1921年6月、オクラホマ州タルサで人種虐殺が発生した際、兵士とアフリカ系アメリカ人を乗せたトラックが通りを走っている。
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- 「プリンティング・ヘイト」プロジェクトは、1865年から1960年代にかけて人種差別による暴力を扇動した新聞の役割を追及するものだ。
- 歴史学者がInsiderに語ったところによると、白人至上主義者の代弁者として機能した新聞社もあったという。
- また、新聞社はしばしば白人の政治的リーダーと共謀し、黒人が経済的に豊かになろうとすることを阻止していたとされている。
「プリンティング・ヘイト(憎悪の印刷)」プロジェクトでは、1865年から1960年代にかけて人種差別によるリンチや虐殺を扇動した新聞社の役割を追求し、それに基づくストーリーを作成した。
このプロジェクトは、Howard Center for Investigative Journalismと複数の大学のジャーナリズムスクールとのパートナーシップによるものだ。60人のジャーナリズム専攻の学生が選ばれ、取材と執筆を行った。
プリンティング・ヘイトでは、マサチューセッツ大学アマースト校のアメリカジャーナリズム史家であるキャシー・ロバーツ・フォード(Kathy Roberts Forde)教授の論文が引用されている。彼女は2021年11月に出版される『Journalism and Jim Crow: White Supremacy and the Black Struggle for a New America』の著者でもある。
フォード教授がInsiderに語ったところによると、当時の地方紙の報道の多くは、白人至上主義の政治と経済を支えるためのものであり、アメリカ南部の民主党系の新聞社はその代弁者としての役割を果たしたという。
「新聞社は、白人至上主義のイデオロギーを広めるために、そのソフトパワー、つまりストーリーテリングの力を利用した」とフォードは言う。
「政治的、経済的、社会的なストーリーを通じてそれを実行した。また、新聞社という組織自体も利用した。つまり、政治家や政治的リーダーと手を組み、メディア組織としてのハードパワーを発揮して、南部の黒人に対して選挙をめぐる暴力を振るったのだ」
1883年のダンビル大虐殺は、新聞報道がきっかけだった
1921年、オクラホマ州タルサで発生した虐殺事件の後、廃墟となったアフリカ系アメリカ人の家から煙が立ち上る。
Reuters
このプロジェクトで作成されたストーリーのうち、最初の2つが2021年10月18日に発表された。それによると新聞が人種間の緊張を煽るような嘘を流し、それが「ダンビル大虐殺」などの暴力事件につながったケースがあるという。
このストーリーでは、1883年11月4日付のリッチモンド・ディスパッチ紙に次のような記述があったとレポートしている。
「この黒人たちは、自分たちがある種、町の正当な支配者であると考えるようになった。彼らには教訓が与えられた。大事な教訓だ...。彼らや、バージニア州の他の地域に住む彼らの同胞が、決して忘れてはならない教訓である」
この新聞が言うところの「教訓」とは、投票に行くために家を出た黒人男性がリンチされたことだ。3日間にわたって暴力が吹き荒れ、7人の黒人男性が殺され、2人の白人男性が負傷した。
白人市民によるこのような暴力は、当時はよくあったことだとフォードはInsiderに語っている。
「1883年の選挙期間中、民主党は州内で発行されていた新聞で『黒人による悪政』に関する扇動的な報道や論評を行い、人種的憎悪を煽った」
これらの暴力はすべて、地域における黒人の政治力に対する恐れを煽る新聞報道が原因となって引き起こされたことが、プロジェクトによって明らかとなった。当時、奴隷解放で自由になった黒人の多くが、ビジネスを始めたり、公職に選ばれたりしていた。そのことが白人住民にとって何らかの損失となると白人向けの新聞で語られていたのだ。
当時、白人向けの新聞は常に政治的な課題を掲げ、社説や報道の多くがそれに影響されていたため、このようなことはよくあったとシカゴ大学のジェーン・デイリー(Jane Dailey)教授はInsiderに語っている。彼女は「プリンティング・ヘイト」プロジェクトの取材にも協力している。彼女によると、黒人向けの新聞がバランスを取る役割を果たしていたという。
「この時代には多くの黒人向け新聞が存在し、これらの組織(白人の新聞社)に対して常に反発していた。白人至上主義について語りたくない人たちにとって、彼らは悩みの種だった」
新聞は白人至上主義を支える数多くの制度的な支柱の1つだった
1921年6月1日、オクラホマ州タルサで発生した虐殺事件で、暴徒が通過した後のグリーンウッド地区の様子。
Reuters
フォード教授は、新聞社が白人の政治家やビジネスリーダーと結託して、黒人が経済的に豊かになろうとすることやその機会を妨害することがよくあったと述べ、その例として1919年にアーカンソー州で発生した「エレイン大虐殺」を挙げた。
不当な低賃金にうんざりしていた約100人の黒人の小作人が、労働組合の結成について相談するために、アフリカ系黒人の小作人・借地人のための労働組合「Progressive Farmers and Household Union of America」と面談を行った。すると面談が行われていた教会に武装した白人が現れ、労働組合の武装警備員2人との間で銃撃戦が繰り広げられた。
これに対し、当時のチャールズ・ブラフ(Charles Brough)州知事は500人の兵士を呼び寄せたとスミソニアン誌に記載されている。また、この事件を取り上げた学位論文によると、その日の多くの地元新聞も人種差別を誘発するような見出しを掲載し、郡外から何百人もの白人が駆け付け、黒人市民を襲い、殺害するように仕向けたという。少なくとも200人の黒人が殺されたと考えられている。
「アーカンソー州の新聞は、知事をはじめとする白人政治家や白人農園主と共謀して、この人種的大虐殺をもみ消した」とフォードは言う。
「それは、黒人の小作人や借地人の仕事や、経済的に豊かになりたいという希望を潰すためだった」
黒人がリンチされたのは、政治的な権利を行使したり、農民として刑罰による借金制度から逃れることができたり、白人のビジネスとの競争に勝ったりしたときだったとフォードは述べ、新聞はしばしば白人の恐怖心を煽り、白人至上主義を支える多くの制度的な支柱の1つとして機能していたと付け加えた。
現在でも、アメリカの多くの報道機関は白人が多数を占めており、報道のリーダーにはダイバーシティ(多様性)が欠けていて、ニュースの内容にも多様性が求められているという。
フォードは「ジャーナリズムを民主的で人種的に多様なものとするために、その基準を革命的に変えなくてはならないと考えている」と語った。
「その基準とはどのようなものなのか、報道業界やジャーナリズムの高等教育機関で真剣に話し合う必要がある」
(翻訳:仲田文子、編集:Toshihiko Inoue)