撮影:伊藤圭
日本国内で1200社以上の企業が仮想オフィスとして利用している「oVice」。創業者でCEOのジョン・セーヒョン(29)は1991年、グリーンベルトと呼ばれるソウル郊外の開発制限区域で生まれた。建設業を営む父は、好況下の大規模開発事業で忙しく、あまり家に帰って来なかった。母も仕事をしており、ジョンは学校から帰宅すると、誰もいない自宅を出て近くの山や川で遊ぶ日々を送っていた。
自然児だったジョンが“文明”と出合ったのは、ソウル市内に引っ越した中学生の時だ。
「パソコンという素晴らしい文明を知り、オンラインゲームにはまり込んだ。学校が終わったら寝るまでゲームをしていた」
頭を痛めた両親は、ジョンに海外留学を持ちかけた。母はゲームの問題だけでなく、「韓国の教育システムに合わないのでは」と思っていたようだった。
韓国は受験戦争がし烈で、小学生の頃から夜遅くまで塾に通う生活が一般化している。だがジョンはゲームに没頭し、それ以外の時間もジャグリングやスポーツなど、自分の興味のままに動いていた。
両親は当初、親戚が住むカナダへの留学を勧めていたが、ジョンが関心を示さないとオーストラリアを提案し、同意を取り付けた。
そうして中学3年の夏休み、ジョンはシドニーに渡り、語学学校での勉強を経て現地の私立中学に転入した。
半年で日本語の日常会話を習得
高校時代のジョンは、当初あまり真面目な方ではなかったという。
提供:oVice
ジョンのオーストラリア生活は3年ほどだったが、ターニングポイントをいくつも経験している。
高校に進学して少し経ったころ、クラスに日本人が転入してきた。聞けば両親の駐在についてきたそうで、英語は得意ではなかった。
「英語が全然しゃべれないから、『じゃあ俺が日本語を覚えた方が早いね』ってなって、教室でも登下校のバスでも『宿題やった?』とか、友達の言っていることを真似しているうちに、半年ほどで日本語の日常会話が分かるようになった」
留学先のカリキュラムには日本語の授業もあり、ある程度話せるようになった後は読み書きも勉強し始めた。
ジョンは子ども時代、ドラえもんの漫画が好きで、将来はドラえもんのようなロボットを作りたいと考えていた。
ドラえもん、友達との会話をきっかけに、遊びの延長で身に着けたジョンの日本語は「流暢」の域を超え「自在」だ。その自在さが、彼のキャリアを方向づけてもいった。
口座の残高に起きた「異変」
高校は学費が年に1000万円かかるような「金持ち学校」だったという。
提供:oVice
ジョンが通っていたのは富裕層の子女向けの高校で、生徒の大半は留学生だった。その高校を、卒業まであと数カ月というところで辞めた。それはジョンにとって今に至るまで最大の事件であり、自立への一歩でもあった。
留学当初、飛行機はファーストクラス、ホテルはスイートルーム、そして生活費の口座には常に数千万円が入っていた。ジョンは「学費が年に1000万円かかるような高校だったし、自分も周囲もぼんぼんばかりだった」と回想する。
だが高校2年生になると、口座の残高が目に見えて減っていった。何かがおかしいと気づいたジョンは、母や父の仕事関係者に家庭の事情を聞いた。
時は2009年。ジョンの父は派手な開発プロジェクトをいくつも手掛けていた。オーストラリアでロケット発射台を建設する構想にも関わっていた。そこにリーマン・ショックが世界を直撃し、韓国経済も例外なく巻き込まれた。建設・不動産業界は総崩れで、父のビジネスは瞬く間に行き詰まった。
状況を知ったジョンは、そこから人が変わったように勉強に打ち込んだ。「自分に何ができるのか」と自問自答した結果、高校生の自分にできるものは勉強以外に思いつかなった。
健康を心配した教師に教科書を取り上げられるほど勉強し、後ろから数えた方が早かった成績は、学年でトップクラスになった。その間にも家庭の経済状況は悪化し、ジョンは自分の判断で退学した。
「親には『あと少しだから頑張れ』と言われたけど、金持ち学校に通っている状況じゃないことは、明らかだった。高卒認定を取って大学進学を目指せばいいやと考えた」
2009年、ジョンは韓国に戻り大学入試の勉強を始めた。
東大・東工大受験するも失敗…起業へ
高校3年で東大・東工大を受験するも、あえなく失敗。翌月から日本に行く計画も立ち消えになった。
撮影:今村拓馬
オーストラリアでは学校の勉強をしながら、進学の情報も集めていた。
ドラえもんのようなロボットをつくりたいという夢は変わっておらず、アメリカ、イギリスの大学と比較した上で、最終的に日本の大学に進学する目標を固めた。日本語ができることとドラえもんが、ジョンの選択に少なからず影響を及ぼした。
日本にどんな大学があるかはあまり調べることもなく、ランキングと知名度から東京大学と東京工業大学を受験した。
最初に受けた東大は落ちた。そして東工大の合格発表の日、ジョンは友人と旅行に行くためバスターミナルにいた。
「東工大は滑り止めの気持ちで受けていたので、日本に行く前に韓国旅行をしようかなと。で、バスターミナルからネットで合否をチェックした」
結果は不合格だった。
予想していなかった結果に衝撃を受けたジョンは、旅行を取りやめて家に戻った。翌月には日本に行くはずが、全部白紙になった。
「とにかく何かやらなきゃと考えたけど、落ちたショックでもう大学は受けたくなかった」
1日考えて、ジョンは起業することに決めた。
経営者の子女が多かったからか、留学した高校は経営学と語学の授業が充実していた。中でもチームをつくって競い合う経営シミュレーションゲームはとても面白かった。
「商品を仕入れて、在庫を管理して、会計を学んでというような本格的な内容で、経営を身近に感じるようになった」
韓国では未成年が個人事業主として登録するには保護者の同意が必要なので、母に頼んだら、驚かれ、反対された。しかし他にやりたいこともなく、ジョンも引き下がれない。結局「一段落したら大学に進学する」約束で、起業を認めてもらった。
人脈、経験、資金のどれも不足しているジョンが選んだのは、歴史が浅く、かつ成長真っ只中にあった越境ECビジネスだった。
(▼敬称略・続きはこちら)
(▼第1回はこちら)
(文・浦上早苗、写真・伊藤圭)
浦上早苗: 経済ジャーナリスト、法政大学MBA実務家講師、英語・中国語翻訳者。早稲田大学政治経済学部卒。西日本新聞社(12年半)を経て、中国・大連に国費博士留学(経営学)および少数民族向けの大学で講師のため6年滞在。最新刊「新型コロナ VS 中国14億人」。未婚の母歴13年、42歳にして子連れ初婚。