今週も、早稲田大学ビジネススクールの入山章栄先生が経営理論を思考の軸にしてイシューを語ります。参考にするのは先生の著書『世界標準の経営理論』。ただし、本連載はこの本がなくても平易に読み通せます。
コロナ対策で政治に不満を持った国民が増えた一方、なぜ選挙の投票率は上がらないのでしょうか。入山先生が「エージェンシー理論」でその理由を解き明かします。
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火災保険に入ると火事が増える?
こんにちは、入山章栄です。
日本では今年10月31日、ハロウィンの日に衆議院議員総選挙が行われましたね。投票率は戦後3番目の低さの55.9%。ライターの長山さんは、この投票率の低さが意外だったようです。
ライター・長山
この1~2年、多くの人がコロナ対策をはじめとした政治に不満を持っていたと思います。
だからこそ今回の選挙の投票率は高いのではないかと予想していました。しかし実際の投票率は戦後3番目の低さ。
もしも投票率を上げるのに応用できるような経営理論があれば、ぜひ教えていただきたいのですが。
投票率を上げる理論ではありませんが、なぜ日本の投票率が低いのかを説明できそうな理論がありますよ。「エージェンシー理論」といいます。僕の著書『世界標準の経営理論』の第6章にも詳しく載っていますので、関心のある方は読んでみてください。
エージェンシー理論には、「プリンシパル」と「エージェント」という2人の異なる立場の人物が登場します。まずプリンシパル(主体)は、自分で何か目的を持っています。でも自分ではそれができないので、エージェント(代理人)にその目的を実現するための行為を依頼する。
「こういうことをしたい」と思っているけれど、自分ではそれをできないので、エージェントに「代わりにやってください」と頼んでいる状況です。
仮に住宅火災などを扱う保険会社がプリンシパルだとしましょう。保険会社にとって一番起きてほしくないことは、火災保険であれば、加入者の家が火事になることですよね。
家が火事で燃えてしまったら、保険会社は保険金を払わなくてはならない。火事の件数が少なければ少ないほど収益がいいわけですから、可能な限り火事が起きてほしくない。
しかし問題は、家が燃えないようにしたくても、保険会社にはどうしようもないということです。火事が出ないように気をつけるのは保険会社ではなく、保険の加入者であるお客さん。お客さんに火事を出さないように気をつけてもらうしかない。
つまり、保険会社の代わりに「火の周りには気をつけてくださいね」とお願いするしかないわけです。ですから保険会社がプリンシパルなら、保険の加入者がエージェントと捉えられます。
ところがお客さんは、保険に加入する前は火事を出さないように注意するけれど、保険に入ったらどうなるでしょうか。そう、ちょっと気がゆるみますよね。「いざというときは保険金が下りるから、それほど気をつける必要はないな」となんとなく思ってしまう。
保険会社はお客さんにとにかく注意深くしてほしい。逆にお客さんは、保険に入ってしまったために、火事を出さないようにすることから注意がそれてしまう。双方の関心がずれていき、「目的の不一致」が生じるわけです。
そして保険会社は、加入者(=お客さん)全員の日々の行動に目を光らせることはできません。お客さんが寝る前にガスの元栓を締めたかどうか、知ることは不可能。それを知っているのは加入者だけなので、「情報の非対称性」が生まれてしまう。
この「目的の不一致」と「情報の非対称性」は、保険会社が抱える根本的なジレンマなのです。
エージェンシー問題を解決するのがコーポレート・ガバナンス
では、これを企業ガバナンスに置き換えて考えてみましょう。
「会社は誰のものか」についてはいろいろな議論がありますが、株式会社であれば、少なくともその一部の所有者は株主と言えるはずです。
そして株主をプリンシパルと考えると、企業の業績をアップして株価を上げてほしいというのが目的になります。でも実際には、上場企業などでは多くの株主は自分で経営をしない。代わりに、経営を依頼している経営者がエージェントということになります。
繰り返しになりますが、プリンシパルである株主にとって、エージェントに一番してほしいことは企業の業績をアップして株価を上げること。だから儲からなそうな派手な投資はしてほしくないし、当然ながら贈賄などの不祥事を起こしてもらっては困る。株価が下がりますからね。
ところがエージェントである経営者は、必ずしも株価を上げることだけを考えているわけではありません。なぜなら自分の報酬は株価と100%紐づいていないことが多いから。だから株主と経営者の目的がずれていくのです。
そして株主の多くは少数の株しか持っていない「少数株主」ですから、経営に口を出すことができない。経営者の行動を監視することもできません。だからコーポレートスキャンダルが起きたり、株主が望まないような経営上の意思決定が行われたりすることがある。
そこで、株主の意向と経営者の意向をうまくそろえるためにあるのが、コーポレート・ガバナンスです。「目的の不一致」と「情報の非対称性」をコントロールするための手段として社外取締役や監査役を置くのです。
僕もいろいろな会社で社外取締役を務めていますが、社外取締役になると監査会社から最初に言われることは、「社外取締役は少数株主の代表である」ということです。
つまり個人投資家の代わりに、「この経営者は長期で株価を上げる力があるか」「業績アップして株価を上げるような政策をとっているか」をチェックするのが、社外取締役の重要な役目だということです。
エージェンシー問題を政治に置き換えると
