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満州事変の2カ月後に死去した渋沢栄一。「日本経済の父」がラジオで語った平和への願い【戦後76年】

晩年は民間外交に尽くした渋沢栄一。鹿島茂著『渋沢栄一(論語篇)』の表紙には、日米友好を願った「青い目の人形」を抱く渋沢の姿が。知られざる「世界平和」への願いとは。

晩年は民間外交に尽くした渋沢栄一。鹿島茂著『渋沢栄一(論語篇)』の表紙には、日米友好を願った「青い目の人形」を抱く渋沢の姿が。知られざる「世界平和」への願いとは。

撮影:吉川慧

「日本資本主義の父」「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一(1840〜1931)だが、その活動は一人の実業家の枠には留まらなかった。

貧困者や孤児、老人などを救済する東京養育院の運営などの社会福祉事業に奔走し、晩年は民間外交にも尽力。日本が国際的孤立を招きつつある時代、アメリカや中国との親善にも力を注いだ。

晩年には世界平和への理想をラジオで国民に語りかけた。それでも、渋沢の願いは届かなかった。

1931年9月、日本の関東軍は満州事変を引き起こし、中国東北部を占領。その2カ月後、渋沢はこの世を去っている。

歴史が教えてくれるように、渋沢の死と前後して日本が歩み始めたのは「1945年8月15日」へと至る道だ。

渋沢は民間外交でどんな動きを見せたのか。そして、どんな言葉を紡いだのか。

その足跡を知るために國學院大學の杉山里枝教授(日本経済史)を訪ねた。(聞き手:吉川慧)

民間外交の担い手、日米関係の改善に尽力

左からグラント、孫文、袁世凱、蔣介石。

左からグラント、孫文、袁世凱、蔣介石。

Hulton Archive、Pix/Michael Ochs Archives、Topical Press Agency、Central Press/Getty Images

——生前の渋沢栄一は、中国を軸とした日米関係を重視していました。

渋沢は辛亥革命で中華民国の「建国の父」となった孫文、さらには袁世凱、孫文の後継者となった蔣介石とも親交がありました。

アメリカ側とも関係を結び、1879年にはグラント前大統領を歓待しています。

渋沢も日露戦争前から大正期にかけて4回アメリカを訪れています。最初は1902年、日本の国際化を目指す中での欧米視察でした。

1906年にサンフランシスコで大地震が起こった時には、渋沢が頭取をつとめる第一銀行は当時の価格で1万円という大金を義捐金として供出し、その他にも多額の義捐金を集めてアメリカに送りました。

さらに1909年、渋沢は外務省の協力を得て、約50名からなる渡米実業団の団長としてアメリカを訪れています。

ただ、アメリカ国内では19世紀末から黄禍論があり、日本人移民の排斥運動の空気も次第に生まれていった。訪米した渋沢も、これを感じ取ってはいたようですね。

——そうした中、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を口実に連合国として参戦。中国での利権拡大を狙って「二十一カ条要求」を中国側に要求しました。英・米は大戦中で大きく介入できませんでしたが、日本への警戒心が高まった事件でした。

(編注)「対華二十一カ条要求」:1915年、第2次大隈重信内閣が中国における利権拡大を狙い、中国の袁世凱政府に要求したもの。山東省の旧ドイツ権益の継承、南満州・内モンゴルの権益延長など華北地域の日本への事実上の隷属という内容だった。以降、中国内では対日感情が悪化。1919年、パリ講和会議で二十一箇条廃棄の要求が拒否され、大規模な民族運動「五・四運動」が起こった。

移民や満州をめぐる問題などで日米関係は悪化していきましたが、1916年に渋沢らは「日米関係委員会」を組織。移民問題の改善に取り組みました。

ところが1920年にはカルフォルニア州で日本人の土地所有の禁止を決めた排日土地法が成立し、日米関係は悪化へと向かいます。

それでも渋沢は、なおも努力を続けます。第一次世界大戦後、軍縮を協議した1921年のワシントン会議には民間の立場で視察。オブザーバーとして参加します。

この時すでに80歳だった渋沢ですが、太平洋地域の安定のためにも、日本を警戒するアメリカが主導した軍縮に賛同。ハーディング大統領に面会し、ニューヨークでは財界人と交流しつつ、日米親善を目指しました。

