕福な家庭の多い住宅地があり、南側に李らの住む団地が広がっていた。学校で配られる低所得世帯向けの就学援助の書類を、クラスの約半分が受け取り、そのほとんどは団地の子だった。「北」の親たちがわが子に「あの団地の子らと、遊んだらあかんで」と言い聞かせることもあったという。
李は「南と北では、遊びの質も全く違った」と振り返る。「北」の子の家では、最新のゲームソフトに興じ、団地に戻れば仲間と田んぼを荒らしたり、通行人にいたずらしたり。近所には、昼間からホームレスや酔っ払いが歩いていたし、同級生は始終「親に殴られた」と話していた。遊びに行った友だちの家に、離婚した前夫が乗り込んできて、母親と大喧嘩になっても、驚きもしなかった。
「暴力も貧しさも普通に周りにあったので、そういうものだと思っていた。子どもなのに、空気を読んで立ち回ることばかりうまくなって『どこの家庭も、いろいろあるやん?』と変に達観していましたね」
団地の友だちは勉強が不得手でも、野球がうまい、足が速い、優しい、そして関西の最強アイテムである「めっちゃおもろい」など、いいところをたくさん持っていた。
「裕福なご家庭でまじめに生きて手癖の良い子が上で、そうじゃない子は下、とは思えなかった」
李にも障がいを持つ祖母がいた。忙しい母に代わって祖母の介助や食事の用意を手伝うのは子どもたちの仕事だ。祖母が美空ひばりのテレビ番組を楽しそうに見ている姿に、「障がいがあっても、ちっともかわいそうじゃない」とも感じていた。
しんどい子が取り残されないクラス運営
小学生時代の李。学力が高く、当時の担任に「東大にも行ける」と言われるほどだった。
提供:李炯植
李自身は学力が高く、小学校6年生の時には担任に「東大にも行ける」と言われるほどだった。それでも「勉強ができない」子への差別意識を持たずにいられたのは「周りにいろんな事情を抱える家庭があったことに加えて、担任の先生の影響が大きい」という。
この教師は、李の班に必ず勉強の苦手な子を何人か入れ、分からない時は李が教えるように仕向けた。体育も同じように、得意な子が苦手な子を助ける仕組みをつくり、「しんどい子が取り残されないクラス運営をしていた」(李)。
中には李が今思えば、学習障がい(LD)だったのでは、と思うような子もいた。しかし彼らに勉強を教えているうちに、「最初どれだけできなくても、必ずその子なりに分かるようになるんやな」と、納得するようになった。
学習支援の拠点にも、九九を覚えられない子、漢字を読むのがとても苦手な子らが訪れる。彼らに「あの時のあいつやな」と、同級生を重ね合わせることもしばしばだ。
李は、拠点でそんな子どもたちに会うと、教科書全てにルビを振り、何度なくされても九九の紙を渡す。そうしていると、ゆっくりとではあるが彼らは教科書を読めるように、九九を言えるようになる。
「時間と手間さえかければ、どんな子でも学力を伸ばせます。それが分かってから、クラスでも自分だけできて他の子が取り残されていると『気持ち悪いな』と思うようになりました」
「勉強ができたか」でここまで選択肢が変わるのか
高1で参加した同窓会。団地に住んでいた同級生たちと、私立の学校に通う自分との違いに衝撃を受けた。
撮影:今村拓馬
李は小学校を卒業すると、恩師の勧めで、私立の中高一貫校に進学した。このころには父親の仕事も安定し、一家の生活も少し楽になった。
李によれば、進学した学校は偏差値も教師の教え方もそこそこで、「筋トレのように勉強させるだけ」ではあったが、勉強し遊びにも行って、という一般的な中高生の暮らしを送るようになった。
高1で小学校の同窓会に参加すると、子どものころ団地で同じように暮らしていたはずの同級生たちと自分の境遇が、大きく隔たってしまったことを知る。
けんかで高校を中退して大工になった子、妊娠中からシングルマザーになることが確定している子……。
李と彼らの違いは「勉強ができたかどうか」だけ。しかしそのことが、どれだけ自分の選択肢を広げ、また彼らの選択肢を狭めてしまったかに、衝撃を受けた。
このころ、李はひどいアトピーに悩まされていた。毎日、皮が手のひら一杯分も剥がれ落ち、風呂に入るのもしみて痛い。夜もかゆくてほとんど眠れない。
「なんでこんな状態で、勉強せなあかんのかと思った」
お風呂に気持ちよく入ってぐっすり眠りたい、そんなベーシックな生活欲求さえ満たされれば、「上の大学に行きたい、なんていう欲を持たず、雲を見ながら生きていたって、いいのにな」とすら、このころは思っていたという。それでも「自分で決めたことをやらないのは、逃げてることだと思ったし、やるべきことはやる」という性格から、勉強は続けていた。
1年ほど経ちアトピーが落ち着くと、勉強や進学はベーシックな生活の上に乗っている「ゲーム」としか思えなくなっていた。体調も回復したし、ゲームなら行けるところまで行ってみよう。てっぺんである「東大」に行こう!
最初は模試を受けても「E判定」。しかしゲームを攻略するように綿密な受験対策を立て、「捨て身の猛勉強」に入る。小学校時代の恩師に紹介してもらった塾で、飛躍的に学力が伸びたことも幸いし、東大に現役入学を果たした。
同級生たちの「バカだから仕方ない」に怒り
周りの学友との圧倒的な違いを感じ、無気力だった大学生活。ボランティアで子どもたちの中に「あの時のあいつら」を見つけ、のめり込んでいく。
提供:李炯植
東大に入ったものの、周囲の学生たちは、李や地元の友人たちとはあまりにも違う世界に住んでいた。
東大の学生生活実態調査によると、東大生のいる家庭は、6割以上が世帯年収950万円を超える。李の周りにも、帰国子女や豪邸のような家に住む人がごろごろいた。
彼らももちろん、東大に入るため努力はしてきただろう。しかし、衣食住に勉強部屋、パソコンやタブレットPCに学習塾といった環境が保証された人生自体、大きなアドバンデージであることに、気づいている学生は少なかった。
アドバンテージどころか、マイナスからスタートした地元の友人たちは、相変わらずお金がなくて進学を諦めたり、借金を抱えたりと苦労を重ねていた。しかしこうした話をしても、大学の同級生たちは「バカだから仕方ない」と口々に言うばかりだ。
うつうつと無気力な大学生活を送っていた李は、先輩の誘いで学習支援のボランティアを始めた。貧困や学習障がいなどの生きづらさを抱えても、懸命に上を向こうとする子どもたちの姿が「あの時のあいつら」に重なった。
「あいつらもこの子たちも、バカでも人生を怠けているわけでもない」
持って行き場のない怒りをぶつけるように、李は活動にのめり込んでいく。
李は自己責任論が台頭する中、「バカだから仕方ない」という考え方は、今も社会に根を張っていると考える。
「経済成長が鈍化する中、勝ち組の椅子は減る一方です。学歴が高い人ほど『大学を出てメガベンチャーかコンサルティング会社へ就職』といった椅子取りゲームに必死で、貧困層の存在など、視野にも入らない。それだけ社会の分断は、加速しているのではないでしょうか」
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(文・有馬知子、写真・今村拓馬)
有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。