新型コロナウイルス感染症に対するワクチンや治療薬の開発が世界中で進んでいる。
ファイザーやモデルナなどの製薬企業が開発したmRNAワクチンは、これまで続けてきた基礎研究の蓄積によって花開いた技術だ。10月4日から発表される、2021年のノーベル賞においても、関連する研究を担った科学者が有力候補として挙げられている。
ファイザーとモデルナのコロナワクチン。どちらもmRNAを利用している。
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この1年で、劇的にその価値を高めたmRNA医薬品をはじめ、近年、医薬品開発において、mRNAやDNAのような「核酸」や、「抗体」と呼ばれる生体内に存在する「高分子化合物」を活用した研究開発が進んでいる。
今後、治療様式(モダリティ)はますます多様化していくことが予想される。
しかし、医薬品開発においては、高い有効性と安全性を持つ化合物を発見できても、しっかりと体内に投与できる「製剤」に昇華できなければ、もともこもない。
「極端な話、体に入らなかったり、すぐに分解されてしまったり、そういったものは薬になりません。ですから、候補となる薬の『物性評価』は重要なんです」
つくば市にある物質・材料研究開発機構(NIMS)機能性材料研究拠点医療応用ソフトマターグループの川上亘作博士はこう語る。
実はNIMSでは、この6月に武田製薬工業やアステラス製薬をはじめとした国内の製薬企業複数社とともに、企業の壁を超えてモダリティごとの物理的性質(物性)の評価や製剤開発に関する共同研究を進める場としてMOP(マテリアルズ・オープン・プラットフォーム)を発足させた。
このプラットフォームには、日本の新薬・研究開発の現場に不足しているピースを埋める役割が期待されている。
企業の研究開発では見落とされがちな要素
MOPの概念図。新しいモダリティの物性評価手法のレギュレーションなどを構築することを目指していることから、複数の企業の参画が必要だった。
出典:NIMS
NIMSが発足させたMOPに参画しているのは、アステラス製薬、エーザイ、沢井製薬、塩野義製薬、第一三共、大鵬薬品工業、武田薬品工業、田辺三菱製薬、中外製薬工業、東和薬品、日本新薬の11社。
名だたる製薬企業が一堂に会するこのプラットフォームだが、なにもNIMSが各企業と共同で「新薬の開発」などを狙ったものではない。
川上博士は、今回のMOPの狙いについて。
「特別新しい技術を作ろうというわけではありません。
MOPでは、核酸医薬などの物性評価の方法論を世界に先駆けて作っていくことを目指しています」
と語る。
たとえば、治療薬としてよく使われる「低分子化合物」の結晶は、条件によってさまざまな構造になってしまう場合がある。治療薬として普及させるには、こういった構造をしっかりコントロールして安定させる必要がある。
「錠剤の溶け方1つをとっても、全然違います。普通の錠剤なら溶解度分までしか溶けませんが、『アモルファス』という状態のものを使うと、溶解度以上に化合物を溶かすことができます。すると体内での吸収が全然違います」(川上博士)
治療薬として利用する以上、その物性や体内での振る舞いを正しく理解することは必要不可欠といえる。これは、核酸医薬などで使われる高分子化合物でも同様だ。
いかに安全で効果が期待できる成分で見つかったとしても、製剤化できなければ治療薬としては使えない。
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しかし、新しいモダリティの技術は発展途上であり、その基礎となる物性評価手法や製剤開発の技術に対する知見が薄い点が課題とされていた。
製薬企業の中にも、当然、治療薬候補の物性を評価する部門はある。
川上博士によると、そういった現場では直近で開発している薬の評価で手一杯になりやすく、新しいモダリティに対する基礎研究を進めにくい環境になっているという。
「こういう場(MOP)で深く研究することができれば、企業の研究者も技術を蓄積でき、次の製剤の開発に活かせるはずです」(川上博士)
低分子化合物に対しては、治療薬の候補物質が発見されたときに、分子の構造や溶解度などの物性データから製剤化する過程で問題がありそうなものやより効果の高そうな物質をフィードバックすることが可能になりつつあるという。
分子の構造などから推測される物性をもとに治療薬の候補をあらかじめ絞ることができれば、治療薬の研究開発スピードも加速する。
「薬を開発する上では、まず薬効が高い分子を選ぼうとするのは当然です。ですが、薬効が半分でも体に10倍入っていく分子の方が良い。物性を考慮すると、判断が変わるんです。極端な場合は(治療薬として)成功するか失敗するかにも関わります」(川上博士)
新型コロナワクチンの出遅れにも影響?
