撮影:伊藤圭
コロナ禍で飲食店の厳しさは繰り返し報じられている。都心の大規模なスペースで企業パーティーやウェディングを手掛ける銀座クルーズも、大人数会食自粛の直撃を受け、2020年からデリバリーやテイクアウトも手掛けるようになった。
銀座クルーズはこの夏、「oVice」と連携して、オンライン上にレストランを再現する「バーチャル空間レストラン」を始動した。2021年7月16日夜には「oVice」のユーザー企業約50社を招いてバーチャル宴会を実施し、シェフやソムリエが料理とワインの準備、当日の「サービス」を担当した。バーチャルの会場をソムリエのアバターが巡回してワインや料理の説明をする。参加者はテーブルから手を挙げて、スタッフを呼ぶこともできる。
約170人が参加したこのバーチャル宴会にはどんな料理が適しているのか、レストランのシェフとジョン・セーヒョン(29)は何度も話し合ったという。
3段ボックスの蓋を開けると、目に飛び込んでくるのは瓶詰のキャビア。ジョンは、「誰もが高級食材と知っているキャビアを入れることで、会話が盛り上がればいいと思った」と話した。
実際に提供されたメニュー。彩りが美しく、味ももちろん一級品だ。参加者同士で「これ美味しい!」と会話にも花が咲く。
提供:oVice
銀座クルーズの諸星純一シェフは、「レストランではできたての料理を出すが、今回はクール便で宴会の前日に配送し、自宅の冷蔵庫で保管したり、レンジで温めて食べてもらったりするので、作って数日後に一番いい状態にしなければいけない。勝手が違う部分はありました」と明かした。
ワクチンの接種は進んでいるが、新型コロナウイルスの感染が収まる気配は見えない。今年の忘年会も「自粛」を求められる可能性は高い。ジョンは飲食業界支援に加え、コミュニケーションのために、食事やアルコールをセットにした「バーチャル忘年会」を企業に提案していきたいという。
定着させるためのラストスパート
クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」を皮切りに始まった日本のコロナ禍だが、未だに終息の時期は見えない。
REUTERS/Issei Kato
2020年1月に新型コロナウイルスの存在が認知されたとき、これほど長期化すると予想できた人はほとんどいないだろう。ジョンもそうだ。
2020年3月に自分の仕事の円滑化のためにoViceのプロトタイプを作ったが、チュニジアから帰国し、事業展開のための資金を調達した6月には感染が一服。テレワークが下火になった代わりにオンラインイベントが激増していた。
その頃はイベント利用を想定して営業していたが、感染が再燃した秋以降は企業の仮想オフィスとしての利用が中心になった。2021年7月末時点で企業・団体での契約数は1200を超えた。
ジョンは、oViceがリアルの交流の場全てを代替する場所になることを目指している。
コロナ禍は長引いているとは言っても、いつかは収束する。だから今は、世の中にテレワークやオンライン飲み会などを定着させ、そこにoViceが入り込むための「ラストスパート」だと考えている。
2021年7月に開催したバーチャル宴会の料理代は1人3万円、ジョンはためらうことなく参加者170人分をoViceで負担した。8月には春先に調達した資金の大部分を使ってテレビCMを始めた。どちらも株主に心配されたが、ジョンは「リスクを取るべきタイミングだから」と意に介さない。
「さすがに来年にはコロナは収束するだろう。そうなれば、テレワークもoViceもやめようという企業も出てくる。流れを止めないためには、使ってくれている社員にファンになってもらうのが大事。仕事のツールにとどまらず、忘年会にも遊びにも使え、楽しさを生む場だと感じてもらえば、コロナが終わってもoViceは生き残れる」
グローバルNo.1企業との戦い方
撮影:伊藤圭
ジョンの目標は「oViceが生き残る」以上のところにある。「バーチャル空間」「仮想オフィス」は以前からあった市場だ。コロナ禍をきっかけに急成長を始め、今はスタートアップと大手が入り乱れてパイを取り合っている。
日本では9割のシェアを占め、グローバルではほぼ同時期に立ち上がったアメリカのGatherに次ぐ2位につける。引き離されないため、oViceはGatherが入るマーケットにぴったりとついていく戦術を取る。
「台湾では負けているけど韓国では勝っている。次の激戦地はヨーロッパになる。Gatherは既にセコイアキャピタルなど著名VCから調達しており、oViceが足止めしているだけでも、次の調達がしにくくなる」
世界首位の企業を足止めしながら、自社のサービスもブラッシュアップを図る。
「既にバーチャルオフィスを使っている企業は、接続が不安定になると乗り換えを考える。oViceの強みはSlackが重く感じるくらいインターネット環境が悪くても、きちんと動くこと」
ユーザーの使いやすさを追求すれば、バーチャル空間の機能やデザインは均質化に向かうことが避けられない。だから「接続の安定」や「楽しさ」といった根幹価値に、地道に投資していくしかない。
10億円の借金から見れば全ては誤差
ジョン自身、石川県を拠点とし、テレワークでoViceを活用する。
提供:oVice
ジョンは2年前、都内と石川県七尾市を行き来する二拠点生活を始め、コロナ禍を機に都内の部屋を解約した。スタッフはテレワークが基本だが、七尾市では倉庫を改造したオフィスをつくり、今後広がるであろう出社とテレワークを併用したハイブリッドな環境に対応するための実験を行っている。
「テレワーク併用になったとき、出社している人とそうでない人の間に情報格差、温度差が生まれないようにするのが次の課題。テレワーク導入でオフィスを縮小した企業の、会議室不足問題なども予想される。来年以降起きそうな問題を、先回りして解決したい」
oViceの月額使用料は1部屋5500円~。契約数は順調に伸び、リリース8カ月でサブスクリプションの重要指標であるARR(年間経常収益)が1億円を超えた。この数字を年内に10億円に乗せるのが、直近の目標だ。
「失敗して失うものはない」
ジョンはあくまでも強気だ。
「リーマン・ショックで父が事業に失敗し、仲良くしていた人が離れていったり裏切ったりしたのを見た。あの時に自分がしっかりしないとと思った。(父の借金を返すための)10億円を稼ぐためには、1億円を投資するなど『普通』ではないことをしないといけない。リスクから逃げない。10億円の借金から見ると、全ては誤差」
一方で何度か失敗して、失敗しない術も身に着けたつもりだ。
「100万円のコストで挑戦していたのが、1000万円、1億円、10億円と、一けたずつ上がっている。これまでの失敗を糧に、自分も成長しているし、これからも大きくなるだけだと信じている」
(敬称略・完)
(文・浦上早苗、写真・伊藤圭)
浦上早苗: 経済ジャーナリスト、法政大学MBA実務家講師、英語・中国語翻訳者。早稲田大学政治経済学部卒。西日本新聞社(12年半)を経て、中国・大連に国費博士留学(経営学)および少数民族向けの大学で講師のため6年滞在。最新刊「新型コロナ VS 中国14億人」。未婚の母歴13年、42歳にして子連れ初婚。