撮影:伊藤圭
2009年、ユニファCEO、土岐泰之(40)は都内の外資系コンサルティング会社を退職し、愛知県豊田市へ転居した。妻が育児休業を終えて、同市の大手自動車メーカーに職場復帰したため、土岐がついていったのだ。
「家族のために大きなものを捨て、縁もゆかりもない場所に来てしまった。自分の決断ながら全く腹落ちしておらず、どうしたものか……と鬱屈を抱えていました」
と、当時を振り返る。
「このまま終わるのか」焦り。リベンジ期す
長崎県の名門校、青雲中学時代の土岐(写真左)。当時から非常にエネルギッシュなタイプだった。
提供:ユニファ
土岐は学生時代からずっと「人生のテーマ」を探し続けてきた。
福岡県で生まれた土岐の実家は、近くに祖父母や親せきの家が集まっており、お互いしょっちゅう行き来していた。「じいちゃんばあちゃんに囲まれ、愛情に囲まれて育った」という生い立ちは、土岐が行きついた「家族」というテーマにも、大きな影響を与えている。
長崎県に転居し、青雲中学・高校に進学。名門進学校ながらマラソンや武道にも力を入れるバンカラな校風だった。土岐は高校では空手部部長を務め、部活の後30分にわたって「訓示」をぶちかますなど「面倒くさいほど熱く」、部員たちを引っ張っていたという。
九州大学に入ったころから、ぼんやりと「起業したい」と思うようになり、ベンチャー企業でインターンも経験した。
大学では、人生を決める出会いもあった。サークルの1年先輩だった、現在の妻だ。土岐は「妻には、人を愛することの意味を教えてもらった」と話し、大切な存在であることを隠さない。彼女はキャリア志向が強く「価値観も、話も合った」とも言う。
土岐は、将来の起業をにらんで都内の大手商社に就職。愛知県で働く彼女とは遠距離での交際を経て、結婚した。ほどなく子どもが生まれ、妻は育休を土岐のいる東京で過ごした。
育休が終わる時、夫婦はいく晩も議論を重ねた。土岐には内心「都内に転職してくれれば……」という淡い期待もあったが、妻は最後の最後で言った。
「どうしても戻りたい」
妻は育休中、知人が少なく不慣れな東京での子育てに、かなり疲弊した様子だったという。土岐は、妻に負担を掛けたことも考えて自分が愛知に行くと決め、名古屋市内の別のコンサルに転職した。一方、自分はこのまま終わるのか……という焦りもぬぐえず「今はプライベート重視でも、人生のテーマになる仕事を見つけてやる」と、「リベンジ」を心に期していた。
「家族」と「ビジネスのにおい」かみ合った瞬間
九州大学時代の土岐(写真左)。当時の友人たちは、社会人になってからも、起業直前の土岐を応援してくれた。
提供:ユニファ
しかし、テーマはなかなか見つからなかった。
起業したいけれど利益ばかり追求するのは嫌だ、世の中に貢献するなら政治家もいいかもしれない……など、さまざまな考えが思い浮かび「ぶれぶれだった」と、土岐は当時を語る。
この時期、土岐を支えたのが九大や商社時代の友人たちだ。土岐も含め4人ほどで「土岐の起業を支援する会」を結成し、毎週Skypeでビジネスプランを話し合った。
東日本大震災が発生し、再生可能エネルギーの必要性が叫ばれたこともあり、太陽光ビジネスで起業する直前までいったこともある。しかし「自分が貯金を投じ、人生かけてまでやるべき事業は、本当に太陽光か?」という思いに突き当たり、最後の一歩に踏み切れなかった。
土岐は、人生をもう一度振り返ってみた。自分と他のビジネスパーソンとの違いは、キャリアも男のプライドも全部、家族のために捨てたことだ。自分にとって最も大事な「家族」をテーマにすれば、仮に失敗しても後悔しないですみ、社会にも貢献できるのではないか。
「家族」をテーマに、親が撮った子どもの写真を祖父母に共有するアプリ、家族と地域をつなげるデジタル回覧板などのプランを考えた。しかしこれらには「ビジネスのにおいが全然しなかった」。
そんな時、連載1回目の子どもとの会話がきっかけになり、保育園の日常写真をネット販売するアイデアを思いつく。知人のつてで保育園関係者に構想を話すと、「そういうシステムが実現したら、買ってもいいよ」という返事。その時、土岐の頭の中で「家族」というテーマと「ビジネスのにおい」がカチッと合う音がした。