さらに1923年の関東大震災では、自身のネットワークを通じてアメリカからの復興支援も取り付けます。日米の実業界の関係は決して悪いものではなかった。

そうした中で1924年、アメリカで「排日移民法」が成立してしまうんですね。

——この「排日移民法」は、低賃金の日本人の移民がアメリカ人の雇用を妨げるとして、日本からの移民を全面禁止する内容を含んだものでした。渋沢にとって大きなショックだったようですね。それでもあきらめず、冷静に未来への望みを説いていましたが…。

まずアメリカ人の中には、善い者もあり悪い者もあるということを理解せねばならぬと思います。

アメリカの日本移民に対する関係が、私の知っている限り今の有様であって、こう申すと脈が切れたようにお感じなさるか知れませぬが、いまだそうではございませぬから、たとえ万一にこれが思うように行きませぬでも、また未来に望みないと申せぬであろうと思います。

なるべく短気を起されぬようにお願いをしとうございます。
(「米国における排日問題の沿革」1924年5月20日東京銀行倶楽部晩餐会演説)

意外かもしれませんが、渋沢としては移民には肯定的な立場だったんですね。それこそ、渋沢の頭の中にはグローバルな地球儀がいつもあったと思います。

そうなると、人が移民し、適材適所でやっていくということは必然。それでゆくゆくは日本も世界も豊かになると考えていたことでしょう。

しかし排日移民法は、こうした渋沢の考えとは相容れません。東京養育院で社会的な弱者を救済する活動をする渋沢にとって、アジア人、日本人だからという理由で排斥されることは、望ましいことではなかったはずです。

日米友情の証となるはずだった「青い目の人形」

横浜市本町小学校が所蔵する「青い目の人形」のブロッソン(左、中)とアマンダ(右)

横浜市本町小学校が所蔵する「青い目の人形」のブロッソン(左、中)とアマンダ(右)

出典:横浜市教育委員会

——渋沢自身は、第一次世界大戦での二十一カ条要求やシベリア出兵に反対論を唱えていました。ただ、中国をめぐり日米関係は悪化していった。

特に、大戦期の日本は好景気にのって輸出を強化していきましたが、そのことでも他の列強からバッシングを招くようになりました。

また、日本が対外膨張に傾倒していき、警戒される存在になっていった時期とも重なっていますね。

だからこそ、アメリカとの関係は民間外交によってなんとか改善したいという思いがベースにあったようです。ただ、それも次第に実現が難しくなっていきます。

——それでも、渋沢は日米関係を良好に保ちたいと様々な取り組みをしています。そのうちの一つが「青い目の人形」による人形外交でした。

きっかけは、アメリカで排日運動が深刻になっていた1926年に知日派の宣教師シドニー・ルイス・ギューリック博士から寄せられたある申し出でした。

アメリカの子どもたちから、日本の子どもたちへ、友情の象徴として人形を贈り、両国の親善を図りたい、と。渋沢はギューリックの求めにすぐに応じ、翌年の1927年に日本国際児童親善会を設立し会長になります。

——アメリカから約1万2000体の「友情人形」が贈られ、日本からも「答礼人形」として58体の市松人形を贈りました。ただ、友情人形は太平洋戦争下でその多くが失われた。およそ300体が現存しているそうですね。

こうした国際親善が評価されたことから、1926年と1927年には渋沢は日本の政府関係者からの推薦などを受け、ノーベル平和賞の候補にもなりました。アメリカからも推薦状が届いたとか。ただ、受賞には至りませんでしたが……。

渋沢の「戦争」への姿勢は——

(左)1931年9月、中国で発生した水害への支援を呼びかける渋沢の様子。(右)中国側が支援に謝意を表しつつ、満州事変で「折角の頂戴物も咽喉を通らぬ」と拒否したことを伝える新聞。

