大企業の若手だった僕らが5年でできたこと、できなかったこと。そしてこれから

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ONE JAPAN 共同発起人の濱松誠さん(左)と山本将裕さん(右)。2021年9月で5年を迎えたONE JAPANのあゆみとこれから。

撮影:岡田清孝

5年前、それはひとつの事件だった。

2016年9月、年功序列の根強い日本の大企業の中から、会社の枠を超えて若手有志がつながるコミュニティ、ONE JAPANが誕生した。

パナソニック、NTTグループ、富士ゼロックス、トヨタ、ホンダ、富士通……と名だたる日系大企業から、停滞する日本の現状に風穴を開けようとする若手社員が集まり「自分たちの手で 会社を変えてイノベーションを起こそう 」と立ち上がったのだ。

大企業から新興ベンチャーへ若手の人材流出が話題になる中、あえて「大企業発」の新たな動き。東京都港区で開かれた発足式には大手メディア各社が集まり、閉塞感漂う日本経済に風穴を開けられるか?という期待と、「お手並み拝見」のニュアンスも込めて、全国区で報じられた。

5年の月日が流れた今、世界を覆ったコロナ禍によって、日本社会はDXの遅れが叫ばれるようになり、働き方や仕事の価値観も時計の針を早めて変化しつつある。

あれからONE JAPANは何を成し遂げ、何をなし得ず、ここからどこへ向かうのか。共同発起人・共同代表の2人に、現在地を聞いた(敬称略)。

沈みゆくタイタニックの“特等席の奪い合い”を超える

濱松 誠さんの写真。

「正直、そもそも5年で現状を一気に変えられるなんて思っていない」。

撮影:岡田清孝

「結局、ONE JAPANて打ち上げ花火やったんか、と言われることもあるし、実際、実力不足もあって期待に応えられなかったこともあります。 できたこともあればできなかったこともある。正直、そもそも5年で現状を一気に変えられるなんて思っていない

ONE JAPANの“顔”とも言える共同発起人の濱松誠(38)は、発足から5年を率直に振り返る。

バブル崩壊以降、20年以上にわたり日本経済は低迷してきた。1980年代には世界時価総ランキングトップ20を埋め尽くしていた日本企業は、2020年のトップ20には1社も入っていない。

アメリカや中国のビッグテックが台頭した2000年以降、日本にはGAFAMもバイドゥーもアリババも生まれなかった。閉塞感に塗り込められた日本社会で、大企業は時に「沈みゆくタイタニックの特等席の奪い合い」に例えられる。

それでもONE JAPANがあることで、(会社の壁を)越境して繋がること、若手もこういうことやれるんだ、 やっていいんだという一つのロールモデルを示せたと思っています。意識高い系と揶揄されることもありますが、ONE JAPANがあったからがんばれました、と言われるようになった」

たしかにタイタニックが5年で一変することはない。

それでもイノベーションや変革を求め、濱松たち若手・中堅がONE JAPANを立ち上げたことは、大企業中で時に悶々としがちな若手にとって、一つの着火点だったと言える。

実際に、こうしたONE JAPANに触発された若手・中堅社員の動きは、働き方改革という社会的文脈にリンクして相次いだと、共同発起人の山本将裕(34)は実感してきた。

この閉塞感を変えて行かなきゃいけないというカルチャーが、ONE JAPANが世に出たことで生まれた。これに勇気づけられていろんな活動が続いたというのはあると思います。副業で法人作ってもいいんだ、とか、ベンチャーに出向したいと手をあげるとか。(ONE JAPAN発で)企業同士のコラボレーションによる事業も生まれています」

越境するカルチャーの旗を立てた

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2019年、ONE JAPANメンバーによる集合写真。

提供:ONE JAPAN

この5年間、ONE JAPAN自体が活動に火をくべ続けてきた。

毎月第三土曜には100人規模でワークショップや情報交換の代表者会議を開催。新入社員イベントや意識調査の実施、アイデアを形にするハッカソンや共創プロジェクトを随時開き、新たな事業も生まれている。

