独立研究者の山口周さんは、今私たちに必要なのは地図ではなく、コンパスだと言います。未来が不確実になるほど、私たちは地図を求めます。しかし、今は地形が変わってしまうかのように変化が激しい時代。将来の予測をすることが難しい時代に、地図は古びてしまいます。
ですが、「常に真北を指すコンパスがあれば、どんな変化にも惑わされることなく、自分の進路を選択できる」と山口さん。Business Insider Japanの連載で山口さんは、自身の思考のコンパスを見つけるべく、さまざまな分野の識者と対話を重ねました。
今回その連載が『思考のコンパス ノーマルなき世界を生きるヒント』という書籍になりました。数々の対話を終えて、今改めて山口さんに聞きました。
私たちが思考のコンパスを持つためには、何を意識して行動すればいいのでしょうか。
「普通」がないオプション・フリー社会の到来
コロナ禍によって、リモートワークが一気に普及しました。もちろん職種によりますが、物理的に集まらなくてもできる仕事が増えた。これは人類史的な転換点だと思います。
これまでは職場のそばに住み、毎日通勤するのが当たり前でした。だからこそ都市化が進んだ。でも、その前提が大きく揺らいでいます。定住という概念さえなくなるかもしれない。これまで我々が定住していたのは、毎日同じ職場に通っていたからです。
もはや「普通」は存在しない。オプション・フリー、つまり何でも選べる社会の到来です。ニューノーマルどころかノーノーマル、社会学者エミール・デュルケーム言うところのアノミー(無規範)です。
短期的に見れば、この変化をポジティブに捉える人が多いと思います。満員電車で通勤しなくて済むぞと。でも今は、樽のタガが外れてバラバラに解体する直前の状態です。
ここから10年から20年、どんな変化が起こるでしょうか。どこに住み、どんな風に働き、どう生きるのか、何をするにも自分の判断基準が求められ、「これが普通だから」が通用しない世界です。
あらゆる選択肢を自由に選べるオプションフリー社会では、人々に求められる要件や強度も変わってきます。
養老孟司さんが以前に書いておられましたが、「コーヒーか紅茶どちらにしますか」と言われた時、「どちらでもいいです」と言うと、日本では適当に淹れてくれるのに、アメリカでは「どちらか決めろ」と言われるそうです。常に自己責任で決めなければならない。
自分にとって何が大事か、何が好きで何が嫌いか、絶対的な判断基準のある人には楽ですが、そうでない人にとっては生きづらい。良いオプションを組み合わせられる人は、経済的にも精神的にも豊かになる一方ですが、そうではない人は取り残されるのがオプションフリー社会です。
これまで年に一度サイコロを投げていたものが、月に一度投げるようになれば、12年でついた差が1年でつくので、格差は広がる一方です。取り残された人々のルサンチマンは、一定のところで爆発するでしょう。
自由に耐えられない人たちが求めるグル
2021年に発表された中国の第14次5カ年(2021-2025年)規画を見ると、GDP成長率の数値目標が設定されていません。格差の解消、環境問題への取り組みを前面に押し出しています。
国際政治学者の鈴木一人さん曰く、政府は中国最大のSNS「微博」のデータを監視していて、どこに人民がルサンチマンを抱えているのか、ディープラーニングで解析しているそうです。
「お金持ちになりたい」という上昇志向から、国内格差へのフラストレーションにシフトしたと判断して、成長から格差の解消や環境問題へと優先順位を切り替えたと。こういうところはさすがです。
エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で、ナチズムはワイマール憲法への反動で興ったと書いています。自由・平等に耐えられない人たちがヒトラーというグル(尊師)に規範を求め、全体主義にリバウンドしたと。
すべてのノーマルが崩壊する中で、自分の内側に規範を求めるか、それともグルの示す規範を崇めるのか。判断の拠り所を自身の中に見出せるかどうかは、知的強度の問題でしょうし、美意識と言い換えてもいいと思います。
今回対談させていただいた方々は、みなさんユニークな生き方をされていますが、他者の規範に従うのではなく、自分の目にはっきり見えているものがあって、人と違う道を選んでいるのだと思います。
ノーマルから外れることに対して「自分にはそんな勇気がない」という人もいますが、生命科学者でもある高橋祥子さんとの対談でもお話ししたように、それは勇気の問題ではありません。
例えば目の前に2本の道があって、みんなは右に行こうとしている。でも右の道を行くと橋が落ちているらしい、左の道は景色もきれいで、おいしいお団子屋さんもあるらしいと自分が知っていれば、みんながどうでも、迷わず左に行くでしょう。自分の中に指針、言い換えれば「思考のコンパス」があるかどうかです。
もはや巨大なシステムの支配では通用しない
資本主義のオルタナティブとしての共産主義は、実は巨大資本による支配と似ているという。
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最近、哲学者のシモーヌ・ヴェイユが好きで読みます。非常に頭の良い人で、ヴェイユとトロツキーの論争では、トロツキーが完全に論破されています。
マルクスの『資本論』は未完に終わっていますが、それはヴェイユが指摘した矛盾にマルクス自身が気づいてしまったからだと僕は考えています。「ソヴィエトの共産党は巨大な企業ではないか」とヴェイユは指摘しています。
企業が究極まで巨大化するとどうなるか。例えばアマゾンがありとあらゆる会社を買収して、日本中の会社がアマゾンの子会社になったとします。もちろん独占禁止法がありますから現実的では起こり得ないのですが、あくまで思考実験として考えてみる。
