8月22日、サンフランシスコ49ersの試合観戦を楽しむ人たち。アメリカではコロナの世界から日常に戻る動きが増えている。写真は、カリフォルニア州イングルウッドにあるSoFiスタジアムにて。
Jayne Kamin-Oncea-USA TODAY Sports
こんにちは。パロアルトインサイトCEO・AIビジネスデザイナーの石角友愛です。今回は、アメリカで加速する「エッセンシャルワーカーの労働力需要に追いつかない採用問題」に企業がどのように立ち向かっているかについてです。
アメリカでは、日本と同様にコロナウイルスの第5波が来ていると言われており、ワクチン接種をしていない人を中心に感染がさらに広がっています。
一方で、9月の新学期を前に、色々なことがノーマルに戻りつつあるのも事実です。例えば、教育機関は、小学校から大学まで、9月から通常授業を再開するところが多く、今までは自宅からリモート学習をしていた私の知り合いの大学生も、今週にはキャンパスに戻ると言っていました。
コロナ後のアメリカ社会で浮上する「働き手問題」の解決策
このように、ノーマルに戻りつつあるアメリカ社会において、飲食業界やリテール(小売業)の働き手の需要は再び増えています。しかしその反面、供給側の人手がそれに追いつかないという問題が顕在化しています。
この背景には、解雇されたエッセンシャルワーカー達がまだ失業保険などをもらっている最中で市場に出てきてくれないことや、売り手市場の中でより良い仕事の可能性に気がつき、元の職場に戻って来なくなっているという状況があります。
例えば、ワシントンポストは以下のように報じています。
アメリカでは何百万もの人々が仕事を辞めようとしていますが、その中でも小売業は退職者の増加率が最も高い業種であり、4月には約64万9000人もの小売業の従業員が退職届を提出しました。これは、労働局が20年以上前にこのようなデータの追跡調査を始めて以来、1カ月間の退職者数としては最大です。
一部の人は、保険代理店、銀行、地方自治体など、これまでより賃金や福利厚生が充実していてストレスの少ない仕事を見つけています。また、新しい仕事を学ぶために学校に戻ったり、子供の保育園を確保できるまで待っている人もいます。
テネシー州マーフリーズボロに住む23歳のエイスリン・ポッツさんは、執筆や芸術に専念するために、時給11ドルの全米規模のペットチェーン店の水生生物専門家の仕事を辞めましたが、その理由についてこう述べています。「パンデミックの時期、労働環境は本当に悲惨でした。その時気が付いたのです。“将来性のない仕事をしていては、人生がもったいない”と。」
時給11ドルというのは、連邦政府が定める最低賃金の時給7.25ドルよりは高いですが、私が住むカリフォルニア州では、パンデミック前からリテールや飲食業界で働く人の賃金を上げることを定める条例などが多く出ていました。
2021年2月21日のサンフランシスコ市庁舎。
REUTERS/Brittany Hosea-Small
例えば、2021年の7月にはサンフランシスコ市の最低賃金が以前より25セント引き上げられ、現在は16.32ドル(日本円で約1800円)になっています。それでも、物価が高騰しているサンフランシスコ市では足りないという議論が多く、中には「28ドルまで引き上げないとサンフランシスコで必要な生活費はまかなえない」という意見も出ています。この賃金問題は、今後も飲食業界やサービス業界の利益率を圧迫することになりそうです。
例えば、タコスやブリトーのチェーン店であり、約2900の店舗を所有・運営するチポートレは、5月に従業員の時給を平均15ドルに引き上げると発表しました。さらに、各職務における経験豊富な従業員には昇給を割増しすることを約束し、時給制のマネージャーには平均して1時間あたり2ドル程度、また給与制のマネージャーにはそれに見合った昇給を実施しました。
チポートレのメニュー。アメリカではメジャーなファストフードチェーンだ。
REUTERS/ Shannon Stapleton
このことから、時給アップは単に新規従業員だけに提供すればよい特典ではなく、既存社員の離職率を抑えるためにも全社の取り組みとして行う必要が出てきていることがわかります。
また、従業員への昇給は企業だけでなく、消費者にとっても大きな影響があることを忘れてはいけません。
事実、7月にはチポートレの最高財務責任者であるJohn Hartung氏が、メニュー価格を3.5〜4%引き上げたと発表しました。また、同氏によると、チポートレの人件費は、第2四半期の総売上高の24.5%から、第3四半期には26%強に上昇する見込みであるとのことです。
小売業界の「働き手に戻ってきてもらう」施策
アメリカの大手小売チェーンのターゲット。
Getty Images/Justin Sullivan
他方、リテール業界では、1人でも多くのエッセンシャルワーカーに戻ってきてもらうため、時給アップ以外にも様々な特典を打ち出し、採用に力を入れています。例えば、アメリカの小売り大手のターゲットやウォルマートは、従業員の大学の学費を100%支払い、再教育を支援すると発表しました。