「長い間トンネルの中にいた自分に、ちらりと出口の光が見えた。探し続けた人生のテーマにやっと出合えた、これならすごいことが起きる、という予感がした」
興奮のあまり、2、3日眠れなかったという。
「教育資金取り崩す」妻はあ然、苦難の3年
土岐は2013年にユニファを創業。当時は仲間もおらず、コワーキングスペースで孤軍奮闘することになった。
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土岐は「信じていないことに関しては一歩も動けないが、どうしてもやりたい、やったらみんなが喜ぶ、と思えることに出合うと、どんどんエネルギーが湧いてくる」タイプだという。この時以来、一気に起業に向かって進み始めた。
最大の関門は妻だった。起業したいという要望は、学生時代から折に触れ伝えていたものの、「子どものために貯金していた、1000万円の教育資金を使いたい。多分半年くらいでなくなると思う」と打ち明けると、さすがにあ然とされた。
「それでも、僕が眠れないくらい興奮して、保育現場の声を聞いてすっかりエンジンが掛かっているのを見て、『もう止めれない』と思ってくれたようです」
妻は、教育資金を使うことに同意した。しかしそれから3年は、土岐にとっても妻にとっても、苦難の時代だった。
土岐が2013年にユニファを創業したのは、名古屋市内のコワーキングスペース。システムエンジニアもおらず、ひとりぼっちのスタートだった。営業しても、園長に「うちは今のままでいい」と一蹴されたり、アポなしで訪問した保育園の職員に、不審者呼ばわりされたり。
園長が導入に乗り気になっても、保育士にたった1人、スマホを使えない人がいる。保育士が賛成しても、100人の保護者のうち3人が反対する……という具合に、次から次へと壁が立ちはだかった。苦労の末、ようやくいくつかの顧客を得ると、土岐は運動会のカメラマンから、両親のクレームに頭を下げて回ることまで、何でもこなした。
この間、「一定額の生活費を家に入れる」という妻との約束は、ほとんど守れなかった。妻は自らの収入で家計を支えつつ、こうぼやいたという。
「目をキラキラさせて『社会を変える』と言いながら、家にお金も入れず帰ってもこない。賭け事や浮気と違って、責めることもできやしない」
「本当に苦労を掛けて、今でも頭が上がりません」と、土岐は神妙な表情で語った。
友人らが2000万円出資、救われた資金繰り
窮地に陥った土岐を経済的に支援したのは、青雲高校時代の友人たちだった(土岐は写真中央上)。
提供:ユニファ
半年ほどで、資金が底をつき始めた。ここでも土岐は、友人たちに助けられている。
青雲高校時代の同級生ら20人が、100万円単位の出資に応じ、約2000万円が集まったのだ。時には「居酒屋に呼び出して出資を頼んだら断られ、気まずいまま飲み続ける」という、いたたまれない経験もしたというが、多くは快く出資に応じてくれた。
そのうち、少しずつ顧客となる園も増え始めた。
保育園が日常写真を販売する場合、保育士は写真を撮影し、印刷して壁に掲示し、家庭から注文を取って集金し、現像された写真を仕分けし配布するという膨大な手間がかかる。しかし「ルクミーフォト」を使えば、保育士はタブレットで写真を撮影し、販売する写真を選択するだけ。サイトへのアップロードも集金も現像・発送も問い合わせ対応も、すべてユニファ任せで、保育園側の負担は非常に少ない。
さらに顔認証で決まった顔をピックアップする機能を備えており、親も何千枚もの写真から、我が子の写真を探す手間が省ける。こうしたメリットが評価され、競合する写真販売サービスから乗り換える園も出てきた。
「アンパンマン」の出版元で、多くの保育園と信頼関係を結んでいる子ども関連事業の老舗、フレーベル館と販売代理店契約を結んだのも、成長の大きなきっかけになったという。
ただ事業が軌道に乗ってくると、写真販売単体のビジネスモデルに、土岐は限界も感じるようになる。写真は保育業務のごく一部にすぎない。もっと保育現場の負担を軽くすることができないだろうか
そう考えた土岐が手にしたのは、エプロンだった。10日間、それを締めて保育の現場に飛び込んだのだ。
(敬称略、明日に続く)
(▼第1回はこちら)
(文・有馬知子、写真・伊藤圭、デザイン・星野美緒)