社会学者の富永京子さんとジャーナリストの中野円佳さんがハッシュタグ・アクティヴィズムの功罪について語る。
REUTERS/Issei Kato
#MeToo に象徴されるようなハッシュタグ・アクティヴィズムは、東京五輪をめぐる関係者の相次ぐ辞任・解任や、検察庁法改正案への反対など、近年日本でも盛んになっています。一方で、SNS上の動きが十分に検証されないまま大手メディアで報じられたり、主張のぶつかり合いが分断を引き起こしたりと、課題も見え隠れします。
自分の意見を言うことに躊躇する人へ“わがまま”から始まる社会運動を説いた「みんなのわがまま入門」の著者で、社会学者の富永京子さんに、SNSを使った取材活動を続けるジャーナリストの中野円佳さんが、ハッシュタグ・アクティヴィズムの功罪について聞きました。
前編はこちら。
#MeTooで感じた連帯の可能性
中野: #MeToo の動きや、今回の五輪も五輪組織委員会の森喜朗前会長の「女性は話が長い」発言など近年、SNS上でさまざまな立場の女性が一緒になり発信するようなムーブメントが起きています。女性や相対的に弱い立場にいる人たちにとって、この5年、10年のポジティブサイドとしての「わがまま」、声を上げていく動きをどう捉えていらっしゃいますか。
富永:ポジティブなサイドの「わがまま」、つまり声を上げることの積極的な効用がどう変化してきたのかという点でいうと、私はもともと社会運動論の個人化とか、流動化を強調している論者です。
かつては女性であるとか、同年代であるとか、労働者であるといった「集合的アイデンティティ(自分はこの集団の一員だという認知)」が社会運動を支えていた
でも今、同じ女性だ、同じ労働者だという観点から運動を立ち上げようとしても、立場も生活の境遇もばらばらですから、それだけで連帯を感じる人というのはなかなかいないでしょう。
では、集合的アイデンティティが崩壊したあとに社会運動を、個人同士でどうつなぎ直しながら形成するかということを研究していたわけです。
その立場からここ数年で#MeToo を見たり、自分が女性として発信していても、同じ女性からの共感の声があるのを見たりすると、「まだ集合的アイデンティティが私たちをつないでいたんだな」ということを感じます。
ただ一方で、(キャリア女性と貧困女性のような)女女格差みたいなものがあることも忘れないようにしないといけないな、とも思う。声を上げることは大体今の時代SNSで行われるわけですから、それは、その声に共感した人しか、そもそも可視化されないわけですよね。
最近興味深い話を聞きました。
わりとキャリアを積んだ女性、専門職とか資格職になるでしょうか、そういう女性も業界の中で「#MeToo」みたいなムーブメントをするんだけれども、上の世代で同じ専門職や資格職になった女性から「私たちがわきまえたんだから、あんたもわきまえなさい」と言われてしまうことがあると。
そういう点で、同世代でもキャリアをめぐる横の分断があり、異世代で同じようなキャリアを歩んでいても縦の分断があるのかなと。
女性同士の対立はなぜ起こる
デモのような社会運動であればモノを言う対象が明確だが、SNSではより矛先が個人に向かって、個人同士がぶつかってしまう。
Shutterstock/sitthiphong
中野:確かにSNSでも、Twitter上で女性同士の対立が起こることもあります。 例えば毎年3月8日は「国際女性デー」ですが、この前後のTwitter上での発信を見ると、女性同士だからといって必ずしも共通した前提を共有できないこともあると感じます。
富永:国際女性デーは、特に新聞社やウェブメディアからの発信が多いですよね。
マスコミに勤めている女性ってまだ全然多くないし、平均収入から言っても相当上の方だし、福利厚生も充実している。そうした女性が先陣を切って声を上げると、企業の中で働く、正規雇用の女性の苦しみや社会進出みたいなものが表に来てしまいますしね。
もちろん、それが全部の女に当てはまるんだ、という言い方はしていないわけだけれども、あまりに大きい団結とか、上から集合的アイデンティティを押し付けられると、それはそれで引いてしまう、みたいなことがあるのではないでしょうか。
中野: SNSを通じて、#MeTooのように「女」というアイデンティティでつながれる可能性が見えてきた。ただその反面、デモのような社会運動なら、例えば政府に対してモノを言うなどクレームの矛先が明確ですが、SNSではより矛先が個人に向かって、個人同士がぶつかってしまうのかなと。
