「ヤングケアラー」に注目が高まった今年。彼ら/彼女らに求められる、精神的なケアとは。
撮影:今村拓馬
2021年は、これまでになくヤングケアラー(大人が担うようなケア責任を引き受け、家族の世話や介護などを行う18歳未満の子ども)について注目が高まる年となった。
厚生労働省と文部科学省 が中心となった「ヤングケアラーの支援に向けた福祉・介護・医療・教育の連携プロジェクトチーム」 は、5月にヤングケアラーに関する報告書をまとめた。ケアラーを支援する条例案が可決されたり、ヤングケアラーSOS制度の開始を決めたりする自治体も相次いだ。
さまざまなケアがある中で、今回は、精神疾患や知的障害を抱えた家族をもつ子どもが、日常的に担う精神的なケアに着目。身体的なケアに比べて可視化されづらい、精神面のケアを、幼い時から担ってきた2人の女性に話を聞いた。
母親と他の家族の仲を取り持つのが役目に
幼い頃からカナさんは母親と家族の間に挟まれた(写真はイメージです)。
Shutterstock/yamasan0708
「死にたかったから、海に行ってたの」
何も告げずに外出し、遅くに帰宅した母親は、幼いカナさん(仮名)に向かってそう言った。カナさんが4歳の時だ。
カナさんは現在43歳。経営者の父と、6歳上の姉との4人家族だ。
物心付いたときから母親は体が弱く、精神疾患を抱えていた。日中寝込んでいることも多く、朝は起きられないことがほとんどだった。
小中高と私立だったため、給食はなく、お弁当を持参する必要があったが、用意されないことも多かった。母親は「死にたい」と口にしがちで、父親の愚痴や、過去のつらかった記憶をカナさんにしばしばぶつける。
さらに母親は、父親、またカナさんの姉とも折り合いが悪く、いつしか、母親と他の家族の仲を取り持つのがカナさんの役目になっていた。
「〇〇(姉の名前)に伝えといて、と、まるで伝言係のようになっていました」
母親はたびたび夜中に発作を起こし、下痢や嘔吐をした。そんなときはカナさんが救急病院に連れ添った。
病院に足を運んでも、診断は下りず、理解ある医師と出会うことができなかった。
「処方された薬は、15〜16種類にもなっていました。薬だけでお腹がいっぱい、ということもありましたが効果は見られず、ずっと体調も精神的にも不安定でした」
「私がいなくなったら母はどうなるのだろう」
18歳になり、カナさんが免許をとると、車で病院まで連れていくのはカナさんの役割になる。
「大学にいても、電話で呼び出されることがありました。ご飯を作ったりもしたのですが、口に合わず食べてもらえないこともありました」
大学で部活を始めるも、土日家を空けることを母親は嫌がり、結局辞めざるを得なくなった。
実家を出るという選択肢はなかったのかという問いに、カナさんはこう答えた。
「気力が削がれ、疲れて逃げる余力すらなかったんだと思います。実家にいなきゃいけない、私がいなくなったら母はどうなるのだろうという不安もありました」
30歳の時、結婚を機に実家を出ることになる。しかし、それでも母のカナさんへの依存はおさまらなかった。
母から頻繁に着信があり、仕事をしていても電話で呼び出され、病院まで付き添った。母の行動に、夫は不信感を抱くようになったという。それだけが原因ではないが、結婚生活は長く続かなかった。
もっと踏み込んで状況わかってくれる人が欲しかった
状況を理解し、手を差し伸べてくれる誰かが欲しかったという(写真はイメージです)。
Shutterstock/yamasan0708
母の依存が終わりを告げたのは、カナさんが34歳の時だ。
グリーフケア(大切な人との死別をはじめ喪失体験の後に生じる深い悲しみや苦しみを抱えた状態に折り合いをつけ、自分らしく生きられるように支援すること)について調べたことがキッカケだった。
「離婚後、心身ともに不安定になったり、友人との関係にも影響が出ることがあって、自分がおかしくなったと思っていたのですが、それが“グリーフ”だったとわかり、気持ちが楽になりました」
カナさんの母親は、両親が小学生の時に離婚し、それ以来実の親とは一緒に暮らしていない。親戚たちの家でも冷遇され、高校生の時から一人で暮らすという経験をしていた。カナさんが生まれる1カ月前に、育ての親とも言える一番大好きだった母の祖母との死別も経験している。
