特別養子縁組「遺伝で伝えられるものないからこそ」大切にしていること。トライバルメディアハウス社長・池田紀行さん

起業などで自分たちの夢を実現している夫婦にパートナーシップを10の質問で探る「だから、夫婦やってます」。9回目の後編はトライバルメディアハウス社長の池田紀行さん。

妻の麻里奈さんとの10年以上に及ぶ不妊治療を経て、2019年に特別養子縁組で長男を迎えました。そんな夫・紀行さんから見た夫婦の転機や危機とは。

池田麻里奈さん、トライバルメディアハウス・池田紀行さん

—— 出会いのきっかけと結婚の経緯は?

28歳から29歳までの1年間勤めていた監査法人でのグループ内恋愛でした。僕は上場準備コンサルティングの部門にいて、彼女は税務部門。別会社でしたが職場は同じフロアで、パーティションが低かったので、お互いに顔は知っていました。

同僚の女性から「税務部門の女性たちとランチに行くから、池田さんも来ない?」と誘われて行った場にたまたま彼女がいたのが仲良くなったきっかけです。1カ月後には交際を始めて、9カ月後にはプロポーズ。結婚するまで早かったんです。

第一印象は、今と変わらず「屈託なく笑う明るい人」。ひまわりのような笑顔に惹かれました。

トライバルメディアハウス・池田紀行さん

—— なぜ「この人」と結婚しようと思ったのですか?

僕は仕事も恋愛も自分でリードするのが好きなタイプだったので、それまで付き合ってきた彼女も「三歩下がってついてくる」ような大人しいタイプの女性ばかりでした。麻里奈さんには男性に依存するような感じは全くなく、それが新鮮でもあり、心地よく感じたんですよね。

実は過去には結婚を約束していた彼女がいたのですが、「いつか起業したい」と夢ばかり語っていた僕は愛想を尽かされて盛大にフラれた経験があって。そのショックをずっと引きずって、新たに交際を始めても“元カノ”と比較してはすぐに別れる最低な男でした。彼女に求める項目をたくさん並べてレーダーチャートのように評価するような、本当に最低最悪な男だったんです。

麻里奈さんは、そんなつまらないレーダーチャートごと取っ払うような存在でした。

振り返れば、当時の僕は、まだ経済的にも安定していない頼りない男でした。出会った頃に勤めていたコンサルファームは1年勤めたら独立を推奨される慣習だったので、業務委託契約に切り替え。結婚時点での僕の職業は、「フリーランスの独立開業コンサルタント」でした。

そのうち、お世話になっていた方が経営するデザイン事務所の役員になったかと思えば、前職の先輩から「上場準備中のベンチャーを手伝ってよ」と紹介されて転職。結婚してから1年おきに仕事が変わる目まぐるしさでしたが、彼女は特に気にする素振りを見せずに、一貫して「好きにやればいいんじゃない」というスタンスでした。

やるだけやって、ダメだったらしょうがない。なるようになる。自力でボートを懸命に漕いで、行き着いた所がどこであろうと、その風景を楽しめばいいし、どの川に流れ着いてもいずれ大海に通じる。

母親と小さい頃に離別し、幼少期に苦労してきた経験が影響しているのか、そんな腹の据わった潔さが彼女にはあります。

不妊治療で痛感した男女のギャップ

トライバルメディアハウス・池田紀行さん経歴

—— 夫婦にとって最もハードだった体験は? 

やはり、息子を養子として迎えるまでの10年以上に渡った不妊治療でした。

僕たちは、二人とも会話を楽しむタイプの人間だし、毎月の家計や趣味のインテリアをどうするかについては日頃からよく話をしてきたので、「ちゃんと話し合えている夫婦」のつもりでした。

ところが、不妊治療となると意識のギャップは相当大きかった。治療をするたびに肉体的・精神的負担を強いられる女性と比べて、男は経済的負担を気にするくらいでお気楽です。治療をいろいろと試しながらも結果が出ないことに、ジュクジュクした思いを募らせていた彼女の気持ちを、僕は理解しているつもりで全く理解できていませんでした。

「私は母親になりたい」「私たち夫婦にとって……」とIやWeを主語に話していた彼女に対し、僕はいつも「世間は」とか「一般的には」と主語を濁して、無意識に彼女を傷つけていたと思います。そのことに当時は気づけなくて「こんなに話し合っているのに、どうして噛み合わないんだろう」と苦痛を感じ、ますます正面から向き合うことを避けるようになっていました。

起業したばかりで会社を軌道に乗せなければと必死で、仕事も忙しかったという事情もありましたが、長くすれ違いのときを過ごしていたと思います。

—— お互いの自己実現を支援するために、大切にしてきたことは?

大きな転機となったのは、ちょうど10年前、僕が38歳、彼女が36歳のときに経験した「死産」です。3度目の人工授精でようやく着床し、安定期を迎え、妊娠7カ月で起きた不幸でした。

当時の記憶はあまりありません。僕もショックでしたが、彼女の憔悴ぶりは相当のものでした。火葬場で骨を拾い、自宅に帰ったその夜、ソファで肩を寄せ合って二人でいつまでも泣きました。僕もただただ泣くだけで、「彼女を励さなければ」とか「しっかりしよう」という感情すら湧かず、彼女と同じ悲しみの中で溶け合っていました。あのとき、二人の周波数がぴたりと合い、お互いの感情を受け取れるようになった気がします。

その後、彼女が子宮全摘手術をした際に渡された手紙で、「養子を真剣に考えてほしい」という意思を伝えられました。遠い世界の制度だと思っていた特別養子縁組が、急に自分ごとの選択肢になりました。正直、最初は戸惑いました。

人生で何を大切にしたいのか、彼女のストレートな思いが綴られた手紙を読みながら、僕は強く揺さぶられました。不妊治療を続けてきた10年以上もの間、僕は目標どおりに会社を成長させて自己実現を果たしてきた。けれど、彼女はどうだったか。「子どもを産んで育てたい」という夢を何一つ実現していないじゃないか。そして、手術をしてなお「もう産めないけれど育てたい」と僕に伝えている。彼女の自己実現をかなえていこう、という覚悟が決まりました。

準備を整え、養親になるための審査を受けて登録の完了がした1週間後に委託の依頼があり、僕は46歳で初めて父親になりました。

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