ターゲットやウォルマートと提携して新しい教育サービスを提供するギルド・エデュケーションのCEOであるレイチェル・カールソン氏は、
「企業として際立った存在になり、人材獲得競争に勝つためには、従業員の教育とスキルアップが重要であることを雇用主が認識する時代になったのです」(カールソン氏)
と語っています。
中でも、ターゲットの学費支援プログラムは今までで一番手厚い内容になっており、高校修了のGEDプログラム、学部の資格取得、修士号取得に向けた最大1万ドルの費用などが含まれるとのことです。
さらに彼女は、
「借金をせずに取得できる大学の学位に注目が集まる一方で、高校修了プログラムもまた、18歳の時点で高校を修了する機会を得られなかったアメリカ人にとっては重要です」
と語っています。
「このプログラムは修士号にまで及んでいますが、特に高校と大学の構成要素は、第一線で働く多くの人々が学ぶ機会を必要としていることを際立たせているのです」(カールソン氏)
また、ギルドと名付けられた同社のホームページでは、企業の戦略に合わせた形で再教育プログラムを提供することを明確にしており、従業員の再教育やスキルアップに投資をすることで、結果的に平均して2.8倍ものリターンが企業にもたらされると書かれています。
アメリカ企業の経営戦略としての「再教育プログラム」需要
このギルド・エデュケーションのように、企業向けに再教育プログラムを開発、提供するプラットフォームが現在注目されています。
これは今までのように、MOOC(Massive Open Online Course、大規模な公開オンライン講座)を従業員に無料で提供するのと何が異なるのでしょうか?
従来の「Coursera」や「Udemy」のようなMOOCは、B2Cの教育プロダクトとして「誰もが空き時間を見つけて学びたいスキルを学べる」という意味ではとてもよいものです。
しかし、従業員側が自発的に学びたいコースを見つける必要があるという点でハードルがやや高い面があります。結局のところ、受講するのは学習意欲や時間的な余裕がある層に限られてしまう点が課題でした。
また、従業員が受講したコース内容が必ずしも「企業が今すぐ必要とするスキルセット」と一致しているとは限らず、プログラムの内容を企業がカスタマイズできないという壁がありました。
ギルド・エデュケーションの公式サイトより。
出典:Guild Education
このようなニーズを受け、シリコンバレーのトップアクセラレーターであるY Combinatorの今期のバッチ(注:期間を区切って支援するスタートアップを絞り込んだ一群のこと)のスタートアップの中でも、企業向けに「社員育成、リカレント教育を進めるためのプラットフォーム」を提供するLernitというラテンアメリカ発の会社が注目されています。CEO兼創業者のSantiago Maldonado氏は、インタビューで以下のように述べています。
「大学を卒業したとき、最大の学習プラットフォームであるCourseraやUdemyなどのオンデマンドコースで学んだことと、実務で行うことの間には大きなギャップがあることに気づきました。そして、このことこそ、企業が従業員に対して仕事で使える価値あるスキルを学ばせることができる、Lernitを設立する大きなチャンスだと考えました。」
MOOCで教わるスキルと企業が必要としているスキルにギャップがあるという点に注目が集まり、最近ではEdTechやHRTechの動きも、個人よりも企業に対して売り込むプロダクトを増やす方向へシフトしている傾向が見られます。
これは、リカレント教育よりも企業研修に近いとも考えられます。ターゲットやウォルマートのような大企業の狙いは、社員のモチベーション維持やリテンション強化にとどまらず、彼らに企業特有のスキルセットを学ばせることで経済的リターンを生み出す、という経営戦略にまで及んでいるのです。
「時給を上げる」だけでは人は戻ってこない
今まで、アメリカの小売りや飲食業界は、店頭で働く従業員たちにサービス提供を依存しているにも関わらず、安い賃金や過酷な労働環境の中で、明確なキャリアアップなどの道のりも提示してきませんでした。その結果、コロナを機に従業員側がより良い機会を求めて離れていってしまいました。
これに対し、時給をその場しのぎで引き上げても、長期的な雇用関係につながる可能性は低いと言わざるを得ません。今後は、エッセンシャルワーカーがやりがいを感じられる職場を作ったり、再教育を全面的に企業側が提供し、キャリアアップの道を作ることが大事だと考えられます。
最低賃金の引き上げに関する議論は日本でもなされており、今年7月には、全国平均で28円を目安に引き上げ930円にすることが決まったばかりです。コロナを契機に、エッセンシャルワーカーの重要性が今まで以上に明確になったことで、世界中で様々な議論が活発になることが予想されます。
(文・石角友愛)