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日本発「ピクトグラム」が世界に通用した理由を、初代デザイナーに聞く ── 「信念を持たないことが信念」

原田維夫氏

東京五輪で初めて使用された初代ピクトグラムのデザイナーに25歳で抜擢された、原田維夫氏。現在は版画家として活動している。

撮影:夏野久万

閉会式をめぐる相次ぐ辞任・解任など、いわくつき扱いで開催された2020年東京オリンピック・パラリンピック大会(以下、東京2020オリンピック)。

その中で、明るい話題を振りまいたのが「ピクトグラム」(絵文字)の存在だ。

今回もそうだけど、最近のピクトグラムはすごいよね。とても分かりやすい」と語るのは、1964年の東京オリンピック・パラリンピック大会(以下、東京1964オリンピック)で、施設のピクトグラムデザインの開発に携わった、版画家の原田維夫(つなお)氏(82)だ。東京1964オリンピックは、ピクトグラム初の国際大会での使用でもあった。

ピクトグラムをめぐって、半世紀超をつなぐ、どんな物語があったのだろうか。

25歳でピクトグラム開発デザイナーに大抜擢

開会式パフォーマンスで最初に描き出されたのが、原田氏が手がけた版画だ。

動画:Olympics

東京2020オリンピックの開会式、ピクトグラムの紹介パフォーマンス前。テーブルを囲み、ピクトグラムの制作をしている人たちの版画が大きく映し出され、そこから歴史が動き出す ── 。

そんな演出を覚えている人も多いだろう。

この「始まりの1シーン」の元原画を製作したのが、25歳で「初代ピクトグラム(当時はシンボルと呼ばれていた)」の開発デザインを手がけた原田氏だ。

原田氏は現在は版画家として活動しており、宮城谷昌光や宮部みゆきなど有名作家の挿絵も担当。版画の世界観を生かしたLINEスタンプは根強い人気を得ている。

がんばるカエルくん

原田氏によるLINEスタンプ「がんばるカエルくん」。やさしくほっこりしたタッチが印象的だ。

撮影:西山里緒

そんな原田氏が、ピクトグラム開発に関わるようになったのは、東京1964オリンピックが開催されるおよそ半年前のことだ。

原田氏は当時、それまで勤めていた広告代理店「日本デザインセンター」を退職。「日本電信電話(NTT)」のロゴマークデザインなどで知られる亀倉雄策氏が率いる会社だ。

スクリーンショット

亀倉雄策氏が手がけた東京1964オリンピックの大会エンブレム。「史上最高の五輪エンブレム」として高い評価を受けている。

Yusaku Kamekura, CC BY-SA 4.0 via Wikimedia Commons

先輩のイラストレーターである宇野亜喜良氏と、現在は世界的な芸術家として知られる横尾忠則氏の3人で、銀座のイラストレーション会社「スタジオ・イルフィル」を立ち上げたばかりだった。

そんな「新鋭気鋭のイラストレーター」が集まる彼らの会社に、東京1964オリンピックのアートディレクターで、美術評論家の勝見勝氏から、大会の施設用ピクトグラムの開発を手伝ってほしいと連絡が来たのだという。

デザイン界の大御所が勢揃い

ロフトや無印

当時のピクトグラム開発者の中には、のちに誰もが知るロゴを手がけることになる田中一光氏も参加していた。

撮影:西山里緒

いざオリンピックのピクトグラム開発チームに参加してみると、原田氏の師匠であり、のちに「無印良品」「ロフト」のロゴや西武百貨店のショッピングバッグのデザインを手がける田中一光氏や、競技のピクトグラムをすでに完成させていたデザイナーの山下芳郎氏らの姿があった。

憧れていたデザイン界の大御所が勢揃いしていて、嬉しかったですね」(原田氏)

総勢11名。当時集まっていたメンバーが後に手がける作品は、誰もが知るロゴデザインや芸術作品ばかり。今やデザイン・アート界の巨匠として知られる面々だが、多くは当時、20~30代だ。

ちなみに東京2020オリンピックで新ピクトグラムを手掛けた開発チームの中心メンバーは、1954年生まれのグラフィックデザイナー、廣村正彰氏。なんと田中一光氏が日本デザインセンターから独立して立ち上げた「田中一光デザイン室」に所属していた人物だ。

2020年のピクトグラムは、1964年のピクトグラムを参考にしつつ開発したのだという。

ボランティアでピクトグラム開発

原田氏

「先輩たちのアイデアを見るのが、とても面白かったです」(原田氏)

