撮影:伊藤圭
東京大学、東京工業大学の入試に失敗したoVice創業者でCEOのジョン・セーヒョン(29)は、大学進学を一旦棚上げし、2009年に韓国で貿易事業を始めた。最初の起業ははっきりと記憶しているが、その後の経歴を聞くと、ジョンも周囲の人間も「起業を繰り返しすぎて、全部は思い出せない」と苦笑いする。リリースから1カ月で見切りをつけたものも複数ある。
ただ、トライ&エラーを繰り返すうちに事業の規模は着実に大きくなり、日本で2015年に創業した外国人向けオンライン求職・求人サービス「HRDatabank」は、資金調達を数回重ね、自分では背負いきれないと判断した際に、上場企業に売却できた。個人事業からベンチャー企業に脱皮する過程で「独り相撲では自分も周囲も倒れる」と学んでいなければ、今のoViceの急成長はなかっただろう。
韓国で「起業家」のスタートを切ったジョンはなぜ来日し、経営の面白さにはまったのか。それは、日本人なら誰でも忘れることができない、痛ましい災害がきっかけだった。
越境ECで年間300万円の利益
自ら日本のドラッグストアや家電量販店を回り、商品を仕入れたこともあったという(写真はイメージです)。
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留学や受験で韓国と海外を行き来していたジョンは、商品の価格が国によって違うことが、ビジネスになるとの認識があった。そこで目を付けたのが越境ECだ。
「2009年はECブームで、越境ECサイトがたくさん立ち上がっていた。韓国のEC企業が仕入れたいものを、オーストラリアやアメリカ、日本で探して取引を仲介するビジネスなら、韓国語、英語、日本語ができる自分の強みを発揮できると考えた」
韓国企業や消費者のニーズを聞き取り、商品を取り扱っている海外企業にコンタクトしていった。
「介護用品やペット商品は韓国で需要が高かったが、品数が豊富でなくニーズに対応しきれなかった。一方、日本市場には多くの商品があった。日本企業の問い合わせフォームからメールを送ると、だいたい丁寧な返事が返ってくる。若い自分でも戦いやすい分野だった」
メールでのやり取りだから、先方もまさか未成年相手にやりとりしているとは思いもしなかっただろう。ジョンは韓国の買い手と海外の売り手を引き合わせ、手数料を受け取った。
日本メーカーの使い捨てアイマスクがブームになったときは、福岡に行き、ドラッグストアや家電量販店を回って、スーツケースいっぱい商品を買い込んだ。
東日本大震災で事業に行き詰まり。日本へ
3.11直後の宮城県 仙台国際空港の様子。日本の経済状況も一変することになった。
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1年ほどビジネスを続け、300万円ほどの利益が出たが、2011年3月の東日本大震災で状況は一変した。震災直後から円高が進み、仕入れ価格が高騰したのだ。
「500円で仕入れて1000円で売っていたのに、仕入れ価格が800円とか900円になったから、日本の商品をメインにしていた越境ECは一気に潰れた」
日本との取引がメインになっていたジョンも、事業を畳むことにした。元々、大学進学までのモラトリアムだったし、見よう見まねで経営をやってみて「感覚でやっている部分を、きちんと勉強したい」と思うようになっていたからだ。
もう一度大学を受験すると決め、急いで準備を始めた。2~3カ月内に受験できるところを探し、いくつかの候補からジョンは京都工芸繊維大学を選んだ。
「経営とデザイン工学の両方を勉強できる大学は、世界にも数えるほどしかない。エンジニアとしてではなく、経営者としてロボットをつくろうと思った」
2011年3月に事業に見切りをつけ、ワーキングホリデービザで7月に来日、その後大学の合格通知も受け取った。翌春の入学まで京都のゲストハウスに滞在しながら、週末には清水寺のうどん屋でバイトした。
「ビジコン荒らし」の大学時代
経営の知識を学ぼうと京都繊維工芸大学に入学したジョンだが、次第にビジネスプランコンテストに魅了されていった。
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ジョンの行動は、当初の計画とずれることが多い。日本でもそれは変わらなかった。
まず、入学半年で大学から足が遠のいた。かといって遊んでいたわけでもない。経営を学べ、うまく行けば大金も手にできる方法を、大学の外で見つけてしまったのだ。
1年生の夏休み、大学の掲示板でダイソンのビジネスプランコンテストの告知を見つけた。
高額の賞金に興味を惹かれ、ビジコンに応募を始めたジョンは、新しいゲームにすぐに夢中になった。
「応募できるビジコンには全部応募した。僕を見て『またお前かよ』と言う審査員もいたけど、だいたい優勝していた」