日本国民は全員、アマゾン社員かその家族で、アマゾンから給料が払われるのはもちろん、無料の社員食堂があちこちにあって、そこに行けば社員と家族は誰でも無料で食事できる。
アマゾン病院では無料で医療が受けられる。社宅や自家用車も用意してくれる。完璧な資本主義社会であり、巨大資本による独裁ですが、これはマルクスの言う共産主義社会そのものではないか。
ヴェイユはそれに気づいた最初の人だと思います。巨大なシステムをトップダウンで支配する。これは20世紀のマルキシズム的思考です。
マザー・テレサがノーベル平和賞を受賞した時、ある記者が取材で「世界平和のために私たちが何ができるか、メッセージを」と言いました。彼女の答えは非常にシンプルで「あなた、こんなところで仕事していないで、早くおうちに帰って子どもを愛してあげてください」と。
世界平和は大きな問題ですが、それぞれの人が身の回り5メートルの人を幸せにする、全人類がそうすれば、世界平和なんて容易に実現するということです。
とかく人間は巨大なシステムを語りたがります。ヴェイユが「あなたたちは大きな会社を支配するのと同じ行動原理で動いている。それはルサンチマンではないか」と共産主義者たちに指摘したように。
小さなユニットを最適化していくという発想
でもシステム全体を規律で支配しようとしても、複雑系ですから、規律をつくるそばから変化していきます。
セル・オートマトンという計算モデルは、システム全体の規則を設計をする必要はなく、セル(細胞)ごとの規則を設定すれば、おのずと全体に適用されるという考え方ですが、同じように、自分たちの日常という小さなユニットを最適化していく、それを繰り返すことで、全体の最適な状態を実現するという考え方が必要ではないでしょうか。
ノモス(規範・秩序)の対義語はカオス(混沌)です。ノーマルとアノミーと言い換えてもいいかもしれません。そして規範を超越しているけれども、ある種の秩序が保たれた状態がコスモスです。
神学者の森本あんりさんは「ノモスが解体されてカオスがやってくる。カオスを経由してコスモスが出現する。国破れて山河あり」とおっしゃっていました。仕事に失敗して田舎に帰って野に咲く花に気づくように、社会秩序が崩壊して、コスモスが立ち現れるのだと。
日本は第二次世界大戦でノモスが解体され、カオスがやってきた。拝金主義的なアノミー状態のまま戦後が今に至るまで続いている。そこからコスモスを回復できるかという段階ですが、それは巨大なシステムを規律や秩序で支配する類のものではないと僕は思います。
むしろボトムアップ型で、ローカルな問題を個別に解決できるような小規模の組織が積み上がっていくことで、成長という呪いから解除された新しいステージに移行できるのではないでしょうか。
本を読み、人と出会い、旅をしてコンパスを育む
人とのつながりが減っているコロナ禍で、私たちはどのように進む道を見つけたら良いのだろうか。
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『ビジネスの未来』にも書きましたが、資本主義は、普遍性が高く、市場の大きな問題を解決していくには優れた仕組みです。時間が経てば経つほど、普遍性の高い問題は解決され、残されるのは、市場が小さく難易度の高い問題ばかりです。
患者数の多い風邪薬は各社がこぞって開発するけれども、希少な難病の薬は先送りされるように。これまでは地理的な拡大をすることで、新しい市場を獲得できましたが、すでに地球上の市場は開拓され尽くしています。
ビジネスの本質的役割を「社会が抱える問題の解決」とした場合、より普遍性が高く、かつ難易度の低い問題、つまり費用対効果の高い問題から取り組むはずです。その結果、普遍性が相対的に低く、難しい問題ばかりが残されます。
市場が小さく難易度の高い問題を解決するには、市場原理に頼るよりも、それぞれの人が目に見える範囲で取り組む方が効率が良い。最近インパクトのある活動をしている人は、目に見えるところからスタートしていると感じます。
例えばリクルートの「スタディサプリ」を立ち上げた山口文洋さんは、統計データを見て事業プランを考えたのではなく、経済的な理由で子どもを塾に通わせてあげられないと嘆く一人親を見て、なんとかしたいという思いから、大学受験カリキュラムを自宅で受講できるサービスを始めました。
人は自分が目の当たりにした問題に心を動かされて火がつく。その火を大きくして、人づてに渡していくことで、変化が広がっていく。
リアルな問題に目を向けて「なんとか助けたい」と思うことが世の中を動かしていく最大のエネルギー源だとすると、現在のようにリモートが普及して、偶然に心動かされる場面が減っていることに危機感を覚えます。
モビリティを高めて、セレンディピティに出合う。立命館アジア太平洋大学学長の出口治明さんはその方法を「人・本・旅」とおっしゃっていますが、コロナ禍ではどうしても二次情報に偏りがちでした。
僕も「人・旅」との出会いを意識的に取り入れていくつもりです。それが「思考のコンパス」を持つために大事なのだと思います。
(聞き手・浜田敬子、構成・渡辺裕子、山口氏写真・伊藤圭)
山口周:1970年生まれ。独立研究者・著作家・パブリックスピーカー。World Economic Forum Global Future Council メンバー。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了後、電通、ボストン・コンサルティング・グループなどで経営戦略策定、組織開発に従事した。著書に『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』『ビジネスの未来』など。