撮影:伊藤圭
NO YOUTH NO JAPAN(以下、NYNJ)代表の能條桃子(23)は、2021年10月の衆院選挙前に各メディアから「若者の代表」として意見を求められ続けた。
人口でも少数派な上に、投票率も低いために若者世代に向けた政策の優先順位は低い。成長の果実が多くの人に行き渡っていた時代を知っている世代と、生まれた時から停滞期しか知らない世代の世代間格差。
それだけでなく、同性婚や選択的夫婦別姓問題など、若い世代が必要としている制度も上の世代によって決められている。能條はそんな問題意識から、「若者世代」としての意見を求められれば、若者の1人として個人の意見を積極的に発信していた。
その一方で、能條は「同世代内の分断」により関心があるという。
生活保護世帯や不登校が身近だった公立中時代
中学時代は私立ではなく、地元の公立中学に進んだ。この時期に感じたことが現在の活動につながる原点にもなった。
RYUSHI / ShutterStock
能條は神奈川県平塚市で育ち、中学までは地元の公立校で学んだ。高校で進学したのは、都内有数の進学校、豊島岡女子学園高校。東大合格者ランキングでも上位に名前が挙がる中高一貫校だ。この進路選択が能條に、人の思考や生き方には環境が大きく影響することを強く刻みつける。
3月生まれの能條は幼少期は他の子どもに比べて成長が遅く、周りより何かできないのは当たり前、という感覚があった。だが本を読むのは好きで、早くから自分の考えを文章や言葉にすることは好きだった。小・中学校時代、「成績がいいことがアイデンティティ」。だがどこかで「これは自分の努力や能力によるものだけでなく、家庭環境によるものが大きいのでは」とモヤモヤする気持ちも抱えていた。
ゼネコンに勤める会社員の父と専業主婦の母の家庭は特段裕福だったという記憶はないが、やりたいと思うことは全て応援してもらえる環境だった。能條は中学時代から家にあった新聞を読み、池上彰の時事問題を解説する番組が好きだった。そんな「知的な好奇心」を後押しする環境だったこと自体、すでに恵まれていたという認識はあった。
「中学時代にニュースの話をできる友達が身近にいなくて……。高校で進路が決定的に分かれてしまった時も、この違いは私個人の努力や能力でなく、親の意識によってつくられている、それでいいのかなと思ったんですね」
中学校には生活保護を受けている家庭の友達や親の事情で不登校になっている子もいたが、高校には「恵まれた家庭の子ばかりがいた」。生活保護という言葉は授業で聞いても、貧困を現実としては知り得ない環境。中学から私立が当たり前の人たちと地元の友達とでは、同じ世代なのに、そこには1本の線が引かれ、接点もない。
「成績は下から数えた方が早かった」高校時代
当時は登山部に所属していた能條。高校は何にでも挑戦できるのびのびした環境だったと話す。
提供:能條桃子
「勉強ができる」というアイデンティティは高校入学と同時に崩れ去った。中学からの内部進学者たちとのレベルの差はとても埋められるものではなかったという。毎朝5時53分の始発の湘南新宿ラインに乗って通うきつい日々で、頑張っても頑張っても成績は下から数えた方が早かった。
「恵まれた家庭の子が集められ、理解のある先生や親たちに囲まれて何にでも挑戦していいという環境はそれはそれで幸せでしたが、もし私が中学から私立に行っていたら、今のような活動はしていないとも思います。成績というアイデンティティがなくなったことも、自分の価値って何かとも考えたし、エリートってこうやって育つんだと垣間見た気がします」
能條は自身のパブリックマインドを育んでくれたものとしてもう一つ、「地域の力」を挙げた。両親だけでなく、近くに住んでいた親戚などたくさんの大人たちに見守られて育ち、その影響で地域の行事やボランティアに早くから参加していた。「自分が生きている社会は、私だけが幸せならいい訳じゃないんだ」という感覚が知らないうちに身についていた。
それでも大学時代、進路には迷っていた。高校時代は父が渡してくれたDeNAの創業者、南場智子の『不格好経営』を読み、経営者に憧れた。グーグルに就職したいと言っていた時期もある。「普通に“いい就職”がしたい」と思っていたし、そもそも慶応義塾大学の経済学部を進学先に選んだのも、嵐ファンで「櫻井翔と池上彰の出身校だった」というのが決め手だった。
勉強漬けだった高校時代の反動で、大学1年目は真面目に授業にも出なかった。冬はスキーサークルに入ってスキー三昧。女子校の反動から、共学ライフを楽しみ飲み会にも参加しまくる「超ミーハー」な日々を過ごした。
資本主義というシステムへの違和感
大学時代、教育系のボランティアでフィリピンを訪れた能條。そこで働く人からも影響を受けた。
提供:能條桃子
その中でもその後に影響を与えた決定的な出来事がいくつかあった。