SNSというツールが出てきたことは、社会運動の流れとしてはどのように位置づけられますか。
富永:個人化、流動化の中でどうやってもう一度連帯するかというときに、「経験を共有していく」ということを主張する、「経験運動論」という議論があるんですよね。この経験っていろいろあって、運動の現場で何かを一緒に体験するみたいなものから、コミュニケーションして分かり合うみたいなものまでいろいろのようなんですけども。
#MeTooみたいな運動って、皆さん、ハラスメントの被害や、自分が遭ってきたマイノリティゆえの苦しみですとか、自分の体験を語りますよね。
SNSってパーソナルでありながらパブリックなツールなので、そうした「公的な運動なんだけど私的な語りを要する」という運動と相性がいいとは言えるのかもしれない。それをシェアしたり、リツイートしたりして、経験が共有される。
それには弊害もあるのかもしれないと私は思うのですが、恐らくはそういう、上から与えられるフレームではない、個々人の実感に基づく共感が#MeToo にあったんだろうと思います。
ただ、「国際女性デー」のように、毎年3月8日にやってきて、各媒体がこぞってインフルエンサーや有名人のインタビューを紹介する、というような形で作られる「連帯」のフレームは、乗り切れないような人が多くなるのかなと思います。
例えば 男性を巻き込んだ活動にしてはどうかという論点がありますが、そういう議論自体が、きっと男性から今まさに本当にセクシャル・ハラスメントを受けていたり、暴力で虐げられている人には届かないだろう、と思うのですよね。
もちろん、「男性を巻き込もうよ」という立場の人も、何らかの形では虐げられている。まさに中野さんの著書の『上司のいじりが許せない』のように、上司にいじられたり、からかわれたりしながら日々、組織の中でポジションを確保しようとしている。
元は同じ構造のもとにあるとは思うのですが、働き方や社会での立場によって現れ方が違うから、どちらかのフレームに必ずしも乗ることができない。
中野:そうですね。会社員、特に総合職女性の問題意識としては、やっぱり彼女たちの目の前にはそれはそれで強固な組織、男性中心の組織があって、それを変えるためにはその目の前のハードルをまず乗り越えて発信していかないといけない。
そこで男性も巻き込んで変えないと全く動かない、むしろ潰されてしまうという現実があるとは思うんです。
ただやっぱりその時に言い方を考えることや、見えている世界が違うことへの自覚は必要。組織の男性中心を崩していく戦い方と、目の前の被害からどう逃げて反抗するかの違いがそこにはある。
抗議型の運動の中で置き去られてしまうもの
2008年7月4日の札幌。「北海道洞爺湖G8サミット」に対する抗議活動の様子。
REUTERS/Issei Kato
富永:私は博士論文で、サミット抗議行動(サミット開催地に数千人、数万人規模でアクティビストの人々が集まり、政府関係者に対して、デモやキャンプ、シンポジウムなどの抗議活動を展開する)の研究をしていたのですが、いろいろな国で抗議行動が起こります。
どの国でもよく対立関係として捉えられるのが、「G7や閣僚会議も含めてうまくやっていこうよ」という、割と大きいNGOなどの、いわば協調型の人と、「うまくやるという選択肢がそもそもありえない。そもそもG7は敵で、閣僚も敵なんだから、それはやめてもらうしかないだろう」という全面的な抗議型の人がいて、この両者は基本的には相容れません。
それは女性の問題も同じなのかな、違うのかな、そのへんは悩んでいたりします。
中野: 『99%のためのフェミニズム宣言』という本があり、FacebookのCOOシェリル・サンドバーグさんの著書を挙げ、役員会の「内側に入り込む(リーン・イン)」ように促す企業フェミニズムのことを「1%のエリート女性の活躍が99%の女性のためにならない」と断じています。
私は今はフリーランスでありますが、取材や研究テーマとしてはどちらかというと、 企業の総合職の女性など1%の中の女性にも苦しさがあるということを言ってきたので、この本の著者たちには敵視されそうだなと思いながら読みました。今の整理で言うと、確かにこの本などは資本主義そのものが悪いという抗議型ですね。
