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『青天を衝け』の渋沢栄一は、SDGsの先駆けだった。「日本資本主義の父」が私たちに残したもの

日本銀行本店近くの常盤橋にある渋沢栄一像。

日本銀行本店近くの常盤橋にある渋沢栄一像。

撮影:吉川慧

東京・大手町のオフィス街の一角。日本銀行本店のほど近くに、ある人物の銅像がある。

渋沢栄一(1840〜1931)。NHKの大河ドラマ『青天を衝け」の主人公で、2024年から新一万円札の顔となる人物だ。

明治から昭和にかけて500もの企業に携わったとされ「日本資本主義の父」とも呼ばれる経済人だが、渋沢にはもう一つの顔がある。日本の社会福祉事業の先駆者という一面だ。

貧困者や身寄りのない人を保護した「東京養育院」(現:東京都健康長寿医療センター)をはじめ、女性のための教育機関の設置など約600もの社会事業に参画した。

そんな渋沢の思想が詰まっているのが、談話集『論語と算盤』だ。若い頃に親しんだ儒学の倫理に基づく「公益」と、実業家としての「私益」。渋沢は一見相反する二つを車の両輪のように考えた。

未曾有のパンデミックに世界が見舞われる今、渋沢の思想は改めて評価されている。國學院大學の杉山里枝教授(日本経済史)は渋沢の思想は「SDGsの先駆けだった」と説く。

激動の幕末から昭和初期まで、91年間を駆け抜けた渋沢が目指した理想の社会とは。今、渋沢の思想から私たちが学べることは——。杉山教授に話を聞いた。(聞き手:吉川慧)

渋沢栄一の思想、キーワードは『論語と算盤』と『道徳経済合一説』

渋沢栄一が関わった主な企業(一部)

渋沢栄一が関わった主な企業(一部)

Business Insider Japan

——もともと埼玉・深谷の豪農の家の出身だった渋沢は倒幕の志士から一転、“最後の将軍”となる一橋(徳川)慶喜の家臣に。維新後は官僚を経て、実業家としてたくさんの企業を育てました。なぜ「日本資本主義の父」と呼ばれるのでしょうか。

日本の資本主義のシステムづくりに大きく貢献したことから「日本資本主義の父」と呼ばれていると思います。

明治期に入ってからの渋沢は日本初の銀行「第一国立銀行」をつくったり、みんなが資本を出し合って事業を興す「株式会社」の仕組みを西欧から取り入れたりして、多くの企業を設立しました。

みずほ銀行や東京ガス、帝国ホテルなど今も残る有名企業の始まりには、必ず渋沢の名前があります。

ただ私は、渋沢が社会事業にも重きを置いていたことを評価しています。それもひっくるめて「近代日本を創った人」という表現のほうがいいかなと思っています。

——なるほど。

実は、渋沢自身は「資本主義」という言葉は使っていないのです。

日本の資本主義経済、資本主義体制に大きく貢献したというのは事実ですが、彼自身は「合本(がっぽん)法」、「合本組織」と言った。これが「合本主義」という言葉として知られています。

——「資本主義」ではなく「合本主義」ですか。

「合本」というのは「資本を合わす」という意味ですね。

ただ、ここで言う資本はお金だけではなく、人的資本や社会資本まで様々なものを含めて「多くの力を集めて事業をおこなう」という意味です。

私見ですが、渋沢は学問的な「資本主義」を考えるよりも、実学的な人物だったと思います。

なので、「一つ一つの資本は小さくても、集まれば大きな事業になる。それが社会のためになる」ということを「合本」という言葉で強調したかったのではと思っています

渋沢栄一『論語と算盤』忠誠堂(1927年)

渋沢栄一『論語と算盤』忠誠堂(1927年)

国立国会図書館デジタルコレクション

——そんな渋沢の考えが詰まっているのが談話集『論語と算盤』。このタイトルにはどんな意味があるのでしょうか。

(編注)『論語』:「儒学(儒教)」を説いた古代中国の思想家・孔子の言行録。儒学では「仁・義・礼」を重んじ、人間同士の思いやりや「徳」に基づいた政治が重要とされた。孔子の死後、儒学には諸派が生まれ、身分秩序を重視する「朱子学」は江戸幕府では御用学問となった。

