「新型コロナウイルス対策が最優先」として9月末での退陣を表明した菅義偉首相。日本の足踏みが続くなか、欧米諸国との経済格差が拡大している。
REUTERS/Issei Kato
世界の金融市場では、金融政策の正常化着手をほのめかす米連邦準備制度理事会(FRB)の一挙手一投足に注目する状況が続いているが、ここに来て欧州中央銀行(ECB)の政策も注目を集め始めている。
8月末から9月初頭にかけて、フランス、オランダ、オーストリア、ドイツの中央銀行総裁が立て続けに量的緩和の柱である資産買い入れ施策「パンデミック緊急購入プログラム(PEPP)」の段階的縮小(テーパリング)を示唆した。
9月9日に開催予定のECB政策理事会に向けた事務方レベルの議論はすでに始まっているだろうから、何らか縮小方向の措置を検討している可能性が高い。
そうしたさなか、8月31日に発表されたユーロ圏8月消費者物価指数(HICP、総合ベース)は、前年比プラス3.0%(以下、特に断りない限り前年比)と、2011年11月以来約10年ぶりの伸び率を記録している。
市場予想の上限を超える数字で、これまでのような「一時的な伸び」という見方では説明するのが難しくなっている【図表1】。
【図表1】ユーロ圏消費者物価指数(HICP)の推移。コア(黒の太線)はエネルギー・食品・アルコール飲料・タバコを除く。
出所:Datastream資料より筆者作成
(直前の)7月分までは、エネルギー、食品、アルコール飲料、タバコを除いたコアベースの物価指数の伸びがプラス1.0%を割り込んでいたことから、「あくまで(変動の激しい)エネルギー価格に引きずられた動きという整理もできた。
ところが、今回発表された8月の数字はコアベースでもプラス1.6%、2012年7月以来およそ9年ぶりの大きな伸びで、ECBにはとってもはや無視できない動きと言っていい。
物価上昇を「一時的」「限定的」と言い切れない状況
こうした欧州の物価上昇について、内訳ごとの寄与度を見ると、プラス3.0%(総合ベース)のうち、半分にあたる1.5%ポイントは「エネルギー」で、この部分は今後(エネルギー価格の下落を受けて)剥落する可能性もある。
また「エネルギー以外の鉱工業財」も0.7ポイントと比較的大きな寄与度を持つ。項目ベースでは前年比プラス2.7%と、過去最大の伸び幅を示している。世界的な供給制約がエネルギーにとどまらず幅広い財の価格に影響をおよぼしている様子がうかがえる。
そのほか「サービス」の寄与度もプラス0.5ポイントで、項目ベースでは前年比プラス1.1%を記録しており、(サービス価格の大半を占める)賃金への上昇圧力も増していることが推測される。
サービス物価の持ち直しには、欧州の観光需要の持ち直しが影響している可能性がある。
総合ベースで前月比の差分(伸び)を国別に見ると、フランス(プラス1.5%→プラス2.4%)、イタリア(プラス1.0%→プラス2.6%)、オランダ(プラス1.4%→プラス2.7%)、ベルギー(プラス1.4%→プラス4.7%)、 アイルランド(プラス2.2%→プラス3.1%)など、欧州全域にわたって物価上昇が広がっていることからも、そのことは想像がつく。
ちなみに、ドイツは2020年7月から半年間、付加価値税(日本で言う消費税)を時限的に引き下げていたため、2021月7月分以降のHICPは技術的に高めに出やすくなっている。
ECBはそうした一時的要因と非一時的要因を正確に切り分けつつ、量的緩和縮小のサジ加減を決めなければならない難しい状況にある。
供給制約は年内いっぱい続くとの見方もあるなか、そのくらい持続する物価上昇を「一時的」(ゆえにPEPP縮小は時期尚早)とみるべきかどうかも議論が分かれるだろう。
いずれにしても、供給制約などを背景にインフレ圧力が残りそうな状況のもと、資産購入のペースを緩める程度の決断は十分に考えられる。
日本と欧米の「物価格差」がハッキリしてきた