稼いだ賞金は年間で300~500万円。アルバイトをしていない留学生にとって、重要な収入源でもあったし、ネットワークをつくれる場でもあった。
「ビジコン荒らし」として名を馳せる中で、投資家や企業の新規事業担当者と知り合い、誘われてインターンも経験した。ビジコンで評価を得たビジネスプランは、実践に移した。
ビジネス始める2つの条件
最初にやろうとしたのは駅に本棚を設置して、乗客がどの駅でも自由に貸し借りできる「メトロ図書館」。これは法規制がクリアできず事業化には至らなかった。
次に手を付けたのは、日本への留学を希望する外国人に向けたAI学習ツールの事業化だ。AIがユーザーに最適化された問題を出題するので、問題を解いていれば成績が伸びるというアイデアだったが、リリース1カ月で行き詰まった。
「投資家には、資格試験の勉強をする日本人などにターゲットを変えれば投資すると言われた。収益モデルが見えないと指摘されたが、自分は留学生のためのサービスにこだわった。結果、全然ユーザーが獲得できず、箸にも棒にもかからなかった」
ジョンが新しいビジネスを始めるのは2つの条件がそろったときだ。
1つ目は「自分自身が今の仕組みにフラストレーションを感じていて、解決する手段が世の中に見つからないとき」、そして2つ目は「時間があるとき」。時間があるから、自分が必要とするサービスを自前でつくってしまおう。その動機は非常に素朴で、故に「収益性を分析できていなかったり、忙しくなったら回らなくなって力尽きたりした」。
AI学習ツールの失敗を反省したジョンは、海外の留学希望者と日本の語学学校をマッチングするビジネスに転換した。特に力を入れたのは、留学熱が高まっていた東南アジア市場だ。このビジネスの反響は良かったものの、2015年4月に起きたネパール地震が急ブレーキになった。
「外国人と語学学校をマッチングして、入学したら手数料が入るビジネスモデルだったが、地震で状況が変わって留学を取りやめるケースが相次いだ。当然手数料も入らない。この経験で、ベンチャーにとって回収の遅いビジネスはリスクが大きいと学んだ」
上場企業へ売却も「サラリーマン向いてない」
外国人向けの求人サイトは最終的には「成功」だったが、数多くの反省にも溢れていたという。
提供:oVice
紆余曲折を経てたどり着いたのが、海外で就職したい外国人と企業をつなぐマッチングサイトだ。留学のような時期の縛りがなく、少子高齢化の進行で日本企業の外国人採用ニーズも高まりつつあった。
2015年12月に設立した外国人向けオンライン求職・求人サービス「HRDatabank」は、創業時にサイバーエージェントの出資を受け、その後も順調に資金調達し、有望スタートアップっぽい形になった。しかし、ジョンのリスク嗜好が裏目に出た。
「市場がないところに広告などをどんどん投下して、当然ながら成果がない。それで資金がなくなってしんどくなった」
社員も増え、組織を回さなければならなくなったのに、独り相撲を取ってしまったのも、この時の反省だ。寝る間を惜しんでプログラミングをやり、営業をやり、CEOも担った。最初は良かったが、だんだんと手が回らなくなり、限界を迎えた。
「1人で抱え込んではいけない。けど、自分は人を見る目がないから、採用と人事に関わってはだめだとも分かった」
とジョンは言う。
「その人のポテンシャルだけ見て、来た人は全部採用しちゃった。最大限に成長したらやれるはずだと勝手に期待して、難しい仕事を投げて放置してしまう。だから1週間で辞めてしまうこともあった」
それまでと違い、社員も抱えているから事業をやめるにやめられない。どうしたらいいか投資家に相談すると「買い取る」との提案を受けた。
「自分では大きくできなかったけど、買い手がつく価値をつくりだせたというのは、悪くない結果だった。むしろ成功」
2017年にHRDatabankを上場企業に譲渡して自分も期限付きでそこの社員になった。最初の1年は頑張ったが、2年目で気づいた。
「リスクも責任も背負うけど、リターンを追求できる起業に比べ、会社員はすごく頑張って成果を出しても給料へのリターンが限られている。それでモチベーションがなかなか上がらず、自分はサラリーマンに向いてないと認識した」
そうして2020年春先、コロナ禍のあおりで出張先のチュニジアに3カ月以上閉じ込められたどさくさにまぎれ、会社を辞めた。その間にoViceを開発し、事業化を決め資金調達の準備を進めていった。
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(文・浦上早苗、写真・伊藤圭)
浦上早苗: 経済ジャーナリスト、法政大学MBA実務家講師、英語・中国語翻訳者。早稲田大学政治経済学部卒。西日本新聞社(12年半)を経て、中国・大連に国費博士留学(経営学)および少数民族向けの大学で講師のため6年滞在。最新刊「新型コロナ VS 中国14億人」。未婚の母歴13年、42歳にして子連れ初婚。