渋沢の思想を学ぶ上で欠かせないのが「道徳経済合一説」というものです。これを噛み砕いた言葉が「論語と算盤」なのだと考えると、分かりやすいと思います。

「道徳」というのは、社会理念みたいなものですね。“公益”の追求を尊重する儒学、こと『論語』の思想に通じるものです。一方の「経済」はビジネス。つまり“個人の利益”を追い求める経済活動です。

一見かけ離れたものですが、渋沢は『論語と算盤』の中で「仁義道徳と生産殖利はともに進むべき」と述べ、「道徳」と「経済」は不可分と考えました。

ビジネスには、必ず道徳的な側面や社会のために貢献するという公益を、常に考える必要がある。一方で、世の中のためという社会事業も、ビジネス的な観点がなければ持続できない。

渋沢が重んじたものを一言にまとめると『論語と算盤』となるわけです。

今でいう企業のCSR(企業の社会的責任)やCSV(共通価値の創造)、SDGs(2030年までに取り組むべき持続可能な開発目標)にも通じるものですよね。

——なるほど。立派なことを唱えても会社がつぶれたら元も子もない。かと言って利益ばかり追求し、公益の観点がおろそかになっては社会全体は豊かにならず、自ずと自分も損をする。

両方とも大事というのが、この時代としては珍しく、独特な感じだと思います。この思想が言葉として明確になったのは1910年頃、渋沢が古稀(70歳)を迎え、実業界の第一線を退くことになった頃からです。

とはいえ、その年齢になって考えた理念ではなく、彼が官僚を辞めて実業家となった33歳の頃から一貫して実践してきたものでした。それを年齢を重ねてから言葉にしたと言えますね。

フランス訪問で触れた「資本主義」が人生を変えた。

パリ万博に向かった幕府使節一行。後列左端が渋沢栄一。

パリ万博に向かった幕府使節一行。後列左端が渋沢栄一。

Stan S. Katz, Public domain, via Wikimedia Commons

——近代的な経済の仕組みに触れたフランス行きは、渋沢にとっても大きな転機だったようですね。道中で見たスエズ運河の建設工事が民間事業だと知って驚いたり、軍人と商人が対等に話していた姿が印象的だったと。

徳川昭武(徳川慶喜の弟)の渡欧の随行員を務めましたが、ここで銀行や合本の仕組みを学んでいます。

フランスの社会事業や法律も学んだことが、その後の渋沢の方向性を決め、日本にとっても大きな転機になっていくわけですね。

——しかし渡欧中に日本で大政奉還があり、江戸幕府が滅亡。渋沢も帰国を余儀なくされます。

帰国後、渋沢は主君であった徳川慶喜が謹慎していた「駿府藩(のちの静岡藩」に赴き、西欧訪問の報告をしました。ここで渋沢は藩の勘定組頭となるよう辞令を受けますが、これを断ります。

そのうえで渋沢は静岡に留まり、藩の財政難を救うことを決意。「商法会所」という現在の株式会社の先駆けのようなものを作り、頭取になりました。

これが注目されてヘッドハンティングされ、官僚になったんですね。

租税制度や新しい貨幣制度の改革など、国の基礎づくりに奔走しましが、陸海軍の軍事費の増大に応じようとする大久保利通とは、財政の健全化をめぐって対立したりする。

そうした中で、自分の力を遺憾なく発揮できるのは民間なのではと思ったのだろうと推察します。

明治維新後、官僚となるも3年で退官。経済の力で近代化を目指した

渋沢栄一(左)と第一国立銀行本店。現在の日本橋兜町にあった。

渋沢栄一(左)と第一国立銀行本店。現在の日本橋兜町にあった。

渋沢史料館絵葉書、国立国会図書館デジタルコレクション

——わずか3年で渋沢は官僚を辞めました。同僚から金に目がくらんだかと責められても渋沢は「論語で一生を貫いてみせる」と啖呵を切ったと伝わります。33歳で実業家となり、第一国立銀行をつくった。

「第一国立銀行」と聞くと国立の銀行と思いがちですが、民間資本による日本初の銀行です。アメリカの「NATIONAL BANK ACT」にならった「国立銀行条例」という条例に基づく銀行だったので「国立銀行」と呼ばれました。