(左)1931年9月、中国で発生した水害への支援を呼びかける渋沢の様子。(右)中国側が支援に謝意を表しつつ、満州事変で「折角の頂戴物も咽喉を通らぬ」と拒否したことを伝える新聞。

(左)東京朝日新聞1931年9月7日(右)東京朝日新聞1931年9月24日

——渋沢の発言をたどると、明治期の台湾出兵のころから戦争には反対の立場でした。第一次世界大戦中にも軍備拡張による対外膨張を戒めています。

「生産殖利によって武力を拡張し、これによって他国を併呑するのは、これ国際道徳を無視した野蛮の行為である」
(1918年3月「竜門雑誌 第三五八号」)

渋沢の平和への考えは、戦争が国の財政を圧迫し、市民の暮らしを苦しめることになるという経済的な側面からの意見でもありました。

ただ、渋沢が関わっていた第一国立銀行は、1876年の日朝修好条規の締結の頃から、朝鮮への侵出に関心をもっていました。

これは渋沢自身が植民地支配を志向したというより、新たなビジネスの地として見ていた向きがあります。

(編注)日清・日露戦争後の1910年、韓国併合により朝鮮半島は植民地となった。島田昌和(経営史)は、第一国立銀行の朝鮮侵出を「日本の朝鮮半島への経済進出の大きな足がかりとなり、植民地化を導くものであった」(『渋沢栄一 社会起業家の先駆者』)と指摘している。2019年4月、渋沢が新紙幣のデザインに採用されると、韓国では「日本の新紙幣の人物は経済侵奪の張本人」(ハンギョレ新聞、2019年4月10 日・朝日新聞より)などと批判的に報じられた。

——一方で渋沢は、第一次世界大戦後、その反省から国際連盟の精神を達成する目的で各国につくられた「国際聯盟協会」の会長になりました。

1926年11月11日には、第一次世界大戦の休戦から8年の記念日にラジオで世界平和を訴えています。その中でも渋沢は自らが大切にしてきた儒学の教えを引いて、道徳心からの平和を説いています。

渋沢の肉声は、東京都北区飛鳥山の渋沢史料館でその一部を聴くことが出来ます。以降1929年まで、最晩年の渋沢にとっての毎年の恒例行事となりました。

国際間の経済の協調が、連盟の精神をもって行はるるならば、決して一国の利益のみを主張することはできない。他国の利害を顧みないということは、正しい道徳ではない。

いわゆる共存共栄でなくては、国際的に国をなしていくことはできないのであります。

経済の平和が行われて、始めて各国民がその生に安んずることができる。

而(しこう)してこの経済の平和は、民心の平和に基(もとい)を置かねばならぬことは、申すまでもありません。

他に対する思いやりがあって、即ち自己に忠恕(ちゅうじょ)の心が充実してはじめてよく経済協調を遂げ得るのであります。

中庸に「誠者天之道也誠之者人之道也」という警句があります。いかにも天は昭々として公平無私で、四季寒暑みなその時を違えず、常に誠を尽して万物を生育しておりますが、人間はこれに反して互いにに相欺き相争い、この天の誠を人の道とすることを忘却しているのは、実に苦々しい限りであります。

どうぞ前に申した通り、一人一国の利益のみを主張せず、政治経済を道徳と一致せしめて、真正なる世界の平和を招来せんことを、諸君と共に努めたいのであります。
(1928年11月11日「御大礼に際して迎ふる休戦記念日に就て」)