撮影:夏野久万

1964年当時、原田氏が呼ばれた「施設のピクトグラム開発」の仕事は、完全なボランティアで行われた。無償で毎週1回集まり、デザインの素案を考えていく。

会議室のテーブルには、山積みのわら半紙と、2Bの削られた大量の鉛筆。当時はパソコンはなかったため、すべて手作業だった。

勝見氏が1日2つずつ、「トイレと電話」といったテーマを用意し、みんなが一斉に同じピクトグラムのデザイン素案を描いていく。1つのテーマが終わると、担当者がサッとわら半紙を回収し、お弁当タイムをはさんで、もう1テーマが始まった。

当時ピクトグラムは「シンボル」と呼ばれ「外国から来た人にひと目でわかるように、シンボリックなものにしてください」と勝見氏から依頼されていた。原田氏はとにかく分かりやすさにこだわったという。

「最年少のぼくが、一番得したかもしれないですね。先輩たちのアイデアを見るのが、とても面白かったです」(原田氏)

1964年時には対価が支払われなかったという「五輪のピクトグラム」。なお、今回のオリンピック大会後、SNSで「東京2020競技ピクトグラムの開発に係る業務委託」の入札結果が話題になった。

契約金額に記された「3258万7500円」が、クリエイターの対価として妥当かと議論を呼んだのだ。

お金には代えられない体験をした、と当時を振り返る原田氏だが「たとえ無償でも、入場券くらい欲しかったなあ」と繰り返していた。

「オープンソースの思想」が広めたピクトグラム

2008

2008年の北京五輪時、北京の天安門広場に設置されたピクトグラムの像。

REUTERS/Jason Lee

ピクトグラムは東京1964オリンピックから世界に広がり、現在はさまざまなかたちに進化。街のいたるところで使われている。

多くの場所で使われるようになった理由の一つとして、東京1964オリンピック時、勝見氏が著作権の放棄を進めたことが挙げられる。著作権を放棄してオープンソースとなったピクトグラムは、好きなようにみんなが作り替え、活用できるものに進化した。

「今回の東京五輪後にSNSで話題となった、ママピクトグラム。あれもうまいよね。ああいうのも、オープンソースになっているから広まったんでしょうね」(原田氏)

一方で、原田氏にとっては、五輪後の生活の変化は、意外にも「何もなかった」ともいう。

完全なボランティアで携わったうえ、オリンピックも見ることが出来なかった。そのためピクトグラムがどのように使われたのかも、分からなかったというのだ。

「おれがおれが」と主張しすぎない美学

リオ五輪

写真は、リオ・オリンピック1000日カウントダウンでピクトグラムを掲示する一幕。

REUTERS/Sergio Moraes

「ピクトグラムはひと目見て、何か分からないといけない。いかに主張するか、その主張のかたちが一番きれいで、ダイレクトに目に焼き付かなければいけない」(原田氏)

ピクトグラムの難しさについて、原田氏はそう語る。

実際に原田氏が手がけたピクトグラムや版画の作品は、ひと目見れば頭に強烈に残る、インパクトの強いものだ。

しかし意外にも、原田氏のライフワークとして現在に至るまで手がけている版画では「主張しすぎない」ことをモットーとしている、という。

原田氏が手がけた版画「1964年東京オリンピック、デザイン部・シンボル部会のある一日」。

原田氏が手がけた版画「1964年東京オリンピック、デザイン部・シンボル部会のある一日」。

取材者提供

「ぼくの絵は、アイキャッチャーだと思っているんです。新聞の連載小説の挿絵では、ぼくが不思議な絵を描けば、なんだろうと視線をとめてくれる。そうすると小説も読みたくなるじゃないですか」

「とくに版画は、塊(かたまり)で見えるので、下段の広告に負けない存在感があります。主役は小説という意識で『おれがおれが』と主張しすぎないように心掛けていますね」(原田氏)

あくまでも版画は、主役の良さを伝えるための「手段」。だからこそ、原田氏の作品はどんな人にも抵抗なく、すっと受け入れられる。

「絵描きなら自分の信念を持ち、自己主張をしていかないといけない。けれど、ぼくの版画の仕事は、それが邪魔になる。だから信念を持たないことが信念。ふわっとその場に合わせて、どんな球でも打ち返す。やわらかくいるのが大切ですね

そうした“美学”は、オープンソースという翼を持って軽やかに東京から世界へと羽ばたいた、ピクトグラムにも底通しているように思われた。

(文・夏野久万)


※こちらの記事は、2021年7〜8月にBusiness Insider Japanが開講したBIスクール「編集ライタープロ養成講座」の受講者が、編集部のディレクションのもとに取材・執筆したものです。

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