その目的は紙幣を発行したり、世の中の産業・企業に広く資金を提供して、日本全体を豊かにすることを視野に入れていました。

財閥系の銀行ではあくまで財閥の内部で資本を供給する役割が大きかったので、そこは大きな違いでしょう。

国立銀行は最初の時は第一、第二、第四、第五の4つでしたが、その後は全部で153にもなった。第一国立銀行は、求めに応じて行員を各地の国立銀行に派遣して教育を施したり、経営を支援したりすることもありました。

今の地方銀行の起源をさかのぼると、各地の国立銀行という場合が多いですね。

1882年には発券機能を持つ中央銀行である日本銀行ができますが、第一国立銀行は先駆的な存在として今につながる金融システムを全国に広げたという意味で大きな役割を果たしました。

——その他にも、渋沢は抄紙会社(現:王子製紙)を開業したり、「大阪紡績会社」(現:東洋紡)の設立にも大きく関わっています。

明治に入ると紙の需要は高まります。紙幣や証券が発行されるようになり、企業では帳簿が必要になりました。

また渋沢自身も本や雑誌、新聞の普及で人々の教養が向上することを重んじ、それが事業を盛んにすると考えていました。

紡績についてですが、18世紀イギリスの産業革命のはじまりは紡績業からでした。そこをしっかり見ていたんだと思います。

王子製紙・都島工場ライスペーパー仕上室の様子(左)と明治村(愛知・犬山市)で保管されている粗紡機。

王子製紙・都島工場ライスペーパー仕上室の様子(左)と明治村(愛知・犬山市)で保管されている粗紡機。

子製紙株式会社案内(1925)/王子製紙株式会社東京出張所[編]/国立国会図書館デジタルコレクション、吉川慧

——日本でも明治以降に紡績業が爆発的に伸びました。

幕末から明治初期にかけて藩や政府などによってつくられた紡績工場はいまいち小規模でうまくいかなかった。それを舶来の機械を入れて大規模にしたり、熟練労働者でなくても作業ができるようにした。輸入の綿花を使ったり、生産コストを下げたことで事業は軌道に乗っていきます。

また、渋沢はインフラ事業にも積極的に関わっています。東京瓦斯(ガス)や、現在のJR東日本に連なる日本初の私鉄「日本鉄道」などの鉄道事業もです。

一方で財閥系も当初は安田が電力、三井が富岡製糸場などに関わったりしていましたが、やがて商社や銀行、鉱山業などの分野にシフトしていきます。

渋沢はインフラ分野をきちんと押さえて、そこから世の中の近代化を進めていきました。結果的に財閥系と渋沢の「棲み分け」ができたことも、その後の日本にとっては大きな利益になったと思います。

渋沢栄一(左)と岩崎彌太郎。

渋沢栄一(左)と岩崎彌太郎。

近世名士写真 其2(近世名士写真頒布会)、岩崎弥太郎/南海漁人[著],集文館(1898年)/国立国会図書館デジタルコレクション

「合本」を重んじた渋沢は、事業の「独占」を目指した三菱の岩崎彌太郎などとよく比較されがちです。

実際二人はプライベートでは昵懇(じっこん)の仲であったといいますが、ビジネスではライバル関係で、「屋形船事件」とよばれる、会食の場での対立の話も伝わっています。

でも、この両者があってこそ、今の日本があるとも言えるでしょう。著名な経営学者ピーター・ドラッカーは、渋沢と岩崎を「ロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーを凌ぐ」と綴っているほどです。

出資は広く募り、経営は信頼できる人に。そして、商いはオープンに

国立国会図書館デジタルコレクション、吉川慧、REUTERS

——第一国立銀行を皮切りに、渋沢は500もの企業に携わったとされます。ただ、渋沢は関わった会社で必ずしもトップを務めたわけではなかったそうですね。

そこが渋沢の「合本主義」の特徴ですね。渋沢は財閥を作ったり、自分の名前をつけた会社を設立することにはこだわりませんでした。

会社名に「渋沢」という名前が付いた純粋に渋沢的なものは「渋沢倉庫」ぐらいだと思います。数百の企業に関わりながら役員であったものでもそう多くはありません。

設立した会社もオープンな経営を旨としました。広く出資を募り、閉鎖的にならないように。株主総会で何かもめたときは仲裁に入り、外部のステークホルダー達にオープンになるようなことを考えていたようです。こうした姿勢もビジネスにおける道徳の実践だったと思います。