  • ヒト型インターフェース「SHIRO-MARU」 / FUJIXEROX, McCANN, IBM, NRI, 東芝(2017年)
  • ドレスシェアリングサービス「CARITE 」/ 三越伊勢丹, 富士通, McCANN(2018年)
  • ONE JAPAN × 経済同友会シンポジウム  (2018年)
  • 女性をエンパワーするコーチングデバイス「魔法のコンパクト MAJICO」 / NRI, McCANN(2020年)
  • スマホから送れる“往復はがき”で祖父母孝行ができる「 マゴ写レター」 / 日本郵便, McCANN (2020年)

など……。

企業や組織、会社員という枠組みを「越境」し、発信するカルチャーこそが、ONE JAPANそのものと言える。

社会の流れと共に「自分たちも変わっていった」

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「ホワイトで安定した企業で給料もらえる…ではなくて、自分たちが引っ張っていくんだという覚悟はずっと持っていました」。

象徴的なのが、ONE JAPAN創設当時、パナソニックにいた濱松も、NTT東日本にいた山本も、実はこの5年の間に環境を変えている。つまり自分たちも「越境」していることだ。

濱松は、一連の動きの中心人物だ。

29歳の時にパナソニック内で若手を繋ぐOne Panasonicを立ち上げて社長や役員、ミドルマネジメントを巻き込んだ社内の繋がりを構築。社外ではONE JAPAN(2016年〜)を展開した。

その濱松は2018年、日本テレビ記者だった妻と一緒にそれぞれ会社を辞め、 2019年に夫婦で 世界一周の旅に出ている。約1年間の旅の終盤で世界はコロナ禍に見舞われ、早めた帰国後は、フリーランスで大企業やベンチャーのコンサルやコミュニティの仕事をしながら、ONE JAPANの活動をしている。

山本は2020年、NTT東日本を退社。しばらくフリーランスで複数社と仕事をした後に、縁のあったNTTドコモに入社。大手から大手への転職を経験している。

ホワイトで安定した企業で給料もらえる……ではなくて、自分たちが引っ張っていくんだという覚悟はずっと持っていました。ただ、それを同じ会社でやり続けることが多様なキャリアと言えるのか、という疑問はやはりあったんです」(山本)

ONE JAPAN立ち上げ当初から、社会の流れの変化と共に「自分たちも変わっていった面がある」と濱松は言う。

「 (会社を辞めて独立するという)この決断には葛藤があったのは事実です。 ただ、今後の人生を考えた上で、 多様な働き方、生き方を自分自身でも試してみたかったのです。

当初はずっとパナソニックで、ずっとNTT東日本で、みたいな話もしていたのですが、やがて人生100年時代に同じ会社にいるとは限らない。 出戻りする可能性もある。 残る人がいてもいいし、転職してもいいし、起業してもパラレルワークでもいいと考えるようになりました

実際、ONE JAPANのメンバーの中にも大手広告代理店にいながら起業した人、マレーシアからリモートで働く人、日系コンサルからベンチャーなど、キャリアそのものの「越境」も生まれている。

トヨタからベンチャーに出向したり、サントリーにいながら副業でベストセラー書籍を上梓しているメンバーもいる。

現在、55社3000人が参加するONE JAPAN だが、事務局や各社の中心メンバーの中では、すでに元いた会社を離れた人と継続している人では、 正確なデータを取った訳ではないがおおよそ2:8ぐらいという。

