なぜ「障がい者」を「障害者」と書くようになったのか。当事者の話を聞くまでわからない「特権」

じぶんごとのWe革命

Francesco Carta fotografo/Getty Images

自分のジェンダー観は、一般的なそれとかなりズレていたかもしれない。我が家は女性が多数派だったし、12年間通った女子校を卒業して進んだ大学の政治学科ではたしかに女性は少数派だったが、厳しいと有名だったゼミに自ら志願した学生の過半数は女性で、テストと面接の結果、合格になった24人中20人が女性だった(ゼミの卒業生名簿を見ると、我が学年はかなり特異だったと言える)。

女性は受付と私だけ、という最初に勤めた保守的な日本メディア企業の支局を除けば、大学院、勤めた先の3社のうち2社も、半々に近いジェンダーバランスを自然に達成していた。独立してからも、自分が関わってきた比較的進歩的といえる出版、制作、文化の現場では、ときおり「男性の中に自分だけが女性」ということもあったけれど、決定権を持つパワフルな女性も溢れていたし、自分自身もニッチな仕事をしていたので、女性であることでとりたてて損をしているような気もしなかった。

一方で自分自身も、男社会の価値観に与して生きてきた。男性たちに負けたくない、そのためには「男性のように」仕事をすればよいのだと本気で考えていたふしもある。

それでも自分の名前や外見はあくまでも女性のそれで、どれだけ働いても、私の存在を本気に取らない男性はいたし、行った現場で「女性か」と言われることもあった。お酌をしない私は「外人」と表現されたり、ニューヨークに暮らしていることを「ご主人のお仕事の都合で?」と言われたこともあった。

働かない選択をし、男性に経済的に依存する女性を密かに蔑んでいたこともある一方で、生まれたときに始まるジェンダー役割やハンデには無頓着だった。

かつて住んでいたマンハッタンのマンションの地上階にあったデイケア(託児所)には、早朝に子どもを連れてきて、夜迎えにやってくる親の圧倒的大半がスーツ姿の女性だった。その様子を目の当たりにし、自分には絶対にできないと考えたことも、子どもを持たない道を選ぶ理由のひとつになったが、そこにある構造上の大問題があることにまでは考えが及ばなかった。

ハッとしたアン・ハサウェイの言葉

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