「正真正銘の商売には、機密というようなことは、まずないものと見て宜しかろう」(『論語と算盤』より)

お金を集めたり、自ら出資したりもしましたが、同族経営はせずに信頼できる有能な人に経営を任せていくことが多かったようです。渋沢が多くの人に信用され、強固な人的なネットワークを持っていたことも強みでした。

——特に人的ネットワークは、今にも残る会社の成功につながっている。

たとえば「大阪紡績会社」がそうですね。渋沢は「今イギリスに留学している良い人材がいる」と聞いて山辺丈夫(やまのべたけお)の存在を知ると、産業革命の本場で工学や紡績技術を学ぶよう進め、学費なども援助しました。

この山辺が帰国後、大阪紡績会社の設立に尽力し、これが会社の成功につながりました。

他にも有名なところでは大倉喜八郎がいます。帝国ホテルや札幌麦酒醸造所(現:サッポロビール)など、さまざまな事業で協力しました。また、浅野セメント(現:太平洋セメント)をつくった浅野総一郎のことも評価し、援助したり事業で協力することもありました。

東京養育院、女子教育も。持続可能な社会公共事業を目指した

東京市養育院年報. 第50囘(大正10年度)/東京市養育院[編]

東京市養育院年報. 第50囘(大正10年度)/東京市養育院[編]

国立国会図書館デジタルコレクション

——ビジネス分野では「合本主義」を実践し、成功した渋沢ですが「道徳」の分野では「道徳経済合一」を進めるためにどういった活動をしていましたか。

代表的なのは、第一国立銀行の設立直後から関わった東京養育院の運営です。これは江戸時代に江戸の町人たちが積み立てた「七分積金」を元手にしたものでした。

明治維新の混乱で急増したホームレスなどの生活困窮者をはじめ、身寄りのない子供や老人、病人の救済のためにつくられました。

ただ、養育院が東京府に移管されると「怠け者をつくりだす」などのバッシングを受け、のちに税金の支出が受けられなくなりました。そこで渋沢は寄付を集めたり、集めた資金を運用したりして、自前でやっていけるような組織づくりに取り組みます。

寄付を募集するときも名簿を作り、一番はじめに自分の名前と寄付金額を書くこともあったようです。それを色々な人が見ることで、より多くの人が参加できるように図ったようですね。

——資金調達のため、渋沢は鹿鳴館で華族向けのチャリティーバザーを開いたりもしました。

限られた特定の人物から多額の寄付をもらうより、たとえ少額でも多くの人から寄付をもらうことを大切にしていた。ここにも「合本主義」の考えが見えます。

自分の経済人としてのノウハウで、養育院が長く存続するように工夫したんですね。

——渋沢はこの養育院の事業に特に思い入れがありました。91歳で亡くなるまで50年以上も院長を務め、月に一度は子どもたちに配るお菓子を持って講話に訪れていたと。

渋沢の社会事業への関わりは、ビジネスの第一線から引退した古希(70歳)の頃からメインになっていきます。

ただ、渋沢自身は起業家として腕をふるっていたころから並行して関わり続けていました。養育院の運営は、渋沢にとって第一国立銀行(のちの第一銀行)よりも長く関わったことになるんですね。

——渋沢といえば、実業を教える学校づくりにも関わっていました。

今の一橋大学の前身である商法講習所や二松学舎、理化学研究所(理研)の創設にも携わりましたね。また女子教育にも尽力し、東京女学館や日本女子大などの創立にも協力しました。

明治期の日本なので、時代的に良妻賢母の育成が重んじられはしましたが、時代に先駆けて女性に専門知識をつけることの大切さを見抜いていた。先見性があったと思います。

養育院も女性教育の拡充も、より良い社会づくりを目指すことが、結果として経済的な利益につながり、日本がより豊かになるという考えだったと思います。

いずれにしろ、渋沢の究極の目標は「日本を豊かでよい国にしたい」という一念でした。

今、渋沢の思想から学べることは……

常盤橋付近の工事現場では「青天を衝け」のポスターが掲げられていた。右奥には渋沢栄一像。

常盤橋付近の工事現場では「青天を衝け」のポスターが掲げられていた。右奥には渋沢栄一像。

撮影:吉川慧

——ここまで見ると、渋沢は社会公共事業でも『論語と算盤』の考えを取り入れていたことが伺えます。

社会事業もビジネスで培った経験をベースにし、思いつきの慈善だったりとか、ことさら慈善活動をアピールしたりすることは、よくないとしています。

関わった社会事業も、初めはその組織の長になることも多かったですが、後に別の人に任せたり、寄付も何に使われるかを分かるようにする仕組みを整えたりと、こちらもビジネス同様に組織づくりに努めていました。

