妊婦でも安心して食べられるという「加熱寿司」。
提供:渡辺愛さん
「お医者さんから『おめでとうございます』と妊娠を告げられた直後、『これから10カ月、生ものは食べないでくださいね』と告げられました。
妊娠中は寿司を食べたくても、お腹の赤ちゃんのことを考えるとひとりで我慢するしかなく、街中でもSNSでも寿司屋ばかりが目に入ってくるようになりました 」
2021年5月に第1子となる長男を出産し、現在は育休中の渡辺愛さん(30)はそう話す。
妊娠中の女性は免疫が低下していることから、食中毒への感染リスクが高く、医師から生魚などを食べることを禁止されることが多い。
渡辺さんは大手食品メーカーに勤務。営業やマーケティングを経験していたこともあり、自身の妊娠中、同じように寿司を我慢している妊婦も安心して食べられる寿司を作れないかと思いついたという 。
着想から約1年。渡辺さんは寿司屋と協力し、妊婦が家でも食べられる「加熱寿司」を開発。現在、クラウドファンディングで予約を受けていている。
「0歳児がすぐ横にいる状況での商品開発は、予想以上に大変なことが多すぎて、正直、何度も心が折れそうになりました 」と話す渡辺さん。
そんな渡辺さんを支えたのは、同じような状況に置かれた妊婦たちからの応援だったという。
「禁止されると余計に食べたい」
【妊婦さんもOK!お寿司セット】があったら、買いませんか?食品会社に勤めており、私自身あったら嬉しいを会社に提案したいです。お寿司欲求は妊婦じゃないと分からない!
年の瀬が迫った2020年12月28日、渡辺さんはこんなツイートをした。
渡辺さんは、当時妊娠4カ月。もともと寿司は好きだったが、すっぱいものを食べたくなる味覚の変化に加え、「禁止されると余計に食べたくなる」という心理のせいか、寿司を食べたい思いが「爆発していた」という。
「寿司はだめ 、卵かけご飯もだめ、生ハムもだめ。お酒も当然だめですし、とにかく 我慢を強いられることが多い。
納豆巻きやツナマヨ巻きで我慢していたのですが 、『こんなに寿司を食べたいのは私だけなのかな?』と気になって 、加熱した寿司を作れば喜んでもらえるかなと思ってツイートしました」
「絶対買います」共感の声
このツイートへの反応は、渡辺さんの予想をはるかに上回るものだった。
1000以上のリツイートで投稿が拡散され、5000を超える「いいね」がついた。そして、妊婦や妊娠経験のある女性たちから、熱いリプライ(返信)が並んだ。
「妊娠中『お寿司食べたい!』って何回叫んだか」
「妊娠中特有のお寿司欲求!それ!!」
「広がれ!広がれ!妊婦さんでも食べられる寿司セット広がれ!」
「絶対買います」
「お寿司大好きだから約9カ月本当につらかった…。つわり終わったら禁断症状みたいになってた。妊娠中あったらすごくうれしいやつ」
寿司屋ではなく「家で食べたい」
今回開発した「加熱寿司」は、食中毒リスクを減らすため「中心部の温度が75度で1分間以上」を満たすように調理されている。
提供:渡辺愛さん
「同じように我慢している妊婦がこんなにも多いのかと。解決する意味のあることだと思いました」
当時、都内に住んでいた渡辺さんは、すぐに友人の行きつけだった寿司店を紹介してもらい、共同で「加熱寿司」のメニューを開発。ほっき貝、煮穴子、太刀魚などのネタをそろえた期間限定のセットを寿司屋の店頭で販売したところ、テレビなどで取り上げられたことで話題になり、3カ月で60件以上の予約が入った。
その後、渡辺さんは2021年3月に地元福岡へ移住し、5月に長男を出産。
東京での「加熱寿司」の取り組みを知った妊婦から、「家でも加熱寿司を食べたい」という声も寄せられ、今度は冷凍して配送できる加熱寿司の開発に着手した。
ネタとなる魚介類はすべて、厚生労働省が食中毒のリスクを下げるための目安として示している「中心部の温度が75度で1分間以上」を満たすよう、温度計で管理しながらしっかりと加熱。安全性を高めるため、産婦人科医の監修も受けた。
知人の一言で「心が折れた」
初めての育児と「加熱寿司」開発の両立は、「想像以上のきつさだった」という。
提供:渡辺愛さん
順調に見える「加熱寿司」の開発だが、難しい課題の連続だったという。
協力してくれる寿司屋探しから、安全性を確認するための産婦人科医によるチェック、パッケージのデザイン、資材の調達から広報活動……。
「たとえば食品メーカーなどの組織なら開発や営業など、いくつもの業務が分担しているものを、 初めての育児と並行しながら続けていました。想像以上にきつくてチャレンジングでした」
体力的にも精神的にも追い詰められていたとき、追い打ちをかける言葉もあった。
「知人から何気なく『寿司の開発に時間を使って、赤ちゃんがかわいそう』と言われて、心が折れそうになりました。必死の想いで進めているけど、本当に意味のあることなのかと、心が揺さぶられました」
渡辺さんはその時の気持ちをSNSに投稿した。
「寿司の開発に時間を使って、赤ちゃんがかわいそう」と言われて悔しい。私は毎日息子と沢山遊んで、息子の笑顔で過ごしてる。同時に、自分が出来ることなら全国の妊婦さんの食のストレスを減らせるように加熱寿司で応援したい、それだけです。母は育児以外頑張ってはだめですか・・」
そんな渡辺さんを支えたのも、SNSで寄せれられた応援の声だった。
「このツイートは自分の中で抱えきれずに、ぽろっとこぼしてしまったものでしたが、『自信持って頑張って!』『周りの意見に振り回される必要はないよ』『私も同じことを言われたことがる』などコメントをもらえました。応援してくれる方々のためにも、何とかやり切りたいと思えました」
苦労の末に完成した「加熱寿司」は、タイやサワラ、ウニ、サバやクルマエビなど15の寿司のセットを1人前5900円。クラウドファンディングサイトから注文を受け付けている。
当初のクラウドファンディングの目標金額は、20万円。しかし11月22日現在、すでに197万円以上が集まっており、今は資金をより多く集めることで寿司を急速冷凍できる機械の購入を目指している。
オンラインで取材に応じた渡辺さん。
撮影:横山耕太郎
「加熱寿司」は12月から発送を始める予定で、渡辺さんは「ここまできたら最後まで走り抜けます」と笑顔を見せる。
渡辺さんは2022年春には食品メーカーに復職する予定で、復職後に「加熱寿司」プロジェクトをどう進めるのか、現状では未定という。だが、「私と同じように苦しむ妊婦さんのためになる活動を続けたい」と話す。
「いただいたメッセージの中に、忘れられない言葉があります。『妊娠中にお寿司を食べたいと思うことは何だか悪いことだと思っていました。それが加熱寿司を知って救われました』と。
これからも制約ばかりの妊婦が少しでも解放できるように役に立ちたいと思っています」
(文・横山耕太郎)