ここからは日本に目を向けてみたい。
筆者は過去の寄稿で、株式市場や為替市場において「日本のひとり負け」が鮮明になっていることをくり返し指摘してきた。
GDP成長率の動きがそのまま資産価格に反映されたと理解できるが、ここに来て物価までGDPに呼応していることが明確になってきた。
(日米欧の比較が可能な最新データの)7月消費者物価指数(CPI)で比較すると、ユーロ圏のプラス2.2%、アメリカのプラス5.4%に対して、日本はマイナス0.3%となっている【図表2】。
【図表2】日米欧の消費者物価指数(CPI)の推移。
出所:Bloomberg資料より筆者作成
参考まで、過去3カ月平均でも比較してみると、ユーロ圏のプラス2.0%、アメリカのプラス5.3%に対して、日本はマイナス0.5%。過去6カ月平均だと、ユーロ圏のプラス1.7%、アメリカのプラス4.1%に対して、日本はマイナス0.6%。
率直に言って、日本と欧米の物価の間には、同時代の先進国経済とは思えないほど大きな開きがある。
早期のワクチン接種が経済活動の早期再開に直結している現状からすれば、景気動向を数カ月から半年ほど遅れて反映する(=遅行指数である)物価に差が出るのは当然ではある。
しかし、いまやワクチン接種の進捗だけで物価の低迷を説明するのは難しいことがわかってきた。
なぜなら、日本もすでに部分接種率(=1回以上接種した人の割合)は60%弱(9月1日時点で57.89%)まで迫っており、アメリカの経済再開直前にあたる4月初頭(30%前後)に比べれば倍の数字だし、同時期のEU(12%程度)をはるか上回る。
菅首相は9月3日に退陣を表明しているが、半年足らずでこの状況に引き上げるまでのワクチン調達、接種態勢をつくり出したことは功績に数えていいだろう。
ただ、そうした接種率の追い上げがあったにもかかわらず、2021年第2四半期(4~6月)のGDP成長率(前期比)はアメリカのプラス1.6%、ユーロ圏のプラス2.1%に対し、日本はプラス0.3%だった。
日本の冴えない成長率や物価、資産価格を、ワクチン接種率だけに起因させるのは無理筋だ。
結局、欧米では「高いワクチン接種率」という手段をもって「経済を回す」という目的が達成されているのに対し、日本は「高いワクチン接種率」という手段が目的化し、経済は相変わらず自粛三昧が続いている。
周知の通り、日本ではワクチン接種率が高まっても商業施設の時短、飲食店の禁酒、教育機関のオンライン対応(ないし休校措置)に執心している。人流が増えればメディアがこぞって「〇%増えた」と批判的に報じる。民間部門の消費・投資意欲が焚きつけられることはない。
デルタ変異株の感染力が強いから仕方ない、との指摘は一面の事実だが、それでもパフォーマンスを発揮している欧米経済を見れば言い訳にはならない。
ウイルスとの共存を選んだイギリスのアプローチを「ギャンブル」と揶揄(やゆ)する風潮もあるようだが、さしたる妙手もなく低成長に甘んじる日本の現状こそ、出口のない迷路で体力を消耗するだけのギャンブルではないか。
次期首相が誰になるのか本稿執筆時点ではまったくわからない状況だが、ワクチン接種についてすでに一定の成果が得られたいま、経済再稼働のカギを握る医療体制の拡充について大きな変化を期待できないなら、誰がやっても菅首相以上の結果は残せないと考えるのが自然だろう。
であれば、日本だけいつまでもコロナが終わらないことを前提に、GDPや物価、資産価格などあらゆる計数の予測を立てるべきだと筆者は引き続き考えている。
※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です。
(文:唐鎌大輔)
唐鎌大輔(からかま・だいすけ):慶應義塾大学卒業後、日本貿易振興機構、日本経済研究センターを経て欧州委員会経済金融総局に出向。2008年10月からみずほコーポレート銀行(現・みずほ銀行)でチーフマーケット・エコノミストを務める。