慈善活動も、経済的な視点や組織的な側面が重要だと言っています。一見すると「え?」と思うかもしれませんが、持続可能なものにするためには重要なことでしょう。

これも「道徳経済合一」の現れですよね。

——たしかに。2021年の今から見ても、渋沢は先進的な活動をしてきたことが伺えます。

ひるがえって現在の日本ですが、東日本大震災から10年が過ぎました。そしていま未曾有のコロナ禍で、それこそ社会に余裕がなくなってきた時代です。

財界は自らの利益だけを見るのではなく、さまざまな企業や団体などと協力し、日本経済の回復を考えなくてなりません。渋沢の姿勢には、大いに学ぶところがあるはずです。

渋沢自身も「よく集め、よく散ぜよ」と説いています。今こそ、私たちに渋沢の教えが沁み入る時だと思います。

編集後記(前編):コロナ禍のいま、渋沢栄一と近代日本の歴史から学ぶこと

1931年11月、渋沢栄一の訃報を伝える新聞。

1931年11月、渋沢栄一の訃報を伝える新聞。

1931年11月11日東京朝日新聞

渋沢栄一の業績についてはどうしてもビジネス分野で語られることが多い。今回注目した社会公共事業、時に福祉分野の業績はあまり知られていなかったかもしれない。

事業活動に伴う人権侵害の把握と予防策を講じる「人権デューデリジェンス」など、日本企業が遅れていると指摘されがちな「SDGs」や「CSR」の考え方を、渋沢が『論語と算盤』で唱えていたことは特筆に値する。まるで100年の時を経て、渋沢の思想がよみがえったかのようだ。

福祉の専門家も「渋沢がいなければ、日本の福祉の発展は大きく遅れていたに違いありません」と評する(杉山博昭著『渋沢栄一に学ぶ福祉の未来』)。

一方で、歴史には「光」があれば「影」もある。

渋沢が院長を務めた東京養育院は、のちのハンセン病の隔離政策に影響を与えた。誤った予防医学による隔離政策に関与した側面は否定できない。渋沢は最晩年に癩(らい)予防協会の設立に関わり初代会長となった。同協会は渋沢の死後、国策の絶対隔離政策に拍車をかけた。生み出された偏見や差別の作出・助長には国はもちろん、これを是認した国民全体の責任も問われる。これは渋沢一人だけの責任にはできない。

渋沢の業績の「影」を指摘する福祉の専門家も「渋沢の福祉への取り組みや考え方には、学ぶべき点、継承すべき点があることもまた確か」と綴る(杉山博昭著『渋沢栄一に学ぶ福祉の未来』)。

渋沢が「論語」と「算盤」を不可分のものと考えたこと。社会福祉とビジネスのまなざしを両立させ、より安定して貧しい人や弱者を救済できるよう、私財と時間を投じたことは評価されよう。

渋沢に注目が集まり、コロナ禍で苦境にあえぐ人が数多くいる今こそ、その事蹟と哲学は示唆に富む。よりよき社会へのヒントは、きっと歴史に詰まっている。(文・吉川慧)

(*編注)旧仮名遣いなどは適宜改めた。

杉山里枝(すぎやま・りえ):1977年生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。三菱経済研究所研究員、愛知大学経営学部准教授等を経て、現在は國學院大學経済学部教授。専門は近現代日本経済史・経営史、比較経営史。著書に『戦前期日本の地方企業』(日本経済評論社)、『日本経済史』(共編、ミネルヴァ書房)、『はじめての渋沢栄一』(共著、ミネルヴァ書房)など。

<▼後編では、渋沢が晩年に尽力した民間外交について杉山教授に聞きました▼>

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