「母が抱えてきたもの、苦しみを想像できるようになり『お母さんが子どもの時から一人で生き抜いてきた大変さが分かるようになった』と伝えることができたんです」
その声がけが影響したのか、母親は体調も精神面も家族との関係性も、段々と安定していったという。
「頼れる人なんていなかったし、当時は自分が助けが必要な存在だとも認識できませんでした。今思うと第三者の介入が必要で、もっと踏み込んで、状況を把握してくれる存在がいてほしかったです」
カナさんは現在、困った人が泊まれるように自宅の1室を開放したり、子ども食堂を手伝うなど、居場所づくりのための取り組みを行っている。
「子ども時代を振り返って、母が暴れている時だけでもちょっとでも避難できる場所があればよかったなと思うんです」
弟の担任に呼び出され、一緒に下校も
「きょうだい児」のタケダさん。幼い頃から負担を抱えていた。(写真はイメージです)
Shutterstock/T.TATSU
東北地方で育った37歳のタケダさん(仮名)は、自閉症・知的障害を抱える弟と農家を営む両親との4人家族。障害を抱える兄弟姉妹がいる人は、きょうだい児と呼ばれる。
「弟のことは好きです」と語るタケダさん。その一方で、きょうだい児として抱える負担は大きかった。
1学年下の弟は、たまに行方不明になることがあった。
「ついさっきまで隣にいたのに、目を少し離した隙にいなくなり、捜索すると遠くの山で見つかる、ということが続きました」
下校の時間 になっても、気を取られるものがあると帰りたがらないことがあり、決まってタケダさんが弟の担任教師に呼び出され、弟を説得して一緒に下校した。
町では時折、好奇の目にさらされた。バスで他の子どもたちが「障害者!」と言って笑いながら見てくることもあったが、「相手にするな」と弟に言い聞かせた。
弟と自分から関わろうとしない父親
家では、父親は、家事を一切せず、弟とは自分から関わろうとしなかったという。
家事は母が担ったが、文字の読み書きや計算などの学習面、洗濯物の畳み方やお皿の洗い方を教えるといった生活面はタケダさんが担い、休日は食事の世話もした。
母親は、父親が弟のことで話を聞いてくれないからと、不安や愚痴をタケダさんに吐露していた。一方で、タケダさんが進路の悩みを打ち明けても、親は真剣に取り合ってくれず、普通の就職ができない弟を案じて、「あなたは地元に残って」と言い聞かせてきた。
自分は子どもとしてカウントされていないのではないか
弟が主役で、自分は脇役として「問題がない子」を演じていたという。
REUTERS/Kim Kyung-Hoon
中学生の時、母に「弟を連れて、一緒に海に行って死のうと思ったことがあったけど、できなかった」と言われたことがある。
それを聞いたとき、タケダさんは、自分は子どもとしてカウントされていないのではないか、と感じたという。
「自分の人生を生きている感覚が持てませんでした。いつも主役は弟で、自分は脇役。親はいつも、私に話しかけているようで、その先の弟を見つめているようでした。目の前にいるのに、私を見てくれている感覚がない」
「私だって悩みを色々抱えているのに、問題がない子を演じていました。周りが求める自分を演じ続けたんです。私が問題を起こしたら、母親が『やっぱり、(あの親だから)自閉症の子が生まれるんだ』と言われてしまうんじゃないかなと思って」
「頼れるところがどこにもなかった」
「頼れるところがどこにもなかった」。タケダさんはうつ病で半年間休職も経験した。(写真はイメージです)
Shutterstock/Thanakorn Stocker
学生時代の就職活動は悩んだ結果、タケダさんは実家を離れ就職する道を選んだ。しかし、母親からは「なんで県外に行くの?」と言われた。
実家を離れ、仕事を始めてから、生育環境の影響を感じる出来事があった。
「1人でどうにかしようとしてしまうのが体に染みついて、他人に頼れない。仕事で問題が起きたときもそうでした。ヘルプが出せないんです」
入社6年でうつ病を発症し、半年間休職することになりました。
現在両親は還暦を超え、もしまた母親に何かあったら。東京で仕事を続けられるか、ふとそんなことが頭をよぎるという。