モデルナは自社のブログで、創業以来10年にわたってmRNAや脂質ナノ粒子製剤といった科学技術への多額の投資を続けてきたと語っている。
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医薬品の研究開発においては、(薬になる)化合物を見つけるところには手厚く資金がつく一方で、物性評価や製剤化に関する研究は見落とされがちになっていた。
実は、新モダリティの物性評価、製剤化技術への対応が遅れていることは、日本におけるコロナワクチンの開発が遅いことの要因の1つとも言える。
新型コロナウイルスのmRNAワクチンを製造するアメリカのモデルナ社が早期にワクチンを開発できた背景には、mRNAを作る技術はもちろんのこと、不安定な分子であるmRNAを安定した製剤にするための基礎的な研究を積み重ねていたことが大きく影響している。
「モデルナは、mRNAを作る技術を持っていただけではなく、それを製剤化する技術も持っていました。体内で(mRNAを)安定して保持し、細胞に入れる技術を持っていたんです」
mRNAはそのままでは不安定な物質であり、体内ではすぐに分解されてしまう。モデルナなどは、脂質膜を利用してmRNAを製剤化する技術を培ってきたことで、世界にこれほどのインパクトを与えることができたわけだ。
「日本にも、mRNAを作る技術自体はあると思います。ただ、製剤化するには、基礎研究として技術を培っておかなければなりませんでした」(川上博士)
今回のMOPでは、mRNAを体内へ輸送するキャリアをつくる研究はテーマに含まれていない。ただし、取り組みの狙いはまさにこのような新モダリティに対する基礎的な知見や技術の研鑽と蓄積だ。
新モダリティの分析・評価手法の標準化へ
国内トップの武田薬品工業をはじめ、11社もの国内の製薬企業がNIMSのMOPに参画している。大規模なMOPが構築できたたことで、共通のレギュレーションの策定に向けた研究にも期待が持てそうだ。
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MOPに参画する1社である武田薬品工業は、Business Insider Japanの取材に対して、次のように期待を語った。
「多岐にわたるモダリティが展開される創薬の現状において、単独ではナレッジ、リソース、スピードが限定されることから、世界的に協働が進んでいます。一方で、日本国内において、このようなコラボレーションの機会はほとんどありませんでした。
このような背景の中、NIMSがリードして本共同研究が立ち上げられ、協働して技術・研究基盤を構築する意義は大きいと考えられたことから参画いたしました」
核酸医薬品や抗体医薬品など、近年研究開発が進められている治療薬の物性評価手法はまだ確定していない。今回のMOPでは、国内の多くの製薬企業を巻き込むことで共通のレギュレーションを作り、それを世界へと広げていく狙いもある。
これまで、こういったレギュレーションは欧米主導で作り上げられるケースが多かった。
「(今回のMOPでは)分析・評価手法を標準化することも視野に入れており、国内外における技法の統一、更には医薬品規制調和国際会議(ICH)などの場において日本から発信する機会の一つとして、日本のプレゼンス向上も期待されます」(武田薬品工業)
なお、MOPは、設立段階で以下の6テーマで研究を進めていくとしている。テーマは必要に応じて入れ替わることもある。
研究テーマ
・抗体医薬の分析法確立
・抗体医薬の製剤化技術の開発
・核酸医薬の物性評価法確立
・低分子薬物の消化管吸収メカニズムの解明
・非晶質医薬品の安定化
・イオン液体の製剤利用
(文・三ツ村崇志)