富永:社会運動論のほんとに古典的な話なんですが、最初は社会運動って労働運動を指していた。
そこでは資本主義への対抗がやっぱり非常に大きなメッセージだったわけですけど、1960年以降に「新しい社会運動論」と呼ばれるような、つまり女性運動や移民運動のようなアイデンティティであるとか人権の運動が出てきました。
こういう運動は「豊かな社会だからできる運動」と言われることもある。こうした構造でいうと、『99%のためのフェミニズム宣言』は古いタイプの社会運動に分類されると思います。
ただ先行研究なんかで言われてるのは、古典的なタイプの社会運動の従事者って、人権とかマイノリティの運動を、「豊かな運動」といって揶揄することがある。これが何につながるかというと、社会運動の中で、女性やマイノリティを軽視してしまう。もう少し言及すると、ケア労働のような、マイノリティが担ってきたこまごまとした役割をある種劣位に置いて論じてしまう。
例えば、女性が生活の中で着飾らなきゃいけない、メイクしたりするのってたしかに、古典的な社会運動のメッセージからするとネガティブに見えるかもしれない。でも、女性がルッキズムにさらされる以上仕方ない性格があったり、そういうことがセルフケアになっている部分もある。そういうことを、少なくとも私は簡単には否定できません。
社会運動をテーマに研究する、立命館大学社会学研究科准教授の冨永京子氏。
撮影:滝川麻衣子
日本で消費者運動を担ってきたのは女性たち
中野: 『99%のためのフェミニズム宣言』の著者たちは資本主義の枠組み内で生き残ろうとすることを否定して、「弱い立場の人のことを考えて」と言うわけですが、安定した雇用にない私から見たら、その人たち自身はアカデミアというまた別の能力主義で勝ち上がった結果テニュア(終身雇用)を持っていて、すごく稀少な安定した立場にいるわけです。
どちらがより当事者に近いかという論争は不毛ですし、安定した立場にいたら弱い人のことを考えて発言してはいけないとは毛頭思いませんが、別の属性の中の多様性への想像力は持っていたい。
資本主義の中で闘っている1%の中にも、もしかしたら血を流しながらも何とかサバイブしようとしている人がいるかもしれない。それをしなくては生活がままならないかもしれないし、結果昇進していって会社の中で何かを変えようとしてる人もいるかもしれない。そこをよく見る必要はあるのではないかと思いました。
富永:消費者運動などは、資本主義に則ったうえで、財の質をよくしようという運動で、基本的に古典的な社会運動のアプローチからすると相容れないというか、ともすると「豊かな、生活に困らない人がやってきたんでしょ。そんなことより賃金の問題や再分配のほうが大事だよ」みたいな批判のされ方もある。
ただ、日本で消費者運動を担ってきたのは女性です。
その消費者運動の中で、例えば生活クラブなどで、当時としては恵まれていた専業主婦なりに自分たちの暮らしをよくしようとか、環境と自分たちの関係であるとか、あるいは家父長制をどう自分たちの生活領域から批判し、変えていくかといった問題意識があったわけですよね。
よく「生活も社会運動だと思っています」というと、古典的な社会運動を好む方からはそんなわけないだろうと言われるのですが、そういった生活の世界を守るということが、私はそんなにトリビアルな、つまらないこととは思わない。
中野さんのおっしゃるキャリア女性、エリート女性とは少し違うのかもしれませんが、消費者運動に参加していた専業主婦の方など、一見恵まれている人、困っていない1%の人も血を流している領域が確かにある。それでなんとかサバイブしようとしているというのはバカにできないことだと思います。
運動自体が男性中心的であると、それに対してなんとか抵抗していきたいという感覚は強いのかもしれないですね。
ともすると、社会運動って大きな、勢いのあるフレームにすぐ巻き込まれてしまう。なんだろう、デモクラシーの危機とか、アイデンティティの問題より再分配が大事とか、とくに男性の知識人の方やアクティビストの方がおっしゃる。
そこで取り残されているものや、「○○より」という形で下位に置かれたものが、私は気になっています。
そういう大きなフレームに乗らない微細な体験、経験みたいなものがまさに#MeTooにあったという言い方もできると思います。
インターネットの運動はマイノリティに向いている?