「もし誰かを好きになったとしても、実家に連れて行ったら、相手のご家族はどう思うか、弟の世話はだれがするのか?そういう不安があります」
またタケダさんは、そうしたきょうだい児ならではの困難や葛藤を、吐き出したり共有したりする場がないことを問題視している。
「とにかく頼れるところがどこにもありませんでした。いつでも相談ができる場所があればいいのにと思います。
障害がある人、そしてその家族を孤立させないことが必要だと思います。家の中にいるとどんどん閉じていってしまう。
障害があっても、将来的には家族がいなくても生きられる、福祉面で支えられ、社会で育てられるようになれば、家族のつらさもやわらぐのではないでしょうか」
自分のことを考えられないまま、家族を優先していくケアラーたち
ヤングケアラー問題に取り組む、成蹊大学文学部現代社会学科教授の澁谷智子氏。
撮影:滝川麻衣子
2人の当事者を取材する中で、子どもでありながら家族のケアを担うという困難な状況にあっても、誰にも頼れなかったり、大人になってから精神的に不安定になるという共通点が見えてきた。
ケアを担った子どもには、社会としてどんなサポートができるのだろう。
ヤングケアラー問題に取り組む成蹊大学文学部現代社会学科教授の澁谷智子氏は、 ケアの経験がヤングケアラーの人生に与えるケア生活の影響について「いろんなケースがあるので一般化はできない」とした上で、こう話す。
「小さい時から、人に話したってしょうがない、何も変わらない、意味のあるサポートに繋がれなかったという経験を繰り返してしまうと、人に期待しない、自分でやっていくしかない、と思ってしまうんです」
また、自分がいなかったら家族はどうなるんだろうという切迫感の中で「友達との時間、部活などの自分の生活を削って、自分は将来何をしたいのかゆっくり考える暇もないまま、家族を優先していく」という。
「自分が中心ではない生活を続けていると、自分が何を求めているか分からなくなってしまったり、色んなことに罪悪感を感じやすくなったりすることもあるようです」
ただ一方で、ケア体験をベースに人生を拓いていくケースもある。
「自分のケア経験を仕事につなげていっている人達もいますし、ケア以外のところで仕事を見つけ、自分の人生でうまく消化したり、発散したりして、折り合いをつけていく人もいます。自分を削るのではなく、ひとと繋がることが大事だと思います」
地域福祉協議会、スクールカウンセラーも相談に
学校ではスクールソーシャルワーカーやスクールカウンセラーに相談することができる。
Shutterstock/maroke
現在ヤングケアラーの立場にある人たちが繋がれる支援については、澁谷氏は支援団体や、地域の社会福祉協議会をあげた。
「 たとえば、精神疾患では、こどもぴあさんという団体があります。当事者経験もありつつ、支援者の目線も持っている子どもの立場の会です。精神疾患のある親の立場、子どもの立場、配偶者の立場からどういう支援が足りないのかを考えてくれます」
地域にも、窓口はある。
「地域でいうと社会福祉協議会などの中にヤングケアラーに関心をもっている方、主任児童委員さんや民生委員と繋がっている方がいらっしゃる場合があります
学校によってはスクールソーシャルワーカーがいる場合があります。どういう支援に繋がれるのか環境の整え方を考えてくれます。また、スクールカウンセラーも相談に乗ってくれます」
当事者が集まる場は貴重だ。
「同じ体験をした人たちと安心して話す中で、その時の経験が心の奥深いものとして残っていることに気付き、自分は子どもだったのに、不安を口に出すことを許されなかったとか、今になってみると親がああだったから自分はこういう影響を受けているんだと、 思いを吐き出せることもあるようです」
ヤングケアラーへの関心が高まった2021年について、澁谷氏はこう示す。
「いまは福祉や教育の現場でもヤングケアラーについて、真剣に考えてくれているようになり、当事者はいろいろ我慢してきていて、悩みを抱えていることもあるという共通理解が生まれつつあります。
家族をケアして当然とか、学校を卒業できさえすればいいとか、そういう最低限のレベルのゴールではなく、ヤングケアラーが自分の力をどうやって花開かせることができるのか、そこまで考えられるよう 、これからも多くの人に訴えていきたいと思います」
(文・ヒオカ)