当然、同じ会社にいながら、外での活動をうまく取り入れているケースも多く、「越境」のあり方も多種多様だ。

ガラガラポンで全て変わったわけではない

マスクをして街を歩く人々のイメージ写真。

コロナ禍で少しずつ変わっている企業。コロナが収束した後に揺り戻しはあるのだろうか。

Shutterstock/ StreetVJ

ONE JAPANが誕生した2016年から2021年までの5年の間に、世界は新型コロナによるパンデミックという大きな異変を同時体験することとなった。

結果として大企業も組織も人も、否応なしに働き方の見直しやテクノロジー活用と、向き合うこととなり、ようやく国内でも在宅ワークが浸透し始めるなど、変化も起きている。

ONE JAPANの2人は自分たちの立つ現在地をどう見ているのか。

「働き方も含め、コロナで変わりつつある実感はあります。経済も、企業のトップの人たちも、リーダーシップを持ってやろうとはしている。ただし、ガラガラポンで変わったというレベルではなく、コロナが収束すれば、反動で戻ったりする恐れはあると思っています」

濱松は、そうした変化の中でONE JAPAN自体ももがいてきたと言うが、現状なし得たことへの自己評価は実は辛い。

「55社3000人が集まったとはいえ、質的にも量的にも中途半端だったかなと。メンバーや組織の質にこだわったからこその現状ですが、だからと言って社内起業家を何百人と生み出せたわけでもない。これからは量も質もストレッチしていく必要がある」

大企業の若手・中堅が会社の壁を越境して繋がる、変革を起こそうと動き出すコミュニティは確かにできた。

ではここを基盤にこの先を、どう作っていくのかがこれからだ。

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「挑戦する若手の変革人材を できる限りたくさん生み出し、その人たちがやがてミドル層、経営層になって、次の若い世代の挑戦者を企業内で応援する」。

濱松は「エコシステム」だと直観する。

「挑戦する若手の変革人材をできる限りたくさん生み出し、その人たちがやがてミドル層、経営層になって、次の若い世代の挑戦者を企業内で応援する。そういう循環するエコシステムを作ります」

具体的には新たな事業をONE JAPAN内から生み出し、さらにその事業をネットワーク企業で展開することを山本は描いている。

「ONE JAPANって、やりようによっては55社の企業のアセットを使えるわけです。ここから事業が生まれて、ONE JAPANのネットワークをベースに他社に導入されたり、スケールしたりするものが出てくれば、それがコミュニティ機能にとどまらない真価になると思います

その時「ONE JAPANは単なるマッチングプラットフォームではなく、伴走していく機能を持つことが大切です」と、濱松は続ける。

実際に、こうした「エコシステム」の構築に向け、大企業挑戦者支援プログラム「CHANGE by ONE JAPAN」や、 冨山和彦氏らを迎えた経営塾「ONE JAPANミドル変革塾」などが走り出している。

変革の兆しが育つ土壌を作り続ける

コロナが変化の時計の針を早めるかのように、パンデミック禍では、日本のDXの遅れ、科学技術分野の人材の薄さ、真っ先に職を失うのが女性だったこと、五輪とコロナをめぐり露呈した政治のリーダーシップの欠如など、潜在的な問題が次々と吹き出してきた。

さらに日本に限らず世界中で、グローバル化を加速してきた資本主義のあり方や、天災の中で地球環境との向き合い方を、問い直す機運が生まれている。

前例も正解もない中で、ただ一つ言えるのは、やり方を見直し、変化し続けるしかないということ。

5年前に生まれ、今なお道半ばのONE JAPANは、日本社会の中で生まれた一つの変革の兆しに他ならない。それが芽を吹き、育っていく土壌を日々、耕していくしかないのだ。

濱松は、そうした積み重ねを「カルチャー」だと言う。

「僕がカルチャーや希望というとフワッとしているように聞こえるかもしれませんが、それでもやっぱりONE JAPANという越境組織から新たな事業が多く生まれ、憧れやロールモデルとなり、人や土壌が育って、カルチャーを作る。 さらに5年、10年、それ以上かかるかもしれませんが、これを循環させていくことに間違いはないと思っています」

(文・滝川麻衣子


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