本来、個々人の経験や声を拾っていく立場のマスコミの人たち自身が発信するアクターになると、その役割を果たしにくくなるのかもしれないと中野氏は語る。
撮影:今村拓馬
中野:99%だろうが、1%だろうが、集合的アイデンティティでひとまとめにされがちなものについて、丁寧に中身を見ていく必要があると思っています。
カテゴリーとして、高学歴女性/総合職女性だったら、その人たちの言うことに反発するのではなくて、高学歴女性の中にもいろいろな経験や考え方がある。
もちろん、彼女たちの言動の中でも明確に他の女性を踏み台にしたり足を引っ張ったりして、自分の幸せを追求するような言動にはNOを言っていかないといけない。
ジャーナリストやマスコミは本来、個々人の経験や声を拾っていく立場。マスコミの人たち自身が発信するアクターになると、その役割を果たしにくくなるのかもしれません。
富永:ハッシュタグ・アクティヴィズムというか、オンライン運動の研究を読んでいて興味深かったのが、ハッシュタグ・アクティヴィズムって、それまで政治から排除されてきた人ほど有効感を高く感じるというお話です。
セルフエフィカシー(自己効力感)みたいなものが強くなると。そもそも参政権がない人もいるし、投票しても意味がないと感じる人が多いでしょうから。
そういう意味では、インターネットを使った運動は、マイノリティのための運動に向いていると考えられるのかもしれません。本来、既存の知識人やマスコミよりは、少数の弱者の人が使いやすいし、もちろん苦手な人は無理にしなくていいけれど、使いたいと思うなら、使っていいと思います。
一方で、今の運動を見ていて、ここが難しいな……と考えてしまうのは、皆、自分の素性や生活についてすごく語る。というか語らなければならない構造がある。つまり、共感を得るため、自分が苦しい状況だとわかってもらうためには、どれくらい苦しいかということを出さざるを得なくなっていると思うのです。
自分が夫婦別姓ができなくてどれだけ苦しいか、仕事を得るために性被害を受けてどれだけ辛かったかなど、自分の素性や経験を明らかにする。 より赤裸々なものが、共感され、バズる。
それぐらい経験を語らないと共感に至らない、それは私たちの想像力が欠如しているのか、まだなんとも言い難いのですけど、それは果たして個人にとって良いことなのかなと。
あるいは、私たちの側で共感というのを、あまりに社会運動において重視し過ぎなんじゃないかというのは、考えるところがあります。
シンガポール在住のジャーナリスト、中野円佳氏。
撮影:滝川麻衣子
中野:さきほど、弊害もあると仰っていたところですよね。
富永:そうです。集合的アイデンティティのいいところは、「女なのだから皆、職場での立場が低くて、例えば男性に比べて収入が低いよね」というような形で、属性と苦しみがある程度対応していたからこそ、語らずに済んだ部分、自己を明かさずにつながれる部分もあったのかなと。
そうした集合的アイデンティティが前のように機能しなくなったとき、私たちは一人ひとりの苦しみや辛さを媒介につながらざるを得ない。そのとき、個々人に経験を語らせざるを得ない構造があるのではないでしょうか。その「経験語り」に乗れない人が運動内で弱者というか、声が小さくなってしまう。
中野:より悲惨な経験をしている競争みたいにもなってしまう。私の立場からすると、声を自分では上げられない人の声を、その人が自分で発信しなくても、世に出していくのがメディアの役割なのかなとは思っています。
メディアにも研究者にも、当事者を代弁する、そんなことができるのかという問いは常にあるわけですが。
前半で議論したように、声を上げるときに短期的な成果だけを追い求めない、長期的評価に耐えるというところも含めて、メディアやSNS以外のプラットフォーム、日常の息の長い活動それぞれのできる特性を見極めてうまく活用していきたいです。
(取材・構成、中野円佳)