一つは1年生の夏に友達に誘われボランティアに行ったフィリピンでの経験。ゴミの山で暮らす人たちの笑顔を見て、なぜ日本は物質的に豊かなのに、毎日しんどそうに過ごしている人が多いのかと考えた。教育支援のNPOで活動している現地スタッフに、「何のために大学に行っているの? ちゃんと考えた方がいいよ」と言われたことも大きかった。
大学3年次は選挙インターンを経験したが、周囲の友人たちの反応は冷ややかだった。
提供:能條桃子
3年生の時は若手の国会議員の選挙インターンを経験した。SNSの運用やビラ配りなど、選挙は大人の文化祭のようだった。選挙インターンの体験を同級生に話すと、「意識高いね」「偉いね」と言われるのはまだしも、「新興宗教にでも入った? 大丈夫?」「政治のことをやるとちょっと引く」とまで言われた。
こういう意識のままだとどんどん政治が私たち世代から離れていってしまう。実際インターン先の若手議員も、最初は若い世代に向けた政策を、と話していたにもかかわらず、次第にスピーチの内容が高齢者寄りになっていったように感じた。支持者に高齢層が多かったからだ。
経済学の授業は最初「超つまらなかった」。マクロ・ミクロという視点で経済を分析しても、「現実はこの通りじゃない。労働者の賃金をカットして企業が収益を上げ、景気が良くなるみたいな理論を聞くと、一体誰のための経済なの?」とモヤモヤが募った。経済の仕組みを知るにつれ、「自分が違和感を持っていたのは資本主義というシステムだったのかも」と思うようになった。
「資本主義の全てを否定する訳ではないですが、それがあまりにも大きくなりすぎて、私たちは『市民』という存在より『労働者』『消費者』になってしまった。お金を軸にしていると、政治参加へのモチベーションは起きにくくなる。そもそもみんなが政治参加できる社会にするにはフェアな土壌が前提。それをつくるのは、やはり政治だと思うんです」
結局資本主義では解決できないものを解決できるのは民主主義であり、政治なのではないか。そのためには誰もがもっと政治に参加すること。投票率を上げる活動をしているNPOの勉強会に参加するうちに、北欧諸国、中でもデンマークの投票率が高いことを知り、2週間後にはデンマークの「民主主義のための学校」とも言われるフォルケホイスコーレに申し込んでいた。
デンマークに見た「自分が生きたい社会」
フォルケホイスコーレで学ぶ能條。デンマークにはフォルケホイスコーレが70校前後あるとされる。
提供:能條桃子
フォルケホイスコーレは、哲学者であり教育者でもあるデンマーク人のグルントヴィが「全ての人に教育を」を掲げて1844年に創設した。その後もう1人の創始者とも言われるクリステン・コルが今の「民主主義的教育メソッド」を確立したと言われている。
特徴的なのは、試験や成績が一切ないこと、民主主義的な思考を育てる場所であること、生徒はどこの国籍でもデンマーク政府からの助成を受けられ学費の一部を負担するだけで学べること、全寮制で教師も生徒も共同生活をすることなどが挙げられる。
能條は2019年3月から3カ月間そこで学んだ。慶応での卒業論文のテーマとして「地域社会と子育て政策」を選んだだけに、当初の計画では3カ月間、デンマークの民主主義の根幹にある教育の仕組みを学んだ後は、イタリアの「レッジョ・エミリア・アプローチ」と呼ばれる幼児教育などを視察に行くつもりだった。
だが、「デンマークにハマり過ぎてしまって」(能條)、計画を変更してデンマークにとどまった。現地のNPOや政党、幼稚園や学童、小中学校などアポが取れたところには全て足を運び、インタビューを重ねた。
政党青年部へインタビューした際の能條(写真最右)。留学中は、デンマークの大人たちはもちろん、学生たちにもインタビューを重ねた。
提供:能條桃子
デンマークの何がそこまで能條を惹きつけたのか。
「若い子たちにインタビューすると、日本よりずっとオープンに楽しそうに政治活動に参加していました。政治だけでなく、生徒は学校のルールづくりに主体的に参加していたり、働く人は職場で声を上げたり、声を上げれば社会は変えられると信じている人が多い社会を見て、『自分が生きたいのは、こういう社会なんだ』と思ったんです」
(▼敬称略、第3回に続く)
(▼第1回はこちら)
(文・浜田敬子、写真・伊藤圭)
浜田敬子:1989年に朝日新聞社に入社。週刊朝日編集部などを経て、1999年からAERA編集部。副編集長などを経て2014年から編集長に就任。2017年3月末で朝日新聞社退社し、4月よりBusiness Insider Japan統括編集長に。2020年12月末に退任し、フリーランスのジャーナリストに。「羽鳥慎一モーニングショー」や「サンデーモーニング」などのコメンテーターや、ダイバーシティーや働き方改革についての講演なども行う。著書に『働く女子と罪悪感』。