さて、いよいよここからが核心です。今までの議論は民主主義にも置き換えられます。つまり民主主義におけるプリンシパルは誰かといえば、われわれ国民ですよね。
しかし、我々国民が直接政治をするわけではありません。日本は議会制民主主義だから、我々の代わりに政治を行い、法律を作ってくれる人を選んでいるわけです。すなわち国民をプリンシパルだとすれば、政治家はエージェントになります。そのエージェントを選ぶ手段が選挙なのです。
しかし、ここでも「目的の不一致」と「情報の非対称性」という問題が起きてくる。
政治家は選挙前には当選したいので「私が当選したらこんなことをします」といいことを言う。でもいったん当選してしまったら、もう国民の言うことを聞く必要はなくなる。「目的の不一致」です。だから自分たちのやりたいようにやりだす人が出てくる。
そして、国民が政治家の行動をすべてコントロールすることはできない「情報の非対称性」です。われわれ一人ひとりの力は小さいから、ある意味で少数株主と似ている。僕がたった一人で「あの政治家はダメだ」と言っても、その政治家をクビにもできない。だから政治家は好きなことをしてしまう。
日本で特に若い世代を中心に投票率が低い理由は、プリンシパルである国民が「どうせ自分たちの言う通りに政治家は動かないんでしょう」と諦めていることだと思います。少数株主が、会社の経営に口を出そうとは思わないのと同じです。
解決策は「大きなかたまり」になること
ではどうすればこの問題を解消できるのでしょうか。
企業経営の場合は、機関投資家など全体の5%や10%などの株を保有する大口の株主「ブロックホルダー」がいます。彼らの意見は経営者も無視できないので、かなり経営に介入することができる。
これを政治に置き換えてみると、われわれ一人ひとりは一票しか持っていない、小口の株主のようなものです。でも大口のブロックホルダーになったら、影響力を持つようになる。その典型が業界団体です。たとえば医師会や教育委員会、農業関係などの団体は、大量の票田を持っているので、ブロックホルダーに匹敵するくらいのパワーがある。
だからはっきり言ってしまいますが、今回のコロナ対策でも、大事なのは病床数を増やすことだったのに、その対応が後手に回ったのは、医師会からのプレッシャーがあったからではないかと僕自身は勘繰っています。逆に飲食店のほうにしわ寄せが行った理由は簡単で、飲食は業界団体のパワーが弱く、いわば「少数株主」の多い業界だからでしょう。
BIJ編集部・小倉
政治家と国民の間には、企業の社外取締役に当たるような人はいないのですか?
残念ながら、いませんね。だからこそメディアの役割は非常に大きい。メディアは票を投じることはできないけれど、少なくとも政治の世界で何が起きているかを報道して、情報の非対称性を減らすことはできる。場合によっては「世の中にはこういう方向もあっていいんじゃないか」という問題提起をすることもできる。
ただ、いまの日本は特に若い方を中心に、「一票を投じてもどうせ変わらないでしょう」という無力感が強すぎる。だから僕は有権者が団結する機運をつくるのもありかな、と思っています。SNSなどがその手段になり得るのではないでしょうか。
例えば今回の選挙で僕が注目したのは、以前から選択的夫婦別姓を訴えていたサイボウズの青野慶久さんが「ヤシノミ作戦」と称して、選択的夫婦別姓や同性婚を認めない政治家や最高裁の判事を落とそうという呼びかけをTwitterなどを通じて行ったこと。
結果的に今回の選挙で解任された判事はいませんでしたが、かなり反対票が入った。これからは青野さんのようにSNSをうまく使って、政治的な行動を呼びかけるのはありではないかと思います。
BIJ編集部・常盤
今回のお話を伺って、政治家だけでなく国民のほうも、選挙の戦い方を知ったほうがいいと思いました。
「一票が集まって大きなボリュームになれば相手も警戒するし、自分たちの発言力も強まるんだ」と知ってさえいれば、投票前にできることはもっとたくさんありそうです。私たちも丸腰じゃダメですね。
本当にそうです。僕は、おそらく次か、次の次くらいの選挙から、若者の間で「こういう人を当選させよう」という動きが出てくるのではないかと思います。
若者に限らず年配の方でも、社会全体のことを考えている方も大勢いらっしゃると思うので、そういう人たちがデジタルを使ってコミュニケーションをすれば、業界団体とはまた違う、共感をベースにした情報プラットフォームができるかもしれない。
さらにデジタル投票が実現して、若者が気軽にスマホで投票するようになれば、これからの世の中は相当違ってくるのではないでしょうか。
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(構成:長山清子、撮影:今村拓馬、連載ロゴデザイン:星野美緒、編集・音声編集:小倉宏弥、常盤亜由子)
入山章栄:早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)教授。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。三菱総合研究所に勤務した後、2008年に米ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.を取得。同年より米ニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールアシスタントプロフェッサー。2013年より早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)准教授。2019年から現職。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』『世界標準の経営理論』など。