(編注)「中庸」:
儒教の経典「四書五経」のうち「四書」の一つ。

——こうした渋沢の訴えは実らず、1931年9月には満州事変が勃発。日中の対立は決定的となり、中国との十五年戦争へと突入します。

この年に中国で大洪水が発生すると、渋沢は義援金を集めました。ただ、中国側は満州事変を受けて、やむを得ず支援を断っています。

(左)渋沢の訃報を伝える新聞記事。(右)死の数日前、渋沢のために大勢の見舞客が訪れたことを紹介する記事。

(左)渋沢の訃報を伝える新聞記事。(右)死の数日前、渋沢のために大勢の見舞客が訪れたことを紹介する記事。

(左)1931年11月11日東京朝日新聞、(右)1931年11月2日読売新聞

——満州事変の2カ月後、渋沢は91歳でこの世を去りました。この後、日本は渋沢が思い描いた方向とは真逆に進んでいきます。

渋沢の没後、日本は戦時体制へと移り、国際社会からはますます孤立していきます。やがては太平洋戦争へと突入しました。

戦時下で財閥系の企業の影響力が拡大する中、渋沢の存在も戦争を通じて薄れていった面もあると思います。渋沢の『論語と算盤』のうち、「論語」である道徳も薄れていった。戦後も一般的な知名度は必ずしも高いとは言えない状態が続きましたから。

当の渋沢本人は、死の床に際して「100歳まで生きて奉公したい」と語っていました。

私は帝国民としてまた東京市民として、誠意ご奉公をして参りました、そしてなお百歳までも奉公したいと思いますが、この度の病気では最早再起は困難かと思われます。

しかしこれは病気が悪いので私が悪いのではありません。たとえ私は他界しても、皆さんの御事業と御健康とをお祈りし守護致します。どうか亡き後とも他人行儀にして下さいますな。
(1931年​​11月8日、「竜門雑誌 第五一八号 病状(二)」)

渋沢の葬儀の日のこと。棺を乗せた車が走った沿道は数万の人で埋め尽くされたそうです。渋沢を慕う人が、少なからずいたことを伝えるエピソードですね。

仮に100歳まで健在だったのなら、日米開戦前夜の1940年まで生存していたことになります。もしかしたら、また日本が歩んだ道は違ったかもしれない……と、つい想像してしまう。そんな不思議な魅力が、渋沢にはあったのかもしれません。

編集後記(後編):近代アジアの激動期と重なる渋沢栄一の生涯

青年期から晩年までの渋沢栄一のポートレート。渋沢史料館の絵葉書より。

青年期から晩年までの渋沢栄一のポートレート。渋沢史料館の絵葉書より。

撮影:吉川慧

渋沢の人生は、近代アジアの激動期と奇しくも重なる。生まれ年の1840年は中国最後の王朝・清朝がイギリスと戦って敗れた「アヘン戦争」勃発の年。亡くなった1931年には、日本の中国侵略の契機となった「満州事変」が勃発した。

列強と渡り合うため日本の富国強兵が進められた時代。先見性に優れた経済界の大御所も帝国主義・植民地主義を止めることはできなかった。こうした点を渋沢の「限界」と指摘する意見もある。

渋沢の没後、日本は大きな岐路に立った。1932年には満州国の成立、五・一五事件。33年には国際連盟を脱退。次第に国際的な孤立を深め、軍国色が強まっていく。

世界に目を向けると、1933年にドイツでナチスが政権を獲得し、アドルフ・ヒトラーが首相に就任。一方、アメリカではフランクリン=ルーズベルトが大統領に。渋沢の死から6年後の1937年、盧溝橋事件を発端に日中戦争へと突入した。

世界は刻一刻と第二次世界大戦へと近づき、渋沢が心血を注いだ経済界を中心とした民間外交は頓挫。重要視していた日本と米・中の関係はもはや修復不可能に。そうして行き着いた先が、76年前の8月15日だった。

渋沢が生きた時代をいま一度ふりかえることは、「過ち」を繰り返さないためにも大切な試みだ。

大河ドラマなどで渋沢に注目が集まる2021年。彼が晩年にラジオで人々に語りかけた平和への言葉は、今の世界にどう響くだろうか。(文・吉川慧

杉山里枝(すぎやま・りえ):1977年生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。三菱経済研究所研究員、愛知大学経営学部准教授等を経て、現在は國學院大學経済学部教授。専門は近現代日本経済史・経営史、比較経営史。著書に『戦前期日本の地方企業』(日本経済評論社)、『日本経済史』(共編、ミネルヴァ書房)、『はじめての渋沢栄一』(共著、ミネルヴァ書房)など。

<▼前編では経済人としての渋沢の業績・哲学と社会福祉での功績について杉